裏切り
セミナーから帰ってきた私はしばらく腑抜けた状態だった。治樹から「セミナーどうだった?」と聞かれて「楽しかった」と答えることも「成果があった」と答えることも出来ず、治樹を不安がらせた。
成果があったのか自分でもよくわからなかったが、セミナーの報告を藤枝さんにしたら、岩佐と話が出来たことに、上出来! と言っていた。宮永さんとはセミナー以降連絡を取り合わなかったが、藤枝さんにはいろいろと報告をしていたようだ。
藤枝さんが電話口で囁くような声で聞いた。
「宮永と何もなかったの?」
「何もありません!」ちょっと声を荒げて答えた。
藤枝さんが「まあ、そんなに怒らなくても」と言って笑った。
その日の藤枝さんは上機嫌だったので、金曜日、宮永さんから連絡があって、母親の状態があまりよくないと聞いた時は驚いてしまった。
ケータイに宮永さんからの着信があった時、傍に治樹がいたので電話をとらなかった。常にバイブレータになっているので、治樹には気づかれなかった。いつものように治樹がお風呂に入っている時にこちらから掛け直す。
「これから会えないか?」
藤枝さんの母親の容態について説明した後、いきなりそう言った。
私は即効無理だと断った。こうして電話を掛けているのでさえ、慎重になっているというのに、金曜日の夜にいきなり家を出て行くなんて、既婚女性の事情をまったくわかっていない。宮永さんは仕方ないと言って、実は明日の読経会に出てもらって、ファイルを手に入れる作戦を実行したかったんだが……と説明した。藤枝さんの母親のこともあるから急ぎたいという宮永さんの気持ちはわかったし、私も同じ気持ちだったが、今日聞かされて明日というのは心許ない。しかし、出来るか出来ないかは聞いてみてから判断しようと思った。
「会うのは無理だけど、電話で説明できない?」
「ちょっと長くなるけど、盛崎さんの状況が許せば……」
私はお風呂場に注意を向けながら、宮永さんの作戦を聞いた。明日実行に移すその作戦は少し危険な気がした。私が正直にそう言うと、「そうだな、ちょっと早急過ぎたな」と言ってあっさり引き下がったので面食らった。
「次の読経会にしよう。もうちょっと作戦を練るよ。また連絡する」
そう言って一方的に電話を切った。
私は電話を終えた後、なんだか後味が悪くなり、先ほど聞いた作戦をもう一度頭の中でシミュレーションしてみた。そうしたら、この作戦が意外と簡単に思えてきた。私は急いで宮永さんに電話を掛けた。
姉と最寄り駅で待ち合わせをして神奈川東支部に向かった。姉は上機嫌でいつもよりお洒落な格好をしていた。胸には翡翠のネックレス。私は前にも見たそのネックレスが気になって質問した。
「ああ、これ? 通販で買ったの。でもね。これって凄いのよ! 身に付けてからいいことばっかり」
私はその手の話に懐疑的で、いつもなら「ふ~ん」で済ますところだったが、私の中の何かが反応した。
「どこで手に入れたの? もしかして、謙翔会と関係あるの?」
「ネックレスは売ってないでしょ。数珠なら売ってても。謙翔会に入る前に買ったのよ」
私は狙いが外れてがっかりした。
支部に入り、いつものように、袈裟をかけ、講堂に向かう。その時、後ろから声を掛けられた。
「盛崎さん」
マナミさんだった。
「この後時間ある? 前に約束した仏像の件で」
私は待ってましたとばかりに元気良く返事したいのを抑え、
「えっと……、そんなに時間は取れませんけど」と控えめに言った。
「そんなに掛からないわ。あなたにとっていい方法を考えたの。読経が終わったらロビーの待ち合いブースに来て。あ、そうだ、セミナーどうだった? 楽しかったでしょ? その話も聞かせてね」
マナミさんは屈託のない笑顔で言い、いつもの指定席に行ってしまった。
「私にとっていい方法か、そんな商売はないだろう」と私は意地悪く呟いた。傍で姉が心配そうに見ていた。
「有里ちゃん、そんなわけだから、先に帰ってて」
読経が終わって、ロビーに向かう途中、姉にそう告げた。
「教子、なんでそんなに仏像がほしいの?」
「有里ちゃんだって、そのネックレスつけたら幸せになったって言ったじゃない。それと同じことだよ」
姉は反論できなかったようで「これは二、三万だし……」と小さな声で言った。金額の問題じゃないってこと、姉はわかってない。でも、金額で買う買わないが判断できるほどには姉はまともだ。
姉を送って、しばらくしてマナミさんがロビーにやってきた。
「ごめんなさい。遅くなって」
髪を一本にまとめて、きれいな首筋が肩ぎりぎりまで顕になっているマナミさんに、女の私でもドキッとするものがあった。二人で例の別棟に向かいながら、マナミさんが話しかける。
「セミナー楽しかったでしょ?」
「はい。堂ヶ島の夕日が素敵でした」
マナミさんが期待した答えではなかったため、それ以上この話は続かなかった。
「この前、いろいろプライベートなこと話しちゃったけど、あれ内緒にしてね」
「もちろんです。言われなくても」そう言いながら、旦那さんに話してしまったことがどう影響するだろうかと考えてしまった。
