心に秘めて
審端を襲撃し、成公英が書いたと思われる誓約書を手にした日の翌日には、俺達は長安を離れていた。
冥達は韓遂の居城に向かい。俺は荊州に戻ることにした。
もし、成公英の筆跡と一致したのが分かったとしても、韓遂を殺すのは容易ではないからだ。
居城に忍び込み、暗殺をするとなるとかなりの用意が必要になるだろう。それに俺が馬家の者だと分かれば、両親や親族に迷惑が掛かる。
そのようなことがあってはならない。韓遂を殺すのであれば、大義名分が必要だ。
それに今、涼州は落ち着いている。その中で、仮に暗殺に成功したとしても、その後は韓遂の後釜を狙った者達で荒れるだろう。
それは俺の本意ではない。多くの人が犠牲になるような方法は取りたくなかった。
必ず、機会は訪れる。そう信じて、俺は馬騰の命令通り、勉学に勤しむことにした。
荊州へ帰る足取りもどことなく軽く感じられる。浮かれる訳にはいかないが、前進したことが心から嬉しいのだろう。
小蘭。君の仇はきっと取る。何年かかったとしても。
今は雌伏の時だ。俺は戦いに備えて、ありとあらゆる努力を重ねよう。
それが復讐の一番の近道と考えて。
◇
荊州に入り、新野にある自宅へと帰ってきた。
二月以上離れていたことを考えると、懐かしさを覚えてしまう。
部屋の空気を入れ替え、埃を拭きとって、前の暮らしに戻る準備ができた。
あとは預けた物を取りに行こう。
俺は諸葛亮の屋敷へと向かった。門を叩き、馬岱と名乗ると使用人の少女が出迎えてくれた。
「馬岱様、お久しぶりです」
「久しぶりだね。諸葛亮殿は?」
「今の時間は読書をされているので、部屋におられます」
「中に入れてもらっても良いかな」
「もちろんです」
少女とやり取りをし、屋敷の中へ入る。
部屋へ案内されると、少女が諸葛亮の声を掛けた。
「孔明様、馬岱様が訪ねてこられました」
「ありがとう。馬岱殿、お久しぶりです」
「お久しぶりです。お変わりないようで安心しました」
俺が挨拶すると少女は奥へ引っ込んだ。
諸葛亮の前に俺は座ると、深々と頭を下げた。
「無事、帰ることができました。ご心配をおかけしたこと、申し訳なく思っております」
「頭を上げてください。ご無事に帰ってくることができて、私は嬉しいです」
「諸葛亮殿……。何をしてきたのか聞かれないのですか?」
俺の問いかけに、諸葛亮は微笑で答えた。
「あなたが帰ってきた。それだけで十分です」
諸葛亮の優しさが伝わってきた。再び、俺は頭を下げた。
「馬岱殿からお預かりしていた剣をお返ししましょう。それで全ては元通りです。良き隣人として、良き友人としていてください」
「頭を下げることしかできない自分が恨めしいです。そのようなお言葉をいただき、感謝しかございません」
「馬岱殿は大げさすぎます。また共に勉学に励みましょう」
「はい。共に磨きましょう」
諸葛亮と話すことで、今まで張りつめていたものがゆっくり解けていくような気がした。
自然と笑みがこぼれ、諸葛亮を笑いあった。
◇
司馬徽の塾に戻って、三月が経った。
俺の生活は元通りになった。徐庶や龐統、諸葛亮と語らい、仲を深めていった。
講義が終わり、門下生達が一人、また一人と去っていく中、一人の男がこちらに近づいてきた。
壮年の男は身なりが整っており、それに負けないくらいに涼やかな顔立ちをしていた。
その男の視線が俺に向いた。
「失礼。こちらが司馬徽先生の塾と聞きましたが、間違いないでしょうか?」
「はい。司馬徽先生に御用ですか?」
「お願いしたいことがありまして。お目通りを願えるか聞いていただけないでしょうか?」
「聞いてきます。あ、自己紹介がまだでした。私は馬岱 賢正と申します」
「これは失礼を。私は魯粛 子敬と申します」
「魯粛殿ですね。しばしお待ちを」
