4.うまく話せなくても
「おはようございます……」
五月の土曜日。
真白は少し緊張しながら、「ゆいゆい」の扉を開けた。
「おはようございます」
スタッフの女性が穏やかに笑う。
「今日からですね。気負いすぎなくて大丈夫ですよ」
その言葉に曖昧に頷きながら、真白は室内を見回した。
テレビでは朝の情報番組が流れている。
窓際では利用者の男性が新聞を読んでいる。
奥のテーブルでは女性二人が折り紙をしていた。
静かだった。
病院とも学校とも違う空気。
「じゃあ、最初は利用者さんと普通に話してみましょうか」
スタッフにそう言われ、真白の心拍数が少し上がる。
“普通に話す”。
それが一番難しい。
真白は窓際の男性に近づいた。
四十代くらいだろうか。
少し猫背で、スポーツ新聞を読んでいる。
「あ、あの……こんにちは、今日からボランティアで来た学生の和泉田真白です。お隣いいですか?」
男性は顔を上げた。
「ああ、学生さん?へえ」
それきり沈黙。
真白の頭が真っ白になる。
何を話せばいい。
天気?
大学?
趣味?
焦るほど言葉が出てこない。
すると男性が先に口を開いた。
「緊張してるねえ」
「……分かりますか」
「分かるよ。俺も人と話すの苦手だし」
男性は少し笑った。
その瞬間、真白の肩の力が少し抜けた。
昼前には、利用者たちと一緒にテーブルを囲んでいた。
話題はばらばらだった。
コンビニの新作スイーツ。
昔のドラマ。
プロ野球。
最近の天気。
真白はうまく会話を回せなかった。
でも、不思議と責められる感じはなかった。
むしろ、「そこにいる」だけで自然に輪の中に入っていく空気があった。
彰人は利用者の女性と楽しそうに折り紙をしている。
その姿を見ながら、真白は少し安心する。
帰り際、スタッフが声をかけてきた。
「どうでした?」
真白は少し考え込む。
「……うまく話せなかったです」
するとスタッフは笑った。
「“うまく話す”って、意外と重要じゃないんですよ」
「え?」
「沈黙があってもいいし、話が途切れてもいい。安心できる相手って、“会話が完璧な人”とは限らないんです」
真白はその言葉を反芻する。
安心できる相手。
自分は今まで、“ちゃんとしなきゃ”ばかり考えてきた気がする。
週明けの大学。
の講義後、教授が学生たちに声をかけていた。
白髪混じりの、小柄な教授。
話し方は穏やかだが、時々核心を突くことを言う人だった。
「ボランティア行った学生、いますか?」
何人かが手を挙げる。
真白も少し迷ってから手を挙げた。
教授は頷いた。
「どうでした?」
周囲の視線が少し集まる。
「……思ってたより、“普通”でした」
教室が少し静かになる。
教授は興味深そうに目を細めた。
「“普通”というのは?」
「もっと、特別な場所だと思ってました。でも、テレビ見たり雑談したりしてて……なんというか、生活の場所なんだなって」
教授はゆっくり頷く。
「そうですね。精神保健の領域では、“治療”だけではなく、“地域で生活する”こと自体が大事なテーマになります」
それから少し間を置いて続けた。
「精神疾患があっても、その人の人生がなくなるわけではありませんから」
真白はその言葉に少し息を止めた。
“その人の人生”。
病気の説明ではなく、人として見る感覚。
「ゆいゆい」で感じた空気と、少し似ていた。
講義後、彰人が隣に来る。
「真白、ちゃんと発言してたじゃん」
「いや、変なこと言った気がする」
「でも分かる。“普通”って思った」
彰人は笑う。
「なんか、“支援される人”って感じだけじゃないよね」
真白は頷いた。
利用者たちは、それぞれ好きなものがあって、苦手なものがあって、冗談を言って、疲れて、笑っていた。
当たり前のことなのに。
真白は、少しずつ自分の中の“偏見”に気づき始めていた。
そして同時に。
自分自身も、“ちゃんとしていないと価値がない”と思い込みすぎていたのかもしれない、と。




