わたしのバディ
『だから、イザナもまだイザナでいて!』
ホームに沈黙が落ちた。
イザナは俯いた。
黒い鳥居が、少しずつ薄くなる。
制御術式環の光が落ち着いていく。
イザナは、ぽつりと言った。
「……うるさ」
その声はとても小さかった。
いつものイザナに少し戻っていた。
「車内からウチのこと説教してくるとか、ヒナうるさすぎ」
迅が大きく息を吐いた。
「新人ちゃん、ようやるわ」
烈火が笑う。
「根性あるな!」
凛道が短く言う。
「魂反応、安定」
朱音は刀を下げた。
「なら、助けに行けますな」
イザナが顔を上げる。
その目は、まだ紅い。
けれど、怒りだけではなかった。
「ヒナ」
イザナは電車を見た。
「今から迎えに行くから、ちょっと待ってろ」
◇
車内では、乗客たちが無言で座席についていた。
ぼそぼそ。
ぼそぼそ。
なにかを話す声が微かに聞こえる。
ぼそぼそ。ぼそぼそ。
ぼそぼそ。ぼそぼそ。
その声は車内のあちこちから聞こえてきた。
「なに? 誰なの? なんて言ってるの?」
陽向はあたりの乗客たちを見回す。
すると、また車掌の影が、ゆっくりと陽向へ近づいてきた。
かちん。
改札鋏が鳴る。
『切符を拝見します』
「車掌さん、しつこい!」
『あなたは自ら乗りました』
「そっちが勝手に乗せたんです!」
『乗車後の途中下車はできません』
「できます!」
『できません』
「できます!」
『規則です』
「そんな規則、誰が決めたんですか!」
車掌の影が止まった。
顔はない。
なのに、何かがこちらを見た気がした。
『規則は、最初からあります』
「違います」
陽向は、息を吸う。
「これは規則なんかじゃない!」
車内の空気が、揺れた。
「帰れなかった人たちの未練です!」
乗客たちの顔が一斉に陽向へと向けられる。
車掌の影の鋏が、かすかに震えた。
「あなたたちは、誰かを黄泉へ運びたいんじゃない」
陽向は胸に手を添えた。
切符と繋がった胸の奥に痛みを感じていた。
「誰かに、一緒にいてほしかったんですよね」
車内の蛍光灯が、大きく明滅した。
さっきまで聞こえていた、ぼそぼそとした話し声が、次第に大きく、はっきりと聞こえてきた。
さみしい。
ひとりはいやだ。
おいていかないで。
かえりたい。
むかえにきて。
「私も心細い時は、誰かと居たい。だから分かります」
車掌の影が鋏を構える。
『理解は乗車意思とみなします』
「勝手にみなさないでください! 理解はするけど――」
かちん。
鋏が鳴る。
陽向の切符が、魂のさらに深くに沈み込んだ。
「ッ、ああっ!」
膝をつく。
胸が冷たい。
視界が暗くなる。
乗客たちの声が、頭の中で大きくなる。
いっしょにいよう。
ひとりじゃない。
こわくない。
つぎは、黄泉。
意識が、徐々に遠のく。
その時だった。
車内の天井に、黒い裂け目が走った。
バキンッ
激しい音を立てて、空間が割れ、黒い爪が突き出てきた。
「ウチのヒナに!」
低い声。
陽向は顔を上げた。
裂け目の向こうに、イザナの紅い目が見えた。
「勝手に切符、沈めてんじゃねぇよ、クソ電車がッ!!」
次の瞬間、車内の天井が大きく裂けた。
黒い鳥居の影が、車内へドスンと鈍い音と共に落ちる。
イザナが、裂けた天井から車内へ飛び込んできた。
制御術式環が煙を上げている。
黒い爪は長く鋭く伸び、背後には黄泉の気配が渦巻いていた。
イザナの目は、まっすぐに陽向を見ていた。
「迎えに来たよ、ヒナ」
陽向は、息を吐いた。
「遅いよ、イザナぁ……」
「うわ、助けに来たのに第一声それ?」