前回と同じ二階の部屋に通された。
「ちょっと、待ってて。今日は仏像の持ち主に会わせてあげる」そう言って部屋から出て行ってしまった。
私は緊張で手に汗をかいていた。大きな鞄を足下に置き、準備をした。十分程経ってから、岩佐と一緒にマナミさんが戻ってきた。
「お待たせしてごめんなさい。こちら岩佐さん」
なるほど、岩佐が仏像の持ち主ってことになっているのか……。
岩佐が会釈をしながら「どうも。君だったんだね。この仏像を買いたいって言ってたのは……」と言った。
「盛崎と申します。セミナーではお世話になりました」私は立ち上がって、会釈を返す。
「そっか、セミナーで会ってるわよね」
マナミさんがうっかりといった調子で言った。
「セミナー楽しかったでしょう?」
マナミさんとまったく同じことを言った。
何か違う返事をしようと思い、「はい。勉強になりました」と答えたが、その返事に岩佐も取り付く島がなかったようで、またもや会話はそれで終わってしまった。
岩佐はいきなり例の仏像を鞄から出して、説明を始めた。
「セミナーでも話したけど、この仏像はね、普賢菩薩と言って、延命長寿の徳を司る仏さまなんだ。特に女性の往生を助けると謂れている。あなたのお母様に贈るものとしてはこれ以上ない代物だよ。サイズは小さいけど造形は最上級品と言える。銅に金メッキを施してあって、純金が10gも使われているんだよ。この冠の部分の造形はすばらしいだろう? 手に取ってみる?」
手渡されたが、元々購入する気はないから、変に瑕を付けたなどと言われないように、慎重に手にし、早くお返ししたかった。
「それから……」勿体ぶった調子で続けた。「これは五体しか作られていなくて、一体は、そう、君に紹介してくれた、藤枝さん? が持っていて、彼女はこれを手にしてから病気が回復したといって、大層喜んでいたよ。それもそのはずでね、この仏像は持ち主の悪い気を吸い取ってくれるんだよ。信じられない? もう一例を紹介しよう。大阪で昨年起きた強盗殺人事件覚えてる? 二十代の女性が刺されて亡くなったあの痛ましい事件。実はね、あの犯人、最初別の家を物色していたんだよ。しかしね、なぜか家に忍び込んだのにすぐ出ていってんだ。それからあの事件の家に行った。なぜだかわかる? 最初入った家にはこの仏像があったんだ。そこにも若い女性が住んでいたんだけど、この仏像のお蔭で災難を逃れたんだよ」
私は話を聞いていて胸がむかむかした。これは完全に霊感商法だ。そして口からでまかせを言っている。藤枝さんがこれを購入して病気が治ったというのは私の作り話だ。私はそれでもこの話に乗る姿勢を見せた。
「そんなに凄いものなんですね。高過ぎて諦めかけたけど、やっぱりほしいです」
岩佐は、調子に乗ってきた。
「本当はね、これ三桁するんだけど、あなたのようなお若いご婦人には、そうそう自由になる金額ではないでしょう? だから八十五万円でお譲りすることにしたんですよ。これ以上安くすることはこの仏像にも失礼にあたるのでこの金額が妥当なんですよ」
呆れる理論だった。それになんだかバカにしているような物言いだ。
「でも、やっぱり、その金額でも……とても……」私は困っているようなフリをした。
「もちろん、一括で払えとは言いませんよ。本当はこういう売り方はしてはいけないんだけど、私が立て替えることにして、私に月賦でお支払いしていただければ結構です」
なにが結構だ。私は内心で毒づいたが、表面では笑顔を作って答えた。
「ありがとうございます。それなら私でも買えそうです」
「なら、決まりだね。書類を出すから記入してもらえるかな」
私はここで、宮永さんが話した作戦を思い返した。
「あの、その前に、藤枝さんが買った仏像がほんとにこれなのか、確かめたいんです。なんか違う気がしてきて」
岩佐が露骨に困った顔をした。マナミさんのほうに目を向け、なにやら合図をした。マナミさんが隣の部屋に行った。私は黒いファイルを手にして戻ってきてくれることを祈った。
しかし、予想に反して持ってきたものはノートパソコンだった。岩佐はパソコンを立ち上げ、カチャカチャとキーボードを打ち始めた。
「藤枝……下の名前は?」
「紗登子です。糸偏に少ないの“さ”に“と”がのぼるに子供の“こ”です」
私は藤枝さんにいろいろと確認していた。
「ああ、この人か」と岩佐が言った。
「いろいろ買ってくれてるよ。仏像だけでなく」
いいカモだった。と続くような口振りだった。
「買った仏像を見せていただけますか」
「仏像だけでもいくつか買ってるね。ああそうだ。これをプリントしたファイルがあったな」マナミさんに向かって言った。
マナミさんが黒いファイルを隣の部屋から持ってきた時には、ホッとした。パソコンでは持ち出せない。たとえ持ち出せたとしてもパスワードが設定してあるに違いない。
マナミさんがパラパラとファイルを捲る。
「これね。あら? 違う仏像ね」
