想い
ドアに鍵を差し込んだとき、治樹とケンカしていたことを思い出した。
「ただいま」
返事はない。出掛けているのかなと思ったがリビングから物音が聞こえた。扉を開けると、「おかえり!」と治樹の陽気な声が聞こえた。
「何やってんの?」
「何って、夕飯作ってるんだよ。見てわかんない?」
キッチンには所狭しとキャベツやら人参やらボールやらが無造作に置かれている。
「カレー?」
「ブーーーッ」
「カレーにキャベツは入れんだろ」
「これ何?」
「キクラゲ」
「まったくわかんない。まぁー、美味しけりゃなんでもいいけど」
「教ちゃん、テレビ見てていいからさ。邪魔せんといてね」
治樹はCMソングを口ずさみながら野菜を切り出した。朝、家を出た時の治樹とは別人のようだ。いや、治樹はこれがいつもの治樹なのだ。私は治樹のこういうところにいつも救われているような気がする。
「出来た!」
「中華風やきそば――!」私は嬉しくなって叫んだ。「やっぱ、人が作ったもん食べるのはサイコーだね」
私は治樹と向かい合って、テレビにいろいろとつっこみを入れながらわいわい食べた。治樹は今日の私の行動に関していっさい聞かなかった。
夕飯を食べてそのままだらだらとテレビを観ているうちに十時になった。藤枝さんが今日の報告を首を長くして待っているに違いないと思うと急にそわそわしてきた。タイミングは治樹の入浴中しかない。しかし、十時から治樹の好きな番組が始まってしまった。私は諦めて先にお風呂に入ることにした。
湯船に浸かりながら、今日の出来事を思い返した。藤枝さんの読みどおり、朝倉さんからマナミさんに繋がった。そしてマナミさんとあんな風にして話が出来たことが自分でも信じられなかった。『離婚をしてもいいと思ってる』そうマナミさんは言った。このことを宮永さんに伝えるべきだろうか。私は前回、宮永さんを失望させることを言ってしまった。あれから、何の連絡もない。私はきちんと伝えなきゃと思った。そう思い始めたら、お風呂に入っている時間ももどかしくなってしまい、急いで体を洗って出た。治樹はまだテレビを観ていた。
結局藤枝さんに連絡が出来たのは十一時半をまわってからだった。藤枝さんのシナリオどおりに事が運んだことを告げると、意外と驚かず、「ここまではいいんだけど……」と言った。これからもっと大変なことが待っているような言い方だったので、私は「こき使い過ぎです!」と冗談口調で抗議した。
「ごめん、ごめん。盛崎さんがいつも僕の期待どおりにやってくれるから、それに慣れちゃって……。どんどん欲が出る」と笑いを含んだ調子で言い、「そのセミナーが気になるな。いつ開催されるの?」と聞かれて、日時を確認していなかったことに気づいた。そして最後に「そのファイルが手に入れば目的が達成できるな。また策を練ってみるよ」と次の約束をした。
こんなふうに藤枝さんとまた話が出来ることにホッとしたためか、早く済ますつもりが長電話になってしまった。時計を見ると十二時を疾うに過ぎていた。
この後、宮永さんに電話をかけるつもりだったが、この時間では非常識だし、そろそろ治樹がお風呂から出てくるかもしれない。今日はやめた方がいいかもしれないと諦めかけたが、今日が土曜日であることを思い出した。それに宮永さんならまだバーで飲んでいる可能性がある。洗面所に行き、治樹がまだお風呂に入っているのを確かめるとケータイの番号を押した。呼び出し音が三回。
「はい」
一週間ぶりに聞く声。周りに雑音はなかった。
「盛崎です。夜分遅くにすみません」
「モリサキ? 誰?」
「………」
「冗談だよ。たぶん今日辺り、かかってくると思ってたけど、まさかこんなに遅くとは……」
「ごめんなさい。さっきまで藤枝さんと電話していて」
「そんなに長電話するほど盛り上がったの?」
「盛り上がったらいけないんですか?」
「あれ? ほんとに? 聞かなきゃよかったなあー」
なんだか、軽い。前回、傷つけちゃったかもしれないって、ずっと気にしてたのに、非常に損した気分。
「今日またマナミさんに会ってきました。それで、いろいろと話を聞けました」
「俺に伝言でも?」
離婚のことをここで言おうかと思ったが、あまりにデリカシーが無さすぎると思い、順番に正確に言葉を選んで話すことにした。
「謙翔会に入信したきっかけを話してくれました。夫の浮気が原因で自殺を図ったこととか、その時助けてくれた人が謙翔会を紹介してくれたこととか。入信してからは気持ちが切り替わって前向きになれたと言ってました。夫の浮気くらいで死のうと思った自分が馬鹿みたいに思えるとも。それで今は夫に対しては信頼はなくなったと、離婚してもいいと思っていると、そう言ってました」
