まだ私だよ
車内は、ひどく静かだった。
がたん。
ごとん。
電車はまだホームに停まっているはずなのに、音だけは走り続けている。
けれど、その音は遠く、時折、歪む。
窓の外には、旧桜町線のホームが見えるはずだった。
しかし、窓の外には何もなかった。
真っ黒な水面のような闇。
その奥に、紅い月だけが浮かんでいた。
第一部隊の隊員たちも、イザナも車窓の向こうには見えなかった。
「……ここ、どこ」
陽向は、床に手をついて体を起こした。
体が重い。
胸が冷たい。
自分の呼吸が、白く曇っている。
車内の蛍光灯は赤く点滅していた。
つり革が揺れる。
誰も触れていないのに、一定の間隔で、きい、きい、と鳴る。
座席には、不自然なノイズ混じりの乗客たちがいた。
青白い顔。
濡れた髪。
黒く沈んだ目。
古いスーツ。
制服。
作業着。
部屋着。
病衣。
みんな、こちらを見ている。
けれど、誰も動かない。
誰も話さない。
ただ、口だけがゆっくり動いていた。
かえりたい。
かえれない。
のったら、いっしょ。
いっしょなら、さみしくない。
陽向は、頭上を見上げた。
黒い切符が貼りついている。
「これ……」
剥がそうと、指が触れた瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。
「痛っ!」
思わず手を離す。
切符はただ浮いているのではなく、魂に貼りついていた。
陽向は唇を噛んだ。
「落ち着け。落ち着いて、考えろ」
声に出す。
自分の声が聞こえるだけで、少しだけ安心した。
任務中。
黄泉行き電車に乗せられた。
生存者一名は救助済み。
もう一名はまだホームにいる。
先輩たちもホームにいる。
自分は車内にいる。
イザナは外にいる。
――イザナ。
その名前を思った瞬間、陽向は気付いた。
契約の奥に、細い糸がある。
冷たくて、黒くて、でも確かに繋がっている。
「イザナ、聞こえる?」
返事はない。
ただ、遠くでちりん、と鈴の音が聞こえた気がした。
車内の奥。
連結扉の向こうから、車掌の影が現れた。
顔はない。
古い制服。
長い腕。
錆びた改札鋏。
かちん。
鋏が鳴る。
『切符を拝見します』
頭の中に、声が響いた。
陽向は警棒を構えた。
「見せません」
『切符を拝見します』
「これは私のじゃありません」
『切符は発行されました』
「勝手に発行しないでください!」
『乗車意思を確認』
「乗車の意思なんてありません!」
『白線の内側に立ちました』
「立ってません!」
『魂が応じました』
「応じてません!」
『帰りたいと、思いました』
陽向は、息を止めた。
車掌の影が、顔のない顔でこちらを見る。
『帰りたい』
『怖い』
『助けてほしい』
『誰かに迎えに来てほしい』
声が、陽向の中に入ってくる。
『その願いは、乗車資格です』
車掌が、かちり、と鋏を鳴らす。
「違う」
陽向は警棒を握りしめた。
「帰りたいからって、黄泉に行きたいわけじゃない!」
『同じです』
「全然違う!」
陽向は腹の底から叫ぶ。
乗客たちの顔が、ゆっくりこちらを向く。
無数の口が動いた。
ちがわない。
かえれないなら、おなじ。
だれもむかえにこないなら、おなじ。
ひとりなら、おなじ。
声が増える。
頭の中が、ざわざわと埋まっていく。
陽向の中で何かが切れた。
「ごちゃごちゃうるさいッ! 私は黄泉になんか行かないし、帰るべき場所はちゃんとあるッ!」
――その時。
胸の奥の糸が、ぐい、と引かれた。
乱暴で、強引で、でも知っている気配。
『ヒナ』
イザナの声が、かすかに聞こえた。
陽向は顔を上げる。
「イザナ!」
陽向はあたりを見回した。
『勝手に乗ってんじゃねぇし』
返事は一瞬だけだった。
けれど、確かに聞こえた。
その声は、怒っていた。
でも、陽向に怒っているのではない。
「乗りたくて乗ったんじゃないよ……」
陽向は少し俯いて呟いた。
声が途切れた。
それでも、陽向には分かった。
まだ、イザナと繋がっている。
今はまだ細い線であったとしても、それが、陽向の心の拠り所になっていた。
車掌の影が、鋏を鳴らす。
『まもなく発車致します』
車内の空気が、一気に重くなる。
『お客様は、座席へお戻りください』
「戻りません」
『座席へ』
「戻らないって言ってんの! しつこいな!」
陽向は警棒を構えた。手は震えている。それでも、しっかりと立っていた。
帰る。私は絶対に帰る。