マナミさんがファイルを私に見えるように置くと「これは個人情報だから、本当は見せられないものだけど、今回は特別ね」と言った。藤枝さんの母親が買った仏像はあのカタログにあった中でも大きいものだった。他にも二つ買っていたが、私が選んだものとは違っていた。私は一番小さいものを何も考えずに選んだのだ。これで次の作戦を実行できる。
「この仏像ならまだ一体あるよ。値段はもう少し高くなるけど。たぶん病気が治ったっていうのはこの仏像だろう」
岩佐は勝手に決めつけた。
「それを見せてもらえますか? 実物を見ないことには。安いものではないし……、納得して買いたいんです」
「それはもっともだね。ちょっと待って」
岩佐がケータイを取り出して、誰かに電話をかけた。電話口に出たのは女性のようだった。
「カタログの三十二番。そう、釈迦如来像。ある? どこに? すぐ来て」
電話を切って、私に向き直り、にこやかに言った。
「君はラッキーだね。最後の一体。ここにあったよ」
耳にタコが出来る台詞だった。
しばらくしてケータイが鳴った。
「わかった。今行く」
岩佐がマナミさんに指図した。マナミさんが取ってくるようだ。案外そっちの方がいいかもしれない。
岩佐はマナミさんがいなくなると、私に対して馴れ馴れしい口調で話しかけた。
「今ね、海外でのセミナーも考えてるんだよ。どこだったら行きたい?」
あの内容のセミナーだったら場所はどこでやろうと関係ない気がしたが、話の腰を折るのもなんなので適当にハワイと返事をした。あの内容だったら、ハワイだろうが行くつもりはないが……。
丁度マナミさんもいないので私はずっと疑問に思っていたことを聞いた。
「なぜ、マナミさんは今回のセミナーに参加しなかったんですか?」
「彼女はあまり、外泊するのが好きではないんだよ。今回に限らずセミナーにはほとんど出ていないよ」
「そうなんですか」
外泊するのが嫌い――。
これ以上質問すると怪しまれる気がしたので話題を変えることにした。ここから先は宮永さんのシナリオその1だ。
「えっと、今回のセミナーって会報誌とかに載るんですか?」
「そう。毎回セミナー報告として載せるよ」
「私、会報誌持ってないんです。定期購読とか出来るんですか?」
「会員になってないの? どこかに会報があったな。ちょっと待って」
岩佐は奥の部屋に向かった。その前にパソコンは律儀に電源を落としていた。
今しかない! 私は鞄から持参した黒いファイルを出し、テーブルに置かれたファイルを鞄に入れた。三秒もかからなかった。後はマナミさんが戻ってくる前に一刻も早くここから逃げ出さなければ――。私は二分後にケータイが鳴るようにタイマーを設定した。
岩佐が会報を手に戻ってきた。その瞬間ケータイが鳴った。
「はい。え? ……病院はどこ? うん、わかった。すぐに行く」
私はケータイを耳から外して、深刻な面持ちで岩佐に告げた。
「すみません。母親が倒れて病院に運ばれたって連絡が……。せっかく、用意していただいたのに、ごめんなさい。また次の機会でいいですか?」
岩佐はそれじゃあ仕方がないといった感じで了解した。
「早く行ってあげたほうがいい。出口はわかる?」
「はい。ここは二回目だし、大丈夫です。すみません。失礼します」私は急いで部屋を出た。
やった! やったぞー! 私は心の中で思いっきり叫んでいた。
支部の敷地から出ると私は直ぐさま宮永さんのケータイに連絡を入れた。
「やったな! すごいぞ! 今から溝の口に来られるか? そこで待ち合わせをしよう」
「溝の口?」
「そっから電車で一本だろ? 俺んちに招待するよ。さすがにバーじゃまずいからね」
バーより、宮永さんの自宅の方がよっぽどまずい気がしたが、とにかく溝の口に向かった。あのファイルが偽物だと気づくのは時間の問題だろう。私はとにかくここの支部から離れたい一心で駆け足で駅に向かった。
溝の口の駅に着くと、改札口で宮永さんが待っていた。私は駆け寄って胸に飛び込みたい気分だったが、気持ちを抑えて宮永さんに歩み寄った。
宮永さんは私を見つけると、笑顔になって近付いてきて、左手で私が持っていた鞄をひょいと取り上げ、そのまま私を抱擁した。
「よくやった! ノリコ」
私は抱擁されたことに驚き、次に名前を呼び捨てにされたことに驚いた。
「行こう! ここから十分くらい歩くけど」
次の瞬間には私の前をスタスタと歩き始めた。あれは彼流の挨拶だと解釈した。
「今名前で呼んだ?」
「ん?」宮永さんがこっちを向く。
「ノリコって言っちゃダメ? 盛崎さんって言いづらいんだよ」
「いいと思う」私は嬉しくなった。
「ところで、大疑問なんだけど、宮永さんの自宅なんか行ったら、オウンゴールみたいにならない?」
「面白い例えだ。けど、心配御無用。だいぶ前から別居してるんだ。彼女がここに来ることは絶対ないよ」
もう、そこまでいっていたんだ……。それでも宮永さんはマナミさんを愛していると思うとせつなくなった。
「ここの11階」
綺麗なマンションだった。元々二人で住んでいたのか、それとも宮永さんが別居するために借りたのかはわからなかったが、聞く気はなかった。