「めっちゃ怖かったんだから!」
「その顔が全部言ってるね」
イザナは笑った。
今度は、いつもの少し悪い笑みだった。
「今、ヒナの魂、ぶるっぶるに震えております」
「実況しないでよ!」
車掌の影が、鋏を鳴らす。
『不正侵入』
イザナが振り返る。
笑みが完全に消え、冷たい圧が立ち昇る。
次の瞬間、黒い爪が、一閃する。
「……うるせえよ、カチカチ君。何回殺されたら黙るか、試してやろうか?」
車掌の影が裂けた。
しかし、すぐに別の影として再生する。
『乗車規則違反』
「規則規則って、だる」
イザナは舌打ちした。
「ヒナ、立てる?」
「う、うん」
陽向は膝に力を入れる。
イザナが手を差し出した。
陽向は、その手を掴んだ。
冷たい。
でも、今はその冷たさが頼もしかった。
イザナは陽向の切符を見た。
「深く入ってる」
「取れる?」
「すぐ取ってやるよ」
イザナの黒い爪が、細い糸のように変わる。
陽向は身構えた。
イザナの爪が、切符に触れた。
瞬間、陽向の胸に鋭い痛みが走る。
「……ッ!」
顔をしかめる陽向にイザナが唐突に言った。
「ヒナ、名前」
「え?」
「自分の名前、言って」
イザナの声は真剣だった。
「切符に持ってかれないように」
陽向は歯を食いしばる。
「天野、陽向」
「公安委員会特殊治安維持部隊、通称、怪異戦線、所属」
「契約怪異……」
「違う」
イザナが言った。
「ウチら、そんなんじゃないでしょ?」
陽向は、痛みの中で笑った。
「うん、そうだね」
「私のバディは、イザナ!」
イザナの手が、一瞬だけ止まった。
それから、少しだけ乱暴に笑う。
「正解!」
黒い切符に、ひびが入った。
車掌の影が叫ぶように鋏を鳴らし、襲い掛かる。
『途中下車はできません』
『不正乗車は許しません』
『途中下車はできません』
「いちいち、うるせえんだよ!規則野郎!」
イザナの爪が車掌の影を切り裂く。
霧散した車掌の影は、切り裂かれても、また集まり始める。
「チッ、やっぱ、こいつには核がない」
乗客たちが一斉に立ち上がり、陽向とイザナの方へ振り向く。
イザナは陽向を背に立ちはだかる。
「ヒナ、影薄先輩からもらった札、まだ持ってる?」
「うん!まだあるよ」
陽向は紫苑にもらった封印札を取り出した。
残り二枚。
「どっかに貼る?」
「ヒナが、一番怖いと思うものに」
「ざっくり!」
「でも分かるでしょ」
陽向は車掌の影を見た。
怖い。
でも、一番怖いのは車掌じゃない。
この電車そのものだ。
帰れなかった人たちの未練。
誰かを乗せ続ける規則。
終わらない終電。
陽向は、車内の床に札を力いっぱいに叩きつけた。
「一番怖いのは、ここッ!」
朱色の文字が光る。
車内全体が大きく揺れた。
「取るよ、ヒナッ!」
イザナが黒い切符を引き剥がそうとする。
痛みが走る。
陽向は叫んだ。
「私は天野陽向!!」
自分の名前を言う。
「怪異戦線の新人隊員!」
切符が剥がれる。
「イザナのバディ」
ぱきん。
黒い切符が割れ、欠片は黒い霧となって散った。
床に叩きつけた札から光が走る。
車内に、風が吹いた。
赤い蛍光灯が、白く戻る。
乗客たちの顔から一瞬だけノイズが消える。
泣いている人。
驚いている人。
笑いかけている人。
その中の一人が、陽向を見て何かを言った。
声は、聞こえなかった。
しかし、その瞳は決して怯えたものではなかった。
次の瞬間、車内が激しく揺れた。
イザナが陽向の腕を掴む。
「脱出するよ!」
「どうやって!」