私は殊更感情を排除して、内容はともかく事務的な報告として話した。
宮永さんは特に驚いた様子もなく「そう……」と短く言っただけだった。彼にはもうわかっていたことだったのだろうか――。
私は気分を変えるため、びっくりするほど高い仏像の話をした。宮永さんは銅製で金メッキで10gなら原価三、四万ってところだなと言った。
この話の後、しばらく沈黙が出来た。私は沈黙がとても怖かった。何か話さなきゃと、今日の出来事で他に伝えることはなかったかと頭を巡らした。しかし先に宮永さんが話し出した。
「君は俺のことどう思ってるの?」
「どうって……」
とうとうきてしまったと思った。
「浮気して妻を自殺未遂に追い込んで、あげく離婚を切り出されてる男。普通近寄りたくないよね」
「今日、マナミさんにたぶん旦那さんは今でもあなたのことを愛していると思いますって言いました。なんでそんなことわかるの? って切り返されましたけど。宮永さんは奥さんを愛している。それが私にはわかるから、そういうこと聞くのってずるいと思う……」
「今日、藤枝が、謝って来たよ。君のことを好きになってしまって、つい、あんな幼稚なことをしてしまったって」
藤枝さんと仲直りしたんだ……とホッとしたが、急に藤枝さんに話を飛ばすのもずるい。
「俺がなんであの書き込みに自分のアドレスのリンク張ったかわかる?」
「あれは私の書き込みがウザイからでしょ?」
「ほんとにそう思ってるなら救い様のない鈍さだな」
「………」
「あんたからのラブレター……みたいなものを期待してたからに決まってるだろ?」
「私がなんでラブレターを出すの?」
「違うの? ま、いいや。後で藤枝から内容聞き出そう」
私は顔が紅潮してきた。
どこまでも意地悪な人だ。私から好きだと言わせようとしている。絶対言うもんか。まるで中学生の恋愛ごっこだ。
もう電話を切らないとまずいと思い、唐突に「おやすみなさい」と言って電話を切ろうとした。
「待って! ……聞いてる?」宮永さんが勢い込んで言った。
「聞こえてます」私は言った。
「盛崎さん、君のことが好きだ。ただそれだけ、それだけならいいだろ? ……おやすみ」
電話が切れた。全身の力が抜けて行くのがわかった。
どれくらいそうしていただろう。私はケータイを手にしたまま、ベッドに倒れ込んでいた。気づいた時、隣のベッドに治樹がいた。いつ風呂から出て、いつ寝室に入ってきたのだろう。私は血の気が引いた。もしかして聞かれた?
私は何か言わなきゃと起き上がったが、治樹が先に声をかけた。
「誰と電話してたの?」
聞かれていた。頭の中がパニック状態になった。
「前に言ってた……謙翔会の被害者の会の人」
私は嘘を言うことはないと思った。
「男の人?」
すぐに言葉が接げなかった。
「なんで答えないの? やましいことでもしてるの?」
「してるわけないじゃん。なんで疑うの? ……ごめん、今日はもう疲れてるから」
そう言ってトイレに逃げた。サイテーだ。たぶん治樹は疑っているだろう。まずい会話も聞かれたかもしれない。
言い訳をしないのは、危ないことだった。宮永さんに溺れている、溺れたい自分がいた。
水曜日の夜に、藤枝さんと宮永さんと私の三人でバーで会うことになった。次の読経会で核心に迫る作戦を三人で練るためだった。あの日から、治樹とは微妙な関係が続いていた。口を聞かないわけでもなく、かと言って、以前のように戯れ合うことはなくなり、不自然に距離を置く空気の悪さがあった。治樹は私を問いつめようとはしなかった。元気のない治樹と一緒に家にいるのはつらかったが、私の頭の中は別のことでいっぱいだった。私は恋をしていたのだ。
バーに向かう途中も、どういう顔をして宮永さんに会えばいいのかドキドキして、初めて異性とデートをした頃の感覚に戻ってしまっていた。
バーには藤枝さんが先に来ていた。
「盛崎さん、こっち」手招きをする。
「宮永さんは?」
「そのうち来ると思うよ」
私はホッとしたようなガッカリしたような気分で、藤枝さんの向かいに座った。平日なのでお酒はやめて、ウーロン茶を頼んだ。
藤枝さんが先週のことで聞き足りなかった部分を質問する。
「そのファイルには何が書かれていたか見えた?」
「ちらっとしか見えなくて……。でも顔写真みたいなものが貼られていたと思います」
「それは購入者リストだろうな。あるいは……」