宮永さんが急に後ろを振り向いた。
「どうしたの?」
「いや、気のせいか……」
宮永さんがなんでもないと言うので、私はそれ以上気にしなかった。
「おじゃまします」
「どうぞ、そのスリッパ履いて」
ホテルのような生活感のない部屋か、あるいは男の独り身にありがちな汚い部屋かを想像していたが、そのどちらでもなかった。生活感があってそこそこ片付いている部屋だった。
「いつからここに住んでるの?」
私は言ったすぐ後で、この質問はよくなかったと後悔した。
「一人で住み始めたのは二年前。実はここは新居として買ったんだ。だけど、買った当初から彼女はこのマンションでは眠れないって、不眠症になってしまった。仕方なく前に住んでいたマンションにまた戻った。彼女はそこでしか安心して眠れなくなってしまった。
今でも彼女はそこに住んでいるよ」
私は岩佐が言っていた、マナミさんは外泊が好きではないという話を思い出した。
「たぶん、このマンションに移ってすぐに、俺が出張で二週間くらい家を空けたのが原因。会社の女との浮気を疑い始めたのもこの頃。ここに移るまでは幸せだったってよく言ってたよ」
私はそんな話を聞くつもりもなかったのに、つらい告白をさせてしまったことに申し訳なく思った。
「よし! 確認しよう!」
気を取り直すように、大きな声で言う。
ダイニングテーブルにファイルを広げた。やはり購入者リストであった。あいうえお順にファイルされていて、買った人のプロフィールと購入した品物、そして金額も書かれていた。気になったのはプロフィール欄に(セ)に丸とか(通)に丸、(上)に丸といった、後から書き加えたような手書き文字だった。
宮永さんは藤枝さんの母親のページを見て、突然「よっしゃ!」と叫んだ。
「どうしたんですか? 何かすごい手がかりでも?」
「ぜんぜんすごくない。これはただの購入者のリストだ。これだけじゃ違法性は説明できない」
確かに、品物と金額が記載されていて、それが法外に高い値段だとしても、高く売ったというだけで売った人間を捕まえることは出来ない。
宮永さんは自分の鞄から布で包まれた箱を出してきた。それを慎重に開け、出てきたものは、私が今日見てきた仏像の1.5倍ほどの大きさの黄金の仏像だった。
「これは藤枝のお母さんが持っていた、たった一つの仏像だ。藤枝から借りてきた。お母さんはいろいろな品物を買っても手元に置いたのは極一部で、他は悩みをかかえている友人に譲ったり、どこかに寄付していたらしい。藤枝の目も気にしていたんだろうね」
「これがどう関係するの?」
「そのファイルだ。藤枝のお母さんのページを見て」
私は今日、マナミさんの前でも見た藤枝紗登子さんの購入履歴の記述を見た。品物の写真入りで何ページにも渡っていた。
「この仏像の詳細が記載されているだろう」
あった! NO.32 釈迦如来像。今日あの後見せてもらう予定だったものだ。
「詳細を読んで」
「サイズ、高さ23.5cm、幅9cm、奥行き6.2cm、銅造鍍金仕上げ、純金12g――」
「今日、この仏像を鑑定してもらいに行ってきた。そしたら金は3gも使われていなかった。藤枝のお母さんはいくらで購入してる?」
「えっと……」ファイルに別紙として記述があった。
「百十二万円!」
「驚いたな。鑑定士が言うには、せいぜい二万円くらいの代物だってさ」
「つまり、嘘の記述がされているわけだから……」
「まずは詐欺罪で告発できる」
この仏像を確かに購入しましたという証拠がこのファイルだ。これに書かれている記述と現物が違えば詐欺にあたる。
「それにしても、なんで鑑定しようと思ったの?」
「前にノリコが仏像の話を聞かせてくれただろう? 金メッキ10gっていうのがずっと気になっていたんだ。普通そんな言い方をしないから。たぶんそれをセールストークとして使っていたんだろうね。ふつう、仏像のような複雑な形のものはそんなに厚くめっきは施せない。1ミクロンあれば充分厚い。0.2ミクロンくらいが妥当じゃないかな。これは確認しようってね」
「それにしても微妙な詐欺よね。どうせなら純金製って言ってしまえば、値段との乖離もないのに」
「さすがに現物を手にしてしまえば純金製ってのはバレるだろ? でも純金って言葉には皆弱いってのも知ってるから、控えめに誇示した結果なんだろう?」
辺りが暗くなってきた。宮永さんが部屋の電気をつけた。リビングから見える景色にも次第に明かりが灯る。私は急に宮永さんの家に二人きりでいることを意識した。
「藤枝さんにも連絡しなきゃね」
「まだ病院だろう。今日の成果を聞いたらどう思うかな」
「これからどうする?」
いろんな意味で曖昧な質問をしてしまった。
「ファイルが盗まれたと気づいたとしても、今日いきなり何かしてくるとも思えないな。お腹空いてない?」
「空いてる」
正直今日の活躍でかなりお腹が減っていた。
「夕飯食べて帰ったら旦那さんに怒られる?」
「連絡入れれば大丈夫だけど、なんて言おう……」
「一人暮らしの男の家で夕飯一緒に食べて帰る」