「なんでか分かんないけど、ちょっとやそっとじゃ、ヒナの魂、焦げないっぽい!」
「そうなの!?」
「ウチにも分かんない! だから、出力上げてくよ!」
イザナの黒い爪が鋭く伸び、鈍い輝きを放つ。
「黄泉斬りッ!!」
電車の扉に斬りつける。
硬い鉄扉が、まるで紙のように引き裂かれる。
ホームの光が車内に差し込む。
そこには朱音たち、第一部隊の面々がいた。
「飛ぶよ、ヒナ!」
「うん!」
二人は裂け目へ飛び込んだ。
背後で、車掌の影が鋏を鳴らす。
『次は、黄泉』
その声と同時に、黒い電車が大きく加速した。
裂け目を抜け、陽向とイザナはホームへ飛び出る。
「来たでッ!」
その声を残して、風が爆ぜた。
次の瞬間、迅が二人を受け止めていた。
「大丈夫か、新人ちゃん!イザナ!」
「はい、辛うじて生きてます!」
「ナイスキャッチー、イタチせんぱーい」
「ようやったな、二人とも!」
烈火がスーツ姿の男性を担ぎ、女子高生を背に庇っている。
紫苑が赤い水溜まりを影で押さえ、凛道が電車の先頭を狙っている。
朱音は、黒い電車を見据えていた。
「本体を倒せなかった……」
陽向は走り去る電車を見て、呟いた。
その言葉の通り、電車はホームを離れていく。
その窓の中で、車掌の影がこちらを見ていた。
顔はない。
だが、確かに笑っていた。
その背後。
離れていく電車の屋根に、一瞬だけ別の影が見えた。
黒い鳥、『裁き烏』。
人間の目を持つ不気味な烏だった。
『――ぽ』
次の瞬間、銃声が鳴り響いた。
凛道の一撃。
だが、銃弾が届く前に、烏はすでに消えていた。
「……見られていた」
凛道が言う。
朱音の表情が険しくなる。
「裁き烏……。敵さん、終電さんだけやなさそうどすな」
イザナは、陽向の隣で膝をついた。
首元の制御術式環から、まだ煙が上がっている。
陽向は慌てて支える。
「イザナ!」
「だいじょぶ、だいじょぶ」
「大丈夫に見えないよ!」
「制御かかってんのに、無理に出力上げたから、変な反動が来たっぽい」
「無茶しないでよ、イザナぁ……」
陽向が心配そうにイザナを見つめると、イザナは何かに気付き、目を見開いた。
「アアッ!! 爪が割れてんじゃん!!」
黄泉斬りを使った右手の爪が一本、ヒビが入っていた。
「うわぁ、最悪だよ~、ウチの自慢の爪がぁ……」
イザナが陽向に振り向く。
「ヒナのせいだかんね! 責任取ってよね!!」
「え、ちょ、ちょっと待って! わ、私のせい!?」
「ヒナのせい! お詫びに魂、齧らせろ!」
「えぇえぇっ!?」
イザナは笑った。
その顔はとても柔らかい笑みだった。
「……ねえ、ヒナ」
「うん?」
「あんたの魂」
イザナは陽向の胸元を指でつついた。
「やっぱ変な味する」
「なんか怖っ! この流れでそれ言う?」
「うん」
イザナは、少しだけ目を伏せた。
「でも、最初より……なんか、食べにくい」
「食べなくていいってば!」
「そうじゃなくてさ……」
イザナは言葉を探すように、少し黙った。
「雑に扱えないって意味」
陽向は、何も言えなかった。
「だってさ、ウチら、バディでしょ?」
イザナが満面の笑みで陽向を見上げた。
「うん、そうだね! 私たちはバディだ!」
陽向も笑った。
ホームの奥、黒い電車が闇へ消えていく。
アナウンスが、最後に一度だけ鳴った。
『本日の運行は、終了しました』
それきり、旧桜町線は静かになった。
走り去る電車を見つめながら、陽向は感じていた。
分かってる。
終わっていない。
あの電車は、孤独な魂を乗せたまま、まだ走り続ける。




