命の請求書
旧桜町線のホームから、黒い電車は消えた。
線路の奥に残ったのは、冷たい闇だけだった。
さっきまで耳の奥に響いていた車輪の音も、今はもう聞こえない。
古い蛍光灯が、じじ、と不安定に鳴っている。
剥がれかけた路線図。埃をかぶったベンチ。
赤く濡れていた床は、ただの黒ずんだ水たまりに戻っていた。
それでも、陽向の胸にはまだ、あの切符の感触が残っていた。
胸の奥に貼りついた、冷たい紙片。
剥がれたはずなのに、そこだけがまだ痛い。
「天野さん」
鞍馬朱音の声で、陽向は顔を上げた。
朱音は刀を鞘に戻していない。
刃先をわずかに下げたまま、黒い線路の奥を見据えている。
「立てますか」
「はい」
そう答えて、陽向は立とうとした。
けれど、膝に力が入らなかった。
「あれ?」
体が傾く。
「はいはい、無理しない」
倒れる前に、横から腕を掴まれた。
イザナだった。
「無理してないって」
「してる。体も魂もへろへろじゃん」
「まぁ……。確かにハード過ぎたけど」
陽向はイザナの肩を借りて、どうにか立った。
イザナの手は冷たい。
でも、電車の中で掴まれた亡者の手とは違った。
あれは沈んでいく冷たさだった。
イザナの冷たさは、そこにいてくれる冷たさだった。
「……ありがとう」
「ん」
イザナは短く返事をした。
いつもなら、ここで「貸し一個ね」とか「魂一口で許す」とか言いそうなのに、何も言わない。
首元の制御術式環からは、まだ細い煙が上がり、青白い術式の光も、ところどころ途切れているのに、陽向は気付いた。
「イザナこそ、大丈夫?」
「ウチは怪異だし」
イザナの顔が近い。
金色の瞳は、どこまでも深く輝いていた。
「答えになってないって」
「じゃ、ヒナよりマシ」
「比較対象にならないよ」
陽向が笑うと、イザナは小さく笑った。
笑ったけれど、その顔には疲れが見えた。
「新人ちゃん……、やないな。陽向、大丈夫か?」
難波迅が近づいてきた。
軽い調子に戻そうとしているのは分かる。
けれど、その目は線路の奥を警戒したままだ。
「あ、新人は卒業ですか?」
「当たり前やろ、初任務で、あないな派手に乗車するヤツは、当然、新人卒業や」
迅は半分呆れたように笑った。
「乗りたくて乗ったわけじゃないですよ。本気で死ぬかと思いました」
「せやな。けど生還した。そこは大事や」
迅は、陽向の肩をぽんと叩いた。
「よう戻った」
その一言で、胸の奥が少し詰まった。
「……はい」
陽向はうなずいた。
うまく笑えたかは、分からなかった。
ホームの少し離れた場所では、鬼頭烈火が救助した二人を確認していた。
制服姿の女子高生は、壁にもたれて泣いている。
スーツ姿の男性の黒切符の呪いに紫苑が短刀を立てる。ぱきん、という甲高い音とともに黒い霧となって宙に舞った。
二人とも、まだ生きている。ただし、普通の状態ではない。
顔色は青白く、呼吸は浅い。胸元には、さっきまで黒い切符が貼りついていた痕のようなものが陽炎のように残っているのが見えた。
赤黒い、四角の痕。
陽向はそれを見て、無意識に自分の胸元を押さえた。
「魂に刻印されていますな」
朱音が言った。
「切符そのものは剥がれても、黄泉に呼ばれた痕は残る」
「治るんですか」
「魂医療局に回します。早ければ数日。深ければ、もう少しかかります」
朱音の言い方は柔らかい。
けれど、嘘はなかった。
完全に元通りになるかは分からない、という意味だ。
陽向は奥歯を噛んだ。
「助けたのに」
「そやね」
朱音は静かに言う。
「全部を完全に元通りにはできまへん。それでも、あの二人は帰れます」
帰れる。
その言葉に、陽向は息を吐いた。
それだけは、守れたのだと思いたかった。
「烈火、搬送準備を」
「任せろ!」
烈火が救助用の担架を広げる。
動きは豪快なのに、救助者へ触れる手は意外なほど丁寧だった。
「大丈夫だ。もう電車は行った。あとは地上に帰るだけだ」