私は傍にあったクッションを投げつけて、笑った。グゥ~とお腹が鳴ってしまった。
治樹には姉と夕飯を食べて帰ると連絡した。姉はいきなり私の家の電話にかけることはないから、大丈夫だろう。宮永さんがいつも外食だから私の手料理を食べたいというので、近くのスーパーを教えてもらい、買い出しに出掛けた。
違う街のスーパーで買い物をしていると、治樹と付き合う前、一時期付き合っていた男の家に押し掛けてよく料理を作ったことが思い出された。今こうして結婚して、また別の男のために料理を作ろうとしている自分がいる。見慣れないマンションに入り、男の一人住まいの部屋に入って行く。
「おかえり。悪いね作らせて」
「ううん、お腹空いてるからたくさん買ってきちゃった」
私は料理を作っている最中は無心になれる。その間、宮永さんは藤枝さんに今日の報告を入れた。藤枝さんは喜んでいたが、母親の容態がよくないようで、声に張りがなかった。また、この後も二人にまかせっきりにしてしまうことを申し訳ないと、何度も何度も謝っていた。
二人分のパスタとサラダが出来上がった。
「ごめんね、簡単で。デザートもあるよ」
ダイニングテーブルに宮永さんと向かい合って座る。
「なんか、夫婦みたいだね」
手料理が食べたいというのに和食を作らなかったのは、こういう感想を避けたかったからだが、効果はなかった。
「ワインあけようか」
ここでお酒を飲んでしまったら……。私は怖くなったが一杯だけと心に決め、宮永さんと乾杯した。
私はすぐに今日の仏像の話に戻した。
「詐欺としての証拠は揃ったから、後は弁護士を立てて裁判を起こせばいいの?」
「いや、それだとあっという間に終わってしまう。最悪、金の含量の記述ミスとか言われて。詐欺罪はあくまでも告発するための切り札で、要は買ってくれそうなカモを見つけて、法外な値段で売り付ける、その手口を見つけない事にはね……」
宮永さんは考え込んでしまった。
「セミナーで行われたことが証拠にはならない?」
「あの後でいろいろ考えたんだが、悩みを用紙に書かせてその悩みを元に選ぶにしては確実性もないし、俺やノリコが選ばれなかった理由もわからない」
まあ、宮永さんは選ばれないだろうけど……。
私はファイルをパラパラと見ていた。
「そうかセミナーだ」
(セ)に丸と書かれた文字を宮永さんに見せた。
「セミナーで勧誘して買わせたってことか。そうすると(通)に丸ってのは?(上)に丸はわかる。藤枝のお母さんにあったから上得意ってことだろう」
「通……通販?」
「通販か! それだ!」
「通販で品物を買った人ってことなのかな」
私はファイルの中の(通)と記されている人のページを開いた。
「住所も近いし、別に遠いから通販ってことでもなさそう」
「(通)は(セ)とだいたいセットで書かれている。数が少ない(上)もこの二つに追加して書かれているケースが多いな」
私たちは食事中だというのに、落ち着きがなかった。
「ちょっとこの話は休憩しよう。せっかくのパスタがおいしく食べられない」
「そうね。食事に集中しましょ」
そう言った途端、会話が途切れた。そう言えば、私たちは、謙翔会がらみの会話以外したことがなかった。未だに宮永さんが何歳でなんの仕事をしているのかさえ知らない。そうだ。名前だって知らない。
「宮永さん、下の名前はなんて言うの?」
宮永さんが私をまっすぐ見た。
「自己紹介しなかったっけ? ノリコっていうのは最初の紹介で覚えたけど」
「名字しか紹介されてないと思う」
「漣と書いてレン」
「レン……。宮永漣。素敵な名前」
私は声に出さずに繰り返した。彼にワインを注ぎ足され、私は二杯目を飲んでいた。
これは夢なのだろうか。目の前にいるのは宮永さんで、彼と向かい合ってワインを飲んでいるのは私。
「ノリコは料理がうまいね」
「うそ! パスタ伸びきってる」
「それはすぐに食べなかったからでノリコに責任はない」
「ふふ……」
「なにがおかしい?」
「宮永さんってなんか日本人じゃないみたい」
「外資系の会社にいるから、周りがみんな外国人なんだよ。それと十二までロサンゼルスにいたからね」
「え? ほんと?」
「親が離婚して日本に戻ってきたんだ。帰ってきた当初はよく生意気だっていじめられたな」
私は少年の頃の宮永さんがなんとなく想像できた。相当エキセントリックだったに違いない。
なんだか酔いがまわってきた。やばい。この状況はいけない。すでに食事を終えていたので、私は理性を保つためにも、食事の後片づけを始めた。皿を洗っていると、宮永さんが近付いてきた。私の後ろに立ち、腰に手を回してきた。私が動けずにいると、首筋にキスをした。
私はそれで理性が飛んでしまった。私は皿を洗うのをやめ、宮永さんと正面で向き合った。
どちらからともなく唇にキスをした。次第に激しく唇を求め合い、強く抱きしめ合った。私がよろけそうになると、手を引っ張ってソファまで連れて行かれた。ソファに押し倒された。彼が私に覆いかぶさる。耳元にキスをしながら左手で胸元のボタンをはずし始めた。
もうだめだ。神様!