俺は塾の傍にある司馬徽の家へと向かった。
昼食を取っていた司馬徽が俺に気づいた。
「馬岱か。どうかしたか?」
「先生に御用がある方が来られております。魯粛殿と申されておりました」
「魯粛? ふむ。儂になんのようかのぉ。少し待ってもらえるよう、伝えてもらえるかの?」
「承知いたしました」
俺は塾に戻って、魯粛に司馬徽の言葉を伝えた。
魯粛は礼を言うと立ったまま外にいたので、塾の中に入るよう促した。
「馬岱殿は司馬徽先生の門下生でございますか?」
「はい。とはいっても、まだ一年ほどの若輩者ですが。あ、かしこまらずにお話いただいて大丈夫ですよ」
「そう言っていただけると助かります。足を崩しても良いかな?」
「どうぞ。おくつろぎください」
魯粛は正座からあぐらに変えると、しげしげと俺を見つめてきた。
「馬岱殿は書生とは思えぬ。家は武門の出かな?」
「よく分かりましたね」
「当たりか。私も武芸に通じるところがあってね」
「そうなのですね」
魯粛と軽いやり取りをしていると、司馬徽がゆっくりとした足取りでこちらへ来た。
俺と魯粛は居住まいを正し、頭を下げた。
「良いぞ、良いぞ。魯粛、と言ったかな? 君は孫策殿に仕えていたと思うが、何故ここに?」
「私のような者をよくご存じで。此度は先生に孫策様の元へ来ていただきたいのです」
「ほう? 仕えろ、という話ではなさそうじゃの?」
魯粛は頷いた。司馬徽ほどの高名な学者はそうはいない。それなのに仕えるのではないというと、どういう話なのだろうか。
「先生に講義をしていただきたいのです。我らにそのお知恵を授けていただきたく参りました」
「なるほど。良いぞ、と言いたいところじゃが、孫策殿の下には高名な者達がいると聞く。儂の教えは不要ではないか?」
「そんなことはございません。荊州の知識は我々で学べないところが多い。短い期間でも良いのです。我らに力を貸してはいただけないでしょうか?」
魯粛の熱の入った言葉に、司馬徽は悩ましそうに唸り声を上げている。
孫策がいる呉までの道のりは長い。司馬徽も決めかねるところがあるのだろう。
「魯粛よ。包み隠さずに教えて欲しい」
「はい。なんでしょうか?」
「お主らが欲しているのは戦の知恵であろう?」
司馬徽の問いかけに、魯粛は少し言葉を詰まらせたが、意を決したように口を開いた。
「仰る通りです」
「ふむ。狙いは曹操、といったところか。良いぞ良いぞ」
「孫策様は劉表と対峙しておりますが、今は膠着状態。次なる目的として、曹操の領土を狙っております」
「ほほお。北の袁紹に南の孫策か。これはこれは、曹操も厳しくなりそうじゃわい」
司馬徽は笑って答えているが、とんでもない話に立ち会ってしまった。
魯粛は俺の心中を察してか、目くばせをしてくれた。去っても良いということだろう。
「先生、私はそろそろ――」
「決めたぞ。馬岱、共に呉へ向かおう」
「えっ? 何故、私が?」
「お主は腕が立つ。それに知識についても貪欲じゃ。呉の知恵者たちと語れるよい機会と思わぬか?」
それは確かに魅力的だが、どうしたものか。
呉は水軍に長けていると聞く。涼州では学べない知識だ。それに孫策と会える機会があるかもしれない。
小覇王と呼ばれる孫策に会えば、更に俺の力を高めることができると思う。
これは話を受けることが自分を磨くためになりそうだ。
「先生がそう仰るなら、お供いたしましょう」
「良いぞ良いぞ。魯粛よ。それで良いかの?」
「はい。お供についても了承を得ております。馬岱殿、先ほどの話は内密に」
「心得ております」
「では、後日、正式にお迎えにあがりますので、しばらくお待ちを」
魯粛はそう言うと、塾を後にした。
成り行きで呉に行くことになったが、これも新しい出会いが生まれる機会と考えよう。
俺はまだ見ぬ地に思いを馳せた。