女子高生が、かすれた声で聞いた。
「……怒られますか」
烈火が一瞬固まる。
それから、豪快に笑った。
「怒られるだろうな!」
「やっぱり、そうなんですね」
「でも、生きて帰って、怒られるなら上等だ!」
女子高生は泣きながら、少しだけ笑った。
陽向はそれを見て、胸の奥が温かくなった。
帰れば、怒られるかもしれない。
でも、帰れる。
それはとても大事なことだ。
凛道は、線路の奥へ狙撃銃を向けたままだった。
背後に立つ八尺様の影が、ホームの天井へ届きそうなほど伸びている。
「凛道さん、裁き烏は?」
朱音が声をかける。
「逃げた」
「追えますか」
凛道はスコープから顔を離さない。
「痕は薄い。直に消える」
「見られていたのは確かですか」
「ああ、間違いない」
凛道の返事は短い。
だが、それだけで十分だった。
裁き烏。
閻魔軍の偵察怪異。
死者の目を持ち、見たものを十王将へ送る。
新人教育の座学で聞いた時は、どこか現実味がなかった。
今は違う。
あの黒い烏は、確かにこちらを見ていた。
終電さんだけではない。
この任務は、最初から誰かに覗かれていた。
「つまり……」
陽向は、ゆっくり言った。
「この事件、ただの都市伝説型怪異じゃないんですね」
久我透真の声が、通信機から返ってきた。
『その可能性が高い』
いつも通り、声は冷静だった。
『現場の黄泉干渉濃度は、D級都市伝説型怪異の基準を大きく超えている。終電さん単体では説明がつかない』
「誰かが後ろにいるってことですか」
『断定はできない』
「でも、疑ってるんですね」
通信の向こうで、短い沈黙があった。
『十王将の関与を疑う』
その場の空気が、また冷えた。
十王将。
閻魔に仕える、十体の大怪異。
その名前だけで、ホームにいる全員の表情が変わる。
「十王将って、そんな簡単に関わってくるものなんですか」
「簡単には関わりまへん」
陽向の問いに、朱音が答えた。
「だから、面倒なんどす」
その時、イザナが線路の方へ歩き出した。
足取りは少し危うい。
それでも、視線だけは線路の奥を捉えていた。
「都市伝説型っぽかったけど、たぶん、後ろにいるの、『都市王』じゃないねぇ」
全員の視線がイザナへ向く。
イザナは、線路の闇を見ていた。
いつもの軽い表情はない。
「終電さんは都市伝説っぽい。けど、あの切符の感じは違うんだよね」
「違う?」
陽向が聞く。
「寿命と魂の行き先を、帳簿みたいに縛ってた」
イザナは首元の術式環を指で弾いた。
「黄泉の乗車券ってより、命の請求書……」
イザナの、その言葉に、朱音の目が細くなった。
「……泰山王」
凛道が短く言う。
久我の通信も、すぐに反応した。
『第七王将・泰山王。寿命と命数を司る十王将。密約、契約、寿命徴収を得意とする』
「だ、第七!? ちょっと待ってください」
陽向は思わず声を上げた。
「初任務でそんな大物の名前が出るんですか?」
「名前が出ただけどす」
朱音は静かに言った。
「本人が出たら、今の私らでは、まともに戦うことも、撤退することも難しいでしょうね」
「もっと怖いです!」
「現場では、怖いことから先に考えるもんですえ」
朱音が陽向に小さく微笑んだ。
「は、はい……!」
陽向は返事をした。
けれど、心臓はまだ速い。
泰山王。
寿命と命数を司る十王将。
その配下、あるいは干渉で、終電さんが黄泉への切符を切っていた。
考えるだけで、胸元の痕がまた痛む。
「ヒナ。顔、死んでる」
イザナが、陽向の顔を覗き込んだ。
「不吉な言い方をしないでよ」
「じゃあ、盛れてない。めっちゃ疲れ顔」
「予想外のことが起き過ぎて、それどころじゃないよぅ」
イザナは少し笑う。
その笑みを見て、陽向は、ほっとした。
たぶん、イザナも無理をしている。
それでも、いつもの調子に戻ろうとしてくれている。
そのことが分かるくらいには、もう少しだけ近くなっている気がした。