このままされるがままでいることは、私が望んでいたことなのか……。空想と現実の境界はあまりに呆気なかったので、現実に置き換えられることの意味を自覚するのに少し時間がかかった。私も宮永さんも、今この瞬間、大切に想ってきた人を裏切ろうとしているのだ。
私の中の理性が幕を下ろすようにスーッと下りてきた。
「ごめんなさい。やっぱり……だめ……」
力を込めて彼を押し戻した。宮永さんは、一瞬驚いたようだったが、すぐに私から体を離した。そのまま数分、時間が止まったかのようにじっとしていた。肩がかすかに上下していた。
「ノリコはほんとに俺が思っていたとおりの女性だな」
そう言って、ソファの端に座り、頭を抱え込んだ。
私ものろのろとソファに起き上がり、服の乱れを直した。
急に恥ずかしくなった。しばらく、どちらも喋らなかった。
「コーヒーを入れるよ」
宮永さんがそう発言した時、ホッとしたのと同時に思考が動き始めた。
「ありがとう。でも、もう帰らないといけないから」
「わかった。駅まで送っていくよ」
「大丈夫。道覚えてきたから」
「夜はわかりにくいし危ない。嫌でも送っていくよ」
コーヒーを断った代わりにこちらは素直に受けることにした。黒いファイルは宮永さんが預かり、私たちは駅に向かった。
宮永さんは道中ずっと黙っていた。私は沈黙が耐え切れず、何か気分が変わる話題を必死に探していた。
しかし、急に宮永さんが
「そうだよ。なんってバカなんだ!」と叫んだので、私はビックリして体が硬直してしまった。
「な、なに? どうしたの?」
沈黙から急に叫ぶのは心臓に悪い。
「今日はまだ大丈夫かもしれないけど、明日家から一歩も出るな」
「えっ? そんな……。月曜から会社もあるし……」
「ファイルは盗まれた。もちろん君だとすぐにわかる。たぶんお姉さんに接触するだろうね。そうすれば、君の家だってすぐにわかる。どんな手段だって辞さないだろう」そこで舌打ちをして、「……っていうか、俺は、ファイルを手に入れることばかり考えて、そこで思考が停止していた。ノリコが危険な目に合うだろうことは最初からわかりきっていたのに」
今にもしゃがみ込んで頭を抱えそうな落胆ぶりだった。
「そこまでやるかな……」私は楽天的に考えていた。
「とにかく明日は家から出ないでくれ。その後は、こっちから接触してやろう」
いつの間にか駅に着いていた。
「明日の夜、電話を入れる」
「わかった。なるべく家にいるようにする」
「なるべくじゃない。絶対だ」
そう言って、私を指差して、そのまま別れの言葉もなく帰ってしまった。
宮永さんって時々わかんない。私はぼんやりしていた。
あまりに今日いろいろ在り過ぎて、気持ちの整理が出来なかった。
家に着いたのは十時半を過ぎていた。治樹に会うのが急に怖くなった。今日私がやったことは治樹への裏切りだ。
「おかえり」
治樹が心配そうに玄関に出てきた。
「遅いから心配したよ。今日なんか一大決心して家出てったから、なんかあったのかと思っちゃったよ」
私は治樹の顔をまともに見ることが出来なかった。
「有里ちゃんと食事して、話し込んでたら遅くなっちゃった。ごめんね」
そのまま、寝室に行き、服を着替えた。宮永さんが脱がせようとした服。急に生々しく思い出されてきて、心臓がバクバク鳴った。セミナーでは何もしなかった宮永さん。今日は私が何かゴーサインのようなものを出していたのだろうか。あのまま、止めなければ、今日ここに帰ってくることはなかったのかもしれない。今こうして家にいることがなんだか奇跡のように思えた。
寝室を出ると、リビングで治樹が誰かと電話していた。なんだか意外な気がしたが、そういうことを気にしていた時期もあったことを思い出した。私が来たことを察すると、電話をすぐに切った。
「明日俺、休日出勤なんだよね」
「そう……」それしか言えなかった。
「早いからもう寝るわ」
「うん。おやすみなさい」
治樹は何かを感じているようだった。
そのくらい、私は治樹と顔を向き合わせることが出来なかった。
日曜日、私は家から一歩も出ない決心でいたが、あまりに天気が良くて、洗濯物を干していると、なんだか家に籠もっているのが馬鹿らしくなってきた。
そうだ。有里ちゃんに電話してみよう。接触があったかどうかまず確認だ。
「有里ちゃん。昨日の読経会の後、誰かから私のこと聞かれたりしなかった?」
「え? 誰が?」
「誰かから。私の情報とかしゃべったりしなかった?」
「情報ってなにかあるの?」
「どこに住んでるかとか」
「そんなこと言ってないよ。でも、入会の時、住所記入したでしょ」
そう、嘘の住所を書いたのだ。
「ありがとう。じゃね」
姉は何か言いたそうだったが、私はもう次の行動がしたくて一方的に電話を切った。春のぽかぽか陽気は怯えることを忘れさせる効果があるのかもしれない。私は品切れで入荷待ちだった春物のコートを買いに、二子玉川まで出掛けた。今週を逃したらもう手に入らない気がしたのだ。
電車に乗り、車内を見回す。怪しい人物は……? 私はそんなふうに気を回すことが無意味な気がして、いつしか忘れていた。街はベビーカーを押す若夫婦やカップルが多かった。こんなに天気がいいと昨日の出来事が夢だったんじゃないかと思えてくる。宮永さんと抱き合ったこと、キスをしたこと、思い出すと胸がぎゅーっと熱くなり、顔が火照った。
