忘れない人
野盗に啖呵を切ってから数日間、孫権は建業の書庫に引きこもっている。
俺はというと、朝は長江解決団の面々に武器の扱いや稽古を行い、昼からは村を周って御用聞きのようなことをしていた。
問題となっていた野盗も長江解決団に入ったので、現在団員は十名となった。
「大将は今日もお見えにならないのですね」
陸遜が汗をぬぐいながら聞いてきた。
「大将なりに何か考えがあってのことだと思う。俺達はそれまで大将がやりたかったことをやるだけだ」
「そうですね。私も少しずつ武器の扱いに慣れてきた感じがします」
「慣れ始めが一番怖いことを忘れないようにな」
「肝に銘じます」
陸遜はそう言うと、木剣で藁人形を相手に打ち込みを始めた。
この中では全琮と謝旌が武芸については飲み込みが早い。陸遜と朱然は先の二人には少し劣るが、十分に光るものを感じる。
連れてきた野盗の一味は武器を扱えはしたが、素人の腕前だったのでしっかりと鍛え上げている最中だ。
そろそろ稽古を切り上げて、昼食を食べようかとしているときに孫権が顔を見せた。
「皆、すまなかった。しばらくほったらかしになってしまった」
「大将、もう良いのですか?」
朱然の問い掛けに孫権は頷いた。何をしていたのか聞かない辺りが、朱然と孫権の旧知の間柄が伺える。
俺は孫権が何をしていたのか分からないため、質問を投げる。
「大将は何をしていたのですか?」
「それは追々分かることだ。建業を出て長慶に向かうぞ」
長慶とは建業からしばらく南に下ったところにある街だ。
「ならば、昼食を食べてから行きましょう。腹が減っては戦はできぬです」
「おお。そうだな。俺がおごるから、しっかり食べてから行くぞ」
◇
結局、何故、長慶に行くのか孫権から聞かされないまま、南へと馬を走らせた。
朱然が何か分かっていそうだが、孫権が教えようとしないのだ。周りから聞くのは止めておいた方が良いだろう。
日が傾きかけた頃、長慶へと着いた。
俺達は馬を降りて、孫権の後を追った。
孫権が向かう先にあるのは役所だった。役所に入ろうとすると、二人の兵士に止められた。
「何用があって、ここに来た?」
「年貢の相談事があってな。陶信という男がいるだろう? 取り次いでもらえるか?」
「何者か名乗ってからだ」
「歩陳の使いと言えば、問題ない」
兵士たちは訝しんでいるが、確認のため役所の中に入って行った。
聞いたことのない者達の名前が出てきて俺は困惑気味に聞いた。
「陶信って誰ですか?」
「ここ周辺の年貢の徴収官だ」
「では。歩陳とは?」
「建業にいる役人だ」
俺が首を傾げていると、兵士の一人が役所の中から戻ってきた。
「中に通してよい、ということだ」
「ならば、俺と馬岱で行こう」
「剣は置いて行ってもらうぞ」
「無論だ」
孫権は腰に佩いていた剣を預けたので、俺も倶利伽羅を兵士に手渡した。
何故、俺が連れていかれるのか分からないが、孫権に考えがあってのことだろう。
通されたのは小さな部屋で、中には身なりのよい男が一人座っていた。
「陶信だな」
「歩陳様の使いの者と聞いたが?」
「ああ、そんな話だったな」
「何?」
陶信が孫権を見る目に疑いの色が浮かんだ。
それを意に介さぬように、孫権は陶信の前に座った。
「ここのところ年貢の徴収が厳しいとの声を聞いてな? 何か知っているのではないか?」
「歩陳様の使いの者とは嘘だな? 衛兵を呼ぶぞ? さっさと去れ」
「まあ、聞け。悪い話ではない。お前が余計に徴収した年貢の流れは分かっている。それを懐に入れているのが歩陳ということもな」
低い声で孫権が言った。確信を持ったような物言いに、陶信の表情が変わった。
「何を馬鹿なことを言っている。私はただ――」
「知っているぞ? お前が使っている役人。たしか、宝楽だ。そいつを使って取り立てをしているようではないか」
「なっ!?」
「叩けば、まだまだ出てくるぞ? 年貢の徴収に抗議した呈俊を鞭打ちにして殺したな。他にも聞きたいことはあるか?」
孫権がつらつらと言葉を並べ、それにつれて陶信の顔がどんどん青ざめていく。
もしかしたら、数日こもっていたのは、年貢の徴収に関する流れを追っていたのか。
孫権が身を乗り出して、小声で言う。
「歩陳とお前の関係は十分に分かっている。隠そうとしても、年貢の流れはすべて覚えている。それに関する者達のこともだ」
「な、なにが目的だ? 金か?」
「ふん、金などいらん。お前達がため込んだ年貢を徴収した者達に返せ。それと年貢の徴収については正規の料率で行うようにしろ。それが正しく行われれば、今回の件は不問にしてやろう」
「そ、そのようなことが――」
「できぬとは言わせぬぞ? 建業にいる周文が聞けば、喜んでお前達を処分してくれるだろう」
「お、お前、どこまで知っている!?」
狼狽している陶信が言うと、孫権は腕組みをして答える。
「すべてだ。俺が調べ、読んだことすべてを覚えている。どれだけ繕おうとも、どこかにほころびがでてくるものだ。お前達のやってきたことを白日の下に晒せば、どれだけの者があぶりだされるかもな」
「くぅっ……」
「良いな? どの仕事よりも優先してやれ。その流れが見えなかったら、次はこうはいかぬぞ?」
孫権はそう言うと、立ち上がり部屋を出て行った。俺は慌てて、その後を追う。
「大将、聞いていいですか?」
「なんだ?」
「どうして、告発しないのですか?」
「一番泣く者が少なく済むからだ。陶信をつるし上げ、歩陳まで引き出せば、相当の人数が処罰されるだろう。だが、そこには不正だと分からずにやった者もいる。その者達まで泣かせたくはない」
孫権は足を止めて、振り返って俺の目を見つめた。
「甘いと思うか?」
「甘い、と思う自分もいます。ただ、大将の器の大きさが分かった気もします」
「そう思ってくれたのなら良い。先ほど、言ったな。読んだことすべてを覚えている、と」
先ほどの陶信とのやり取りの中で出てきた言葉だ。俺は頷いた。
「俺は忘れることができない。一度見たもの、聞いたこと。そのすべてが頭の中に入ってしまう」
「それは忘れられない、ということですか?」
「そうだ。俺には多くの喜びの記憶もあれば、大きな悲しみの記憶も抱えている。だから、俺は悲しむ人が見たくない。大勢の者達に笑っていて欲しい。これが俺なりの天下取りの方法だ」
孫権が微笑むと、俺の胸に拳を軽く当てた。
「ここに刻まれたものが多い者は、強くなれると思っている。お前の中にもあるだろう? 刻まれた想いが」
「大将……」
「これで俺はまた一つ強くなれた。こんなことでしか、俺はお前達子分に強さを見せられない。それをお前に知ってほしかった。最初の子分としてな」
「十分、あなたの強さが知れました。大将と出会えたこと。それはきっと俺を強くしてくれると思います」
「そうだと良いのだがな。よし、今宵は宴だ。長江解決団の初勝利を祝ってな」
「はい!」
その夜。孫権の器の大きさがなせた勝利に、皆が酔いしれたのは言うまでもなかった。




