8.話しても良い場所
学生相談室は、図書館の裏手にあった。
白い廊下。
静かな空気。
壁際に置かれた観葉植物。
真白は入口の前で立ち止まる。
予約はした。
でも、本当に来てよかったのかは分からない。
“もっと大変な人が来る場所なんじゃないか”
そんな考えが、まだ頭の中に残っていた。
「和泉田さん、どうぞ」
穏やかな声に呼ばれ、真白は小さく頭を下げる。
カウンセラーの女性は四十代くらいだった。
柔らかいベージュのカーディガンを着ている。
部屋にはティッシュ箱と、小さな時計。
思っていたより普通の部屋だった。
「初めてのカウンセリングって緊張しますよね」
「……はい」
真白は椅子に座りながら答える。
沈黙。
何を話せばいいのか分からない。
するとカウンセラーが静かに言った。
「無理に整理して話さなくても大丈夫ですよ」
その言葉に、少しだけ息が抜けた。
最初の面談で、真白はほとんど「大丈夫です」を繰り返していた。
実習で少し疲れたこと。
考え込みやすいこと。
それくらいしか話せない。
本当はもっと色々ある。
でも、言葉にするのが怖かった。
「和泉田さんは、“頑張ること”に慣れている感じがしますね」
カウンセラーが言う。
真白は曖昧に笑った。
「昔から、あんまり人に頼るタイプじゃなくて」
「頼れなかった?」
真白は一瞬黙る。
“頼れなかった”。
その表現のほうが近い気がした。
二回目の面談。
六月の雨の日だった。
真白はぽつぽつと家の話をした。
母が早くに亡くなったこと。
父が感情を出さない人だったこと。
妹の面倒を見てきたこと。
「ちゃんとしないと、家が回らない感じがしてました」
言いながら、自分でも驚く。
そんなふうに考えていたのか、と。
カウンセラーは急いで答えを出さなかった。
ただ、静かに聞いている。
「和泉田さんは、子どもの頃から“支える側”だったんですね」
その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。
「ゆいゆい」へ向かう足取りも、以前とは少し変わっていた。
利用者の話を聞きながら、真白は時々、自分のことも考える。
“この人も、ずっと頑張りすぎてきたのかもしれない”
そんなふうに思う瞬間が増えた。
以前の真白は、“助けなきゃ”が強かった。
でも今は少し違う。
相手を「問題」としてではなく、“人生を生きている人”として見られる瞬間がある。
夏休み前。
講義後、教授が真白を呼び止めた。
「最近、実習記録の書き方が変わりましたね」
真白は驚く。
「そうですか?」
「以前より、“相手を理解しようとしている”感じがします」
教授は微笑む。
「福祉職は、知識だけでは続かないんです」
窓の外では蝉が鳴いていた。
「自分自身を知ることも、大切な勉強ですよ」
帰宅すると、妹がキッチンで麦茶を飲んでいた。
「あ」
目が合う。
以前なら、そのまま無言で終わっていたかもしれない。
でも妹が先に言った。
「……大学どう?」
真白は少し考える。
「忙しい」
「ふーん」
妹はグラスを置く。
「でも前より、“死にそうな顔”してない」
真白は思わず笑ってしまった。
「何それ」
「そのまんま」
妹も少しだけ笑う。
ほんの短い会話。
でも真白は、不思議と嬉しかった。
夜。
次回のカウンセリング予約確認メールを見ながら、真白は思う。
昔の自分なら、
「相談するなんて弱い」
と思っていたかもしれない。
でも今は少し違う。
人は、一人で生きるようにはできていない。
「ゆいゆい」で出会った人たちも。
利用者も。
支援者も。
みんな、誰かとの関わりの中で生きていた。
真白は窓を開ける。
湿った夜風が部屋に入ってくる。
“話してもいい場所”がある。
それだけで、人は少し呼吸しやすくなるのかもしれない。