お目当てのコートを買い、店から出たところで、左側から急に現れた男に声を掛けられた。
「盛崎さん?」
返事を返す間もなく男に腕を掴まれ、道路脇まで連れて行かれた。ものすごい力だった。そこに駐車してあった車の後部座席のドアが開いた。そのまま男に車内に押し込まれ、男も一緒に乗り込んだ。車が発進すると、運転席にいた別の男がバックミラーを見ながら言った。
「楽しくドライブしようぜ。せっかくだから」
見たことのない男だった。眼鏡の奥の目つきがゾッとさせた。
私は恐怖で気が遠くなっていた。
半分気絶していたのかもしれない。時間の感覚がわからなくなっていた。一時間くらい走ったのかもしれないし、十分くらいかもしれなかった。とにかく着いたのは土地勘のまったくない、雑居ビルや住宅が建ち並ぶ一角で、その中でも古そうな五階建てのビルの五階に連れて行かれた。最初に私を掴まえた男が、車を降りた後も私の腕を締め付けるようにしっかりと抱え込んでいたため、私の腕は痛さで悲鳴を上げていた。三人で室内に入ると運転をしていた眼鏡の男が入り口のドアの鍵をかけた。私は叫びたくなったが、まったく声が出なかった。
「盛崎さん。これから、岩佐さんが会いに来てくれるよ。それまで何してようか……」
そう言う男の顔は半笑いだった。
「結構、俺の好みだな。一戦交えてみる?」
私は恐ろしくなって、体がガタガタと震えた。
「冗談だよ。そんなことしたら岩佐さんに殺される」眼鏡の男が笑いながら言った。
私を掴まえた男が眼鏡の男になにやら話して、出て行ってしまった。眼鏡の男と二人で取り残されることにさらに恐怖が募った。
助けて! 宮永さん! 私は心の中で叫んでいた。ケータイだ。私はここへ連れて来られる時もしっかりと自分のバッグを握り締めていた。なんとか連絡が取れれば……。しかし、ここがどこなのか私にはわからない。絶望的だった。
眼鏡の男が近づいてきた。私は恐怖で悲鳴を上げそうになった。私に手を伸ばす。その瞬間目を閉じた。男は私からバッグを取り上げた。
「これは預かっておく。連絡でも取られたら困るからな」
そしてまた、窓際のデスクに腰掛けた。ここはオフィスとして使っているのか、グレーのスチールデスクが二列並んでいた。眼鏡の男はパラパラと雑誌をめくっている。私への興味がなくなったかのような、時間潰しをしているようにしか見えなかった。
一時間近く経った頃だろうか。岩佐がさっき出て行った男と一緒に部屋に入ってきた。
「こんにちは、盛崎さん。君は勇敢な女性だね」
私は岩佐を見て、不思議とホッとした。私を攫ったのが、得体の知れないチンピラでないことがはっきりしたからだった。
「こんなことまでして、何をするつもり?」
私は意外と自分の声が落ち着いていることに自信を少し取り戻した。
「それはこっちの質問だよ。あのファイルを何に使う気だい? あんた一人でやったことなのか?」
二十帖くらいの小さなオフィスで男三人に囲まれて正気でいられるほどタフではない私であったが、ここで泣き喚くという芸当も出来なかった。
深く息を吸っては吐くということ意識的に繰り返すうち、少し落ち着いてきた。
「ファイルはお返しします。だから連絡を取らせてください」
「あんたバカか? ファイル返してもらってめでたしめでたし……なわけねーだろ! コピーぐらいとってるだろーが」
明らかに、岩佐の言葉使いが乱暴になり、私はもうだめかもと、希望を失いかけた。
その時、岩佐のケータイが鳴った。
「……そう、その店の向かいに細い道があるだろ? そこずっと行くと右側に弁当屋があるから、そこを曲がってすぐの一階が不動産やのビルの五階……ああ、そう。じゃな」
声色が明らかに変わっていた。私は今居るところの手掛かりになると思い必死に覚えようとしたが、地理に弱い私にとってはとにかく言葉の断片を記憶することで精一杯だった。
岩佐は電話を切ってからは、元の紳士的な態度に戻った。
「まあ、いいや、時間はたっぷりある。トイレとかは大丈夫か?」
男三人に囲まれた状態でトイレの心配をされることがどんなに屈辱的で、惨じめなことか……。私はその時、特に催してはいなかったが、この男たちから離れて一人になることが出来るのならと、トイレに行くことを希望した。
まず、眼鏡の男が先にトイレに行き、窓などを調べ、逃げられないことを確認した。その後、私が何か持っていないかを確認するため、私の身体を触ろうとした。私がそれを避けるのと、岩佐が怒鳴るのがほぼ同時だった。
「ばかやろう! 男のきたねえ手で触んなよ。嫌がるだろ。そのくらいわかんねえのかよ」
岩佐はその怒鳴った顔を一瞬のうちに柔和な表情に変えて、私に向かって言った。
「盛崎さん、もうちょっと待てる? 女性を呼んだからね。あんたのために」
それから五分も経たない内に、その女性が現れた。マナミさんだった。
マナミさんはコンビニ袋を手にしていた。中にはお茶やおにぎりなどが入っていた。私を見るなり険しい顔をした。
「なんで、あんなことをしたの? すべて騙してたのね」
