返らずの町
俺は孫権の下へ行くと、小声で喋りかけた。
「大将、ここに留まるのはまずいです。王力使いがおりました」
孫権の表情が変わった。
現在、王力使いで世に名が出ているのは、劉備、曹操、袁紹、孫策、馬騰の五人だ。
左慈のような例外がまたいるのかもしれない。ここが閉鎖的ならすぐにでも出ていき、安全な場所まで行く必要がある。
立ち止まった孫権が少し唸り声を上げた。
「確かに、それは良い話ではないな。仕方がない。また出直そう」
「それが良いかと。行きましょう?」
俺がそう言っている途中に異変が起きた。
うっすらと霧がかかってきたのだ。すぐに門を開けて町の中へ出ると、そこには一寸先すらも見えぬような濃い霧が立ち込めていた。
「馬岱よ。これが王力か?」
「おそらくとしか言えません。これだけ霧が濃いと町の散策すらもままなりませんね」
「だが、これだけ霧がかかっていると、戻ろうにも戻れんぞ?」
孫権の言う通りだ。町に不慣れなものもあるが、これだけの霧の中を歩いたら、確実に迷子になってしまう。
王力をここで何故使ったのか。考える中で、一番厄介な言葉が脳裏に浮かんだ。
「大将、我々をここから帰さない。もしくは」
「命を狙われるか?」
俺は孫権の顔すら見えなくなりつつある状況で頷いた。
「陸遜。離れぬようにこっちへ」
「はい。念の為、剣を抜いておきます」
「ああ、気をつけてくれ。できるだけ荒事にはしたくない」
まずは状況を知ることが肝要か。俺はツバメを呼びだすと、霧の中を駆けさせた。
視界と嗅覚を共有していて分かったのが、この町を霧が覆っているということであった。
ツバメが霧を抜けた。町の中以外は霧に包まれていない。ならば、ツバメを戻して先導させれば出られるか。
もはや手を伸ばしても、自分の手すら見えなくなりつつあった。
「大将、陸遜、俺と手を繋いでください。このまま町を抜けます」
「助かる。見えないがどうやって歩けばいい?」
「匂いは隠せません。匂いを辿りながら、一歩ずつ進みましょう。
ツバメを先導させる。ツバメの鼻が頼りだ。亀のような早さだが、確実に町の外へと向かいつつあった。
そのとき、どこからか年寄りの笑い声が聞こえた。
「孫権よ。これで分かったであろう? 我らが町は中立。誰の指図も受けぬし、誰にも媚びぬ」
「恫喝か?」
「もう二度と我々に関わらぬというのならば、逃がしてやろう。だが、まだ懲りぬようならばこの中で命を落とすことになるぞ?」
「中立だと? 笑わせてくれる。自分達に都合の良いように生きているだけではないか。これでお前達に対する疑念が深まったというものだ」
「引かぬか……。ならば、少し痛い目を見てもらうかの」
年寄りの声が消えると、俺とツバメが共有していた視界が突然晴れた。
俺達の前には以前、濃密な霧に覆われている。ツバメを振り返らせると、そこには俺達の周囲にのみ霧に包まれていた。
「大将、まずいです。俺達の周りにだけ霧がかかっております」
「ならば、走って突破するのみよ」
確かに、霧がかかっているのが俺達だけならば、走れば霧の中を脱出できる。俺は陸遜の手を引き、駆けだした。
だが、行けども行けども霧から抜けることはなかった。ツバメの視界でとらえたのは霧が俺達の動きに合わせて移動しているということだ。
いや、移動というよりも、霧に囚われていると言った方が正しい。
幸いなことにツバメには霧が掛かっていない。ツバメを使って霧で視界を奪われている中を突破するのだ。
そのとき、ツバメの視界に何かが動いたのが見えた。
それは建物の屋上を走る人影だ。弓を持って俺達に的を絞っている。
矢が放たれた、その刹那、孫権が悲痛な声を上げた。
「大将!?」
「肩に矢が刺さった」
「なんですって!?」
矢を放ったやつの姿は見えている。ツバメを使えば、すぐに殺すことは可能だろう。
だが、ここで人死にまで出してしまえば、この町の者達は余計に閉鎖的になるに違いない。
悔しさで歯噛みをしていると、どこからか老人の声が聞こえてきた。
「少しは痛い目を見れたかの?」
「少しだと? この痛みが少しというならば、俺はお前を斬りたくなるぞ」
「やはり孫策も、お主も、血は争えんようじゃの。力で押さえつけようとする。何故、我々を静かに過ごさせてくれないのだ」
「王力を使ってまで、何を守っているのかは知らぬが、それは反逆と捉えられるぞ」
虚空に向けて孫権は語った。老人の笑い声が響く。
「良かろう。ここでお前達を抹殺し、死体を隠せばそれで終いよ」
「正体を見せたな。貴様こそ、力で押さえつけようとしているではないか」
「我々の生活のためには多少の犠牲はやむなしじゃ」
再び、弓を構えた男が見えた。
次は撃たせない。ツバメを使って、男の片腕にかみついた。
これで弓矢は使えまい。少し安心していると、今度はツバメの視界が奪われた。
「王力使いか。悪いがお前も見過ごせないのぉ」
見過ごす気などなかったろうに。ツバメの嗅覚ならば、近づく者達の匂いをかぎ分けられる。
その時、複数の匂いが漂ってきた。その距離は俺達からそう遠くない。
ツバメの嗅覚が頼りだ。匂いの元を辿り、迫ってくるものに嚙みつかせる。
「ぎゃー!」
「ぐわっ!?」
「痛いー!」
俺達以外の匂いのする者達を手当たり次第に噛んでいく。
「ご老人、俺の王力を使えば、この霧の中でも戦える。こちらは帰してもらえれば、これ以上の攻撃は控えよう」
「確かに今の状況だと厄介よな。良いじゃろう。霧を解く」
老人が言った瞬間、視界が明瞭になった。
言った通り、俺達を帰してくれるようだ。
孫権が苦々しい表情で声を荒げた。
「こちらの呼びかけに応じず、この待遇。忘れはせぬぞ」
「ほっほっ。強がりを言うておるわい。お主らが諦めぬというのならば、こちらも相応の対応をとるしかあるまいな」
「ご老体。名前を伺いたい」
「ふむ……。于吉。それが儂の名じゃ」
「于吉だな。その首、洗って待っていろ」
孫権は言い放つと、街の外へ止めた馬に跨った。
俺達も慌てて、その後を追う。
「大将。矢傷の治療が先決です。近くの村で手当てをしましょう」
「ああ。王力を隠し持っていた、か。ここはただの町ということではなさそうだな」
「考えるのは後にしましょう。陸遜、先に村に行って。治療の準備をしてきてくれ」
「承知しました」
陸遜が馬を走らせ、近くの村の方角へと向かった。
「話の通じぬ相手が出てきたか。この場合はどうするのが良いのだろうな」
「大将の天下取り。それを阻む者は出てくると思ってはいました。ここの町のことは無視するということはできないでしょうか?」
「他の村や町が協力し、和解に応じてくれている。特別扱いもできんだろう」
「そう……ですね」
多くの者達の笑顔が見たい。それが孫権の天下取りだ。
だが、武力に打って出られたら、避けようのないことかもしれない。
于吉。謎の老人と戦うことになるのだろうか。未知の王力持ちといかにどのように戦うのか思案しなければならない。
俺達には苦い敗北だった。