「よう! やってる?」
宮永さんが私の背後に立っていた。
四人席だったが私の隣に腰を掛けた。
「リョウくん。マッカランロックね」
ウェイターに声をかける。
「お酒飲むんですか?」
私は信じられないといった顔をしてしまった。
「俺は酔わない質だから、残念なんだけど」
宮永さんの姿を見るのは二週間ぶりだ。胸の疼きと同時に耳の奥でキーンという音が鳴る。
「俺にも詳しい話聞かせてよ」と藤枝さんに向き直り、ここまでの話を聞き始めた。自分に欠けていた情報を補うように、ところどころに質問を挟んで理解をしたようだった。
「そのファイルがある場所は覚えてるって言ったよな」
いきなり宮永さんが私に質問した。
「遠くから見たから自信ないけど」
「普通に考えたら鍵がかけてある可能性は高いんじゃない?」と藤枝さん。
「だろうね。やっぱり摩り替えだな。そのファイルの色、形、メーカー覚えてる?」
「色は黒で……大きさは……A3が入る大きさ? メーカーまではわからない」
「後で文房具屋に行こう。……ああ、じれったいな。俺も一緒に行ければいいんだけどな」
もちろん、それだけは出来ない。出来ないけど宮永さんが一緒だったらどんなにいいか。私は彼がこんなに近くにいることに一瞬意識がいってしまった。数センチで肩が触れあう距離だ。宮永さんはあの電話で言ったことに関してまったく触れない。いつもの彼……。あれは私の聞き間違い? なんてことをちょっと思ってしまった。
「藤枝、その幹部に関する情報って他にないの?」
「ちょっと待って」
藤枝さんはおもむろに鞄からノートパソコンを出すと、電源を探しに席をたった。
二人で残された。
息が止まるような緊張が襲ってきた。周りのざわめきが遠く感じる。私が何も言えずにいると宮永さんが空いた藤枝さんの席を見ながら話し始めた。
「藤枝は俺が君のことを好きだってことを知らない。知ったらどう思うかな? せっかく仲直りしたのにな」
私は固まってしまった。
「そういや、俺のこと、どう思ってるのかまだ聞いていない」
私のほうを向いた。目が合った瞬間、私は目を逸らせてしまった。
「知ってるくせに」
私は小さく呟いた。宮永さんはまだ、何か言おうとしたが、藤枝さんが延長コードを手に戻ってきてしまった。
「ごめん。今日取引先で使って、充電切れちゃったんだよ」そう言いながらパソコンをセッティングする。
「で、何だっけ?」
「幹部の男だよ」
「ああ、そうだった」
宮永さんとの会話が中断されたことにホッとする自分とガッカリする自分。藤枝さんは慣れた手付きでカシャカシャとキーボードを叩く。
これだ! と言いながら、画面を私たちの方に向けた。数人の男女が談笑している写真が画面いっぱいに表示されている。
「手前の一番大きく写っている男がその幹部。昨年行われた在家の集いでの一場面。会報誌に載っていたのを元信者の人がスキャンして送ってくれたんだ」
そう、この人だ。マナミさんと一緒にいた人。
「在家の集いって、マナミさんが誘ってくれたセミナーとは違うのかな?」
「セミナー?」
そうだ、宮永さんには言ってなかった。
「信者以外の一般の人も参加できるセミナーだって言ってた。仏像のことも聞けるって。マナミさんは参加しないみたいだけど」
「たぶん、同じものだよ。確か信者以外も参加できるようになったのは昨年からじゃないかな」藤枝さんがパソコンを覗き込みながら言う。
宮永さんは数秒見て、パソコンから目を離した。
「この男の名前は? どういう経歴の人? 何やってる人?」矢継ぎ早に聞く。
「名前は確か、岩佐って言ったと思う。何やってる人かはわからない。ただ、こういうセミナーには積極的に参加しているみたいだ」
「あっ!」思わず叫んでしまった。
「なに?」
「この人、朝倉さん」
幹部の男の斜め後ろに立って、微笑んでいる女性を指差した。
「朝倉さんってお姉さんにカタログを渡した人?」
私は頷いた。その写真から感じられるのは、その幹部と親しそうだということだ。
「なんか繋がりがあるな」
「ところで確認したいんだが」と宮永さんが言った。
「そもそも俺たちは何をしようとしているわけ? 最終目的は?」
私は藤枝さんから相談を持ちかけられた時、最初は藤枝さんを助けるためだった。つまり、藤枝さんの母親に法外な値段でものを売り付けて、金銭面での被害を追わせた、張本人を捕まえること。しかし、姉にも被害を及ぼす可能性があり――現に朝倉さんは姉にカタログを渡している――不正行為だということを知りつつある今となっては、誰のためでもなく、関わりを持ってしまった以上、たとえ夫に不審がられても、途中で手を引くわけにはいかない、そういう一心で行動していた。