「まあ、それは後でじっくり聞こうや。彼女トイレに行きたいんだよ。何か変なことしないようにボディチェックしてやってくれる?」
私はマナミさんに服の上から身体を触られ、ポケットに何も入っていないことを確認すると、ようやくトイレに行くことを許可された。トイレの個室に入ると緊張の糸が切れ、脱力感でしばらく動けなかった。バッグごとケータイを取り上げられ、連絡をとることも出来ない。
その時、あることに気づいた。私が用を済ましてトイレから出ると、そのことが現実となっていた。
岩佐が私のバッグから勝手にケータイを取り出して弄っていた。
「この履歴にある宮永ってマナミのこと?」
マナミさんにケータイを渡す。
「勝手に見ないで!」私は声を上げたが、マナミさんの表情に息をのんだ。
元々色白の顔がさらに蒼白になって、死人のような顔つきになった。
無表情のまま、発信ボタンを押した。
「もしもし、もしもし、ノリコ? どうした?」
こちらにも漏れ聞こえるくらいの大きな声だった。
マナミさんが応答する。
「漣……。あなただったのね」
お互い全てを察したかのような沈黙があった。
「この女と何をしようっていうの? ノリコって……バカじゃないの?」
マナミさんが笑みを浮かべながら呆れた調子で言う。宮永さんが何やら喋っているようだが内容は聞き取れなかった。そばで聞いていた岩佐も相手がマナミさんの旦那だと気づいたようだ。俺にも聞かせろと言って、マナミさんからケータイを取り上げ、スピーカーホンに切り替えた。宮永さんの声がはっきりと聞こえた。
「ノリコを出してくれ! 頼む」
私は胸が詰まった。宮永さんの忠告を無視して外出した自分の愚かさに自分を呪いたくなった。
岩佐が応答する。
「ノリコさんは無事だよ。いまのところ」
「岩佐……。彼女に指一本触れるな」
「おや、俺のこと知ってるのか。それにしてもよく自分の奥さんの前で、愛人の名前を呼べるね」
「マナミを奪ったあんたに言われたくはないよ。愛人じゃない。友人だ」
マナミさんがそれに反応する。
「友人だろうが、愛人だろうが、そんなことはどうでもいいのよ。あなたはいつだって、私を苦しめる。これ以上、私たちの邪魔をしないで」
私たち……。
岩佐がまたケータイを取り上げる。
「おい! お前の目的はなんだ? あのファイルを盗んで警察に突き出す気か?」
「あのファイルひとつで人を拉致するんだから、警察に持って行けばいろいろ出てきそうだね」
「挑発する気か? こっちはあんたの大切なノリコさんを預かってるんだよ。どうにでも出来るってことを忘れるな」
宮永さんの一瞬の沈黙。
「取り引きをしたい。ファイルは返す。警察にも言わない。この拉致も公にしない。全てなかったことにしよう」
岩佐が嘲笑った。
「わはははは! あんたも相当バカだな。取り引きってのは対等な状況で可能なものなんだよ。そんな不公平で不確実な取り引きに応じるわけないだろう?」
宮永さんは岩佐を無視して、マナミさんに語りかけた。
「マナミ、信じてる。俺は今でもマナミを愛してる。マナミが俺を見切ったって俺は愛してる」
私は少なからずショックを受けていた。
私の知らない宮永さんがそこにいた。
マナミさんはそれには何も答えなかった。答えたのは岩佐だった。
「マナミはあんたのせいで死のうとしたんだよ。愛してるだって? ふざけるな!」
岩佐の顔は紅潮し、口元は微かに震えていた。私はこの時、ようやくマナミさんと岩佐の関係が思っていた以上に深いことを確信した。
「いいか、よく聞け! 盗んだあのファイルをこれから指定する場所に持ってこい。それから今後警察に告げるようなことがあったら、この女の恥ずかしい写真を散蒔く」
私はあまりの衝撃的な言葉に全身の血の気が引き、目の前が暗くなった。神様はいない……。
その時、ドアを強く叩く音がした。
「教ちゃん! 教子! 無事か? そこにいるのか?」
私はその声を聞いて、我に返った。次の瞬間、涙が堰を切ったように溢れてきて止まらなかった。治樹――。
外には複数の人間がいるようで、ドアを思い切り蹴る音、「ぶち破るか」という男の声、「警察はまだか?」と泣きそうな治樹の声、それらが入り乱れてドア越しに聞こえてきた。岩佐はここが五階であるにもかかわらず、窓を開け、そこから逃げられないかと模索し始めた。しかし、飛び移れそうな場所がなさそうなのを確認すると「くそっ」と吐き捨て、自分のケータイを取り出して、誰かに電話をかけた。
「朝倉さん、よく聞いてくれ」
私はその言葉にハッとしたが、今は治樹に会いたい気持ちがいっぱいで岩佐の電話の声にそれ以上意識がいかなかった。
それよりもドアの外が急に静かになったのが気になった。どうしちゃったの? 治樹の声ももう聞こえない。外が静かになったことに岩佐も気づいたようで、電話を終えると、入り口に近づき、ドアに耳をあてた。そしてそっとドアを開ける。
その瞬間、ドアが大きく開けられ、外にいた男たちが怒濤の勢いで入ってきて、部屋の中の男たちを取り押さえた。マナミさんは岩佐の傍らにいた。
治樹はまっすぐに私に駆け寄り、思いっきり抱きしめた。
「教ちゃん、教ちゃん……」
「治ちゃん、ごめんね」
二人で抱き合って泣き続けた。
間もなく警察がやってきた。