心だけは、絶対に折られない。
陽向はそう強く思った。
◇
その少し前。
ホームでは、発車のベルが鳴り響いていた。
今にも動き出そうとする車体に、イザナの爪が食い込む。
「勝手に出発しようとしてんじゃねぇよ、クソ電車が!」
黒い爪が、車体の外装を裂いた。
しかし、完全には切り裂けず、赤い火花が散って、爪は弾かれる。
「クソッ、出力制限なんぞなければ、こんな雑魚、秒で潰せるっつうのに」
イザナが舌打ちをした。
「……ヒナのやつ、勝手に乗ってんじゃねぇし」
「イザナ、出力を抑えなはれ!」
朱音が叫ぶ。
「……あ? お前、それどういう意味?」
イザナの背後には、黒い鳥居が何本も浮かんでいた。
制御術式環が激しく明滅している。
首元から、細い煙のようなものが上がっていた。
「黙れよ、鞍馬朱音。殺すぞ」
イザナの声が低い。
朱音の目が細くなる。
「黙れまへん。あなたが暴走したら、天野さんごと黄泉に落ちます」
「もう落ちかけてる」
「だから冷静に」
「冷静?」
イザナが笑った。
その笑いは、ひどく冷たかった。
「自分の契約者が、勝手に切符切られて、黄泉行きに乗せられて、あの世にまっしぐらな、この状況で……」
黒い爪が、さらに伸びる。
「それでもなお、冷静でいろと? お前ら人間の方がよっぽど冷酷だな、鞍馬朱音」
空気が軋む。
イザナを中心に空間が凍るように黒く染まっていく。
久我の声が通信に入る。
『イザナの出力、制限値を超過。第零部隊より強制遮断を――』
「やめろ」
凛道が短く言った。
通信の向こうで久我が止まる。
『黒瀬副隊長。何を』
「今、遮断すれば、天野が戻れない」
『暴走危険度が上昇している』
「見えている」
凛道は狙撃銃を構えたまま、電車の先頭を睨んでいた。
「天野の魂反応も、俺にはまだ見えている」
烈火が線路際に立ち、車体を掴もうとしていた。
しかし、黒い電車の周囲には見えない膜がある。
黄泉との境界。
触れようとするたび、籠手がじゅう、と音を立てる。
「くそっ、熱いのか冷たいのか分からんな!」
烈火が歯を食いしばる。
「だが、止める!」
「烈火さん、無理に掴まんといて!」
迅が風をまとって車両側面へ走る。
「先に扉こじ開ける!」
ダガーに風刃を乗せ、閉じた扉へ斬りつける。
金属音。だが、刃は通らない。
「硬すぎやろ、コイツ!」
紫苑の影が、電車の下へ伸びる。
線路の隙間から車内へ侵入しようとするが、途中で弾かれた。
紫苑の体が小さく揺れる。
「影が、入らない」
イザナと対峙していた朱音が呟いた。
「黄泉側に半分沈んでますな」
朱音を睨むイザナは呟いた。
「半分?」
唇が吊り上がる。
「なら、こじ開ければいい」
「イザナ、何を!」
朱音がイザナの前に立ちはだかり、制止する。
「どいてろ。臆病者のお前に用はない、鞍馬朱音」
イザナの影が広がる。
黒い鳥居の奥に、もっと深い闇が見えた。
「どきまへん」
朱音は刀を構えたまま、イザナの前に立つ。
「……殺されたいのか?」
イザナの紅い瞳が睨む。
「あなたが天野さんを助けるために暴れるなら、止めはしません」
朱音は静かに言った。
「けど、あなたが天野さんを見失うなら、うちが止めます」
イザナの目が、朱音を見る。
紅い瞳。
その奥に、黄泉の底のような闇が沈んでいる。
「……ウチが、ヒナを見失う?」
「怒りで黄泉を開けば、あなたも終電さんと同じどす」
朱音の声は柔らかい。
だが、刃のように鋭かった。
「黄泉へ誘うだけの怪異になる」
朱音の言葉に、イザナの爪がぴくりと動いた。
「……だからなんだ。こっちはやっと見つけた契約者なんだよ」
その瞬間、陽向の声が、かすかに響いた。
『イザナ!』
全員が息を呑む。
電車の中からではない。
契約の糸を通じて、イザナの内側から響いた声。
『イザナ、聞こえる!?』
イザナの表情が変わる。
怒りで歪んでいた顔が、ほんの少しだけ戻る。
「……聞こえてるよ、ヒナ」
『私、まだ大丈夫だよ!』
「大丈夫なわけないじゃん」
『でも、まだ私だよ!』
その言葉に、イザナは目を見開いた。
まだ私だよ。
それは、陽向らしい言い方だった。
何の根拠もない。
強がりで、無茶で、でも本気の声。
『だから、イザナもまだイザナでいて!』
ホームに沈黙が落ちた。
イザナは俯いた。
黒い鳥居が、少しずつ薄くなる。
制御術式環の光が落ち着いていく。
イザナは、ぽつりと呟いた。
「……んだよ、ヒナ。いちいち、うるさ」