藤枝さんが答える。
「これは悪徳商法だ。霊感商法と言ってもいい。僕は一貫して、この点で闘うつもりだった。でも、君たちは被害者ってわけでもないし……」
「なんだよ、それ。俺は被害者だよ。たとえ、俺の妻が加害者だろうがね」
一瞬沈黙があったが、空かさず私も答える。
「乗りかかった船です。そんなに冷たいこと言わないでください。悪徳商法は根絶しないと……姉も被害に遭う可能性があるんです」
藤枝さんが黙って頷く。
「よし! じゃあ、やるべきことが絞れる」
宮永さんが納得したように言った。
「まず、本当に悪徳商法なのかってことだ。違法性がないと罪には問えない。法外な値段で売ったって本人が納得して買っていたら違法行為じゃないからね。また、それは組織的にやっていることなのか、それとも一部の幹部が勝手にやっていることなのかを明らかにする。後者のほうが楽ではあるね」
「あのファイルが証拠になるんじゃない?」
「ただ売った人のリストだと証拠にはならない。手口を突き止める材料にはなるけど。そこに何が書かれているかだ。うまく行けば詐欺罪で告発できる。でもその前にそのセミナーに参加したいな」
「参加したいって誰が?」藤枝さんがまさかと言った感じで聞く。
「盛崎さんと俺」
私と藤枝さんは固まってしまった。確かにマナミさんは参加しないとは言っていたけど……。
藤枝さんが急に動きだした。パソコンをカシャカシャ叩く。謙翔会のオフィシャルサイトにアクセスした。
「スケジュールは……と、今週末!!」
「マナミさんに連絡とってみます。あ、連絡先知らない」
「俺は知ってるけど……。直接事務局に申し込みの連絡を入れたほうがいい」
「明日連絡入れてみます」
時計を見ると十時を過ぎていた。私が「そろそろ帰らないと……」と告げて、お開きになった。
「じゃ、盛崎さん。よろしく頼みます」
藤枝さんがいつもの調子で粛々と頭を下げた。そして、宮永さんにも軽く手を挙げ、「じゃ」と短く言い、そのまま踵を返してバーから出ていこうとした。
「あっ、藤枝さん、帰りの電車同じだし、一緒に帰りましょうよ」と私が声を掛けた。
すると、藤枝さんはニヤっと笑い、「お二人の邪魔をするほど無神経じゃないんで」と言った。
そのまま一度も振り向かず、出て行った。
宮永さんと二人きり、取り残された形になって、私は動揺してしまった。
「藤枝のやつ……」
宮永さんが呟いた。
「今日はもう遅いから、帰ります」
私はこの場を逃げることにした。
「なにそれ。俺が襲うと思ったの?」
このストレートさには付いていけない。
「うちの旦那が心配してるので」私は応酬した。
宮永さんはそれには何も答えず、いきなり私の肩に手をかけた。私は心臓が止まりそうになった。
「キスでもしようと思ったけどやめておく。週末のセミナーまでとっておく」
「はあ?」
たじろぐ私を見られたくなくて、わざとぶっきらぼうに答える。
「軽い人ですね。奥さんいるのに。マナミさんを愛してないんですか?」
「愛してる。あんたが旦那を愛してるくらいに……」
私は言葉が接げなかった。
「俺のことどう思ってるのか、一度もはっきり言ってくれないね」
「あなたは気づいてないけど、あなたと関わりを持った女性は好きだけじゃ済まなくなる。私が理性を持っていなければ今頃ぼろぼろになってる」
今日お酒が入っていたら、こんなこと言えただろうか。
「私は臆病ものだから、ぼろぼろになりたくない」
「ぼろぼろって……ひどいな。俺ってそんなやつなの? わかったよ。盛崎さん。俺は君が好き。でも君の気持ちは求めない」
少年のようなまっすぐな告白に思わずふらっと気持ちが動く。私も宮永さんが好き。でも、そこから先は……たぶん……ない。
自分の気持ちから逃げるように、彼と別れた。
『きっと後悔する』そんな言葉が私をぐるぐる巻きにしていたが、次第に夜の闇に沈み込むように、ひっそりと消えていった。
家に帰ると、治樹がちょうどお風呂から出たところだった。今日も会社の飲み会と偽って出掛けていた。治樹を見るなり、私は「ごめんなさい」と駆け寄って抱きついた。
「ちょっと、濡れるよ」
バスタオルを巻いていたが、それが開けそうになって巻き直す。
「なんだよ、急に。せっかくきれいに洗ったのに外から来た体で汚れたじゃないか」
そう言いながら顔を背けた。治樹が泣いていた。
「ごめんね、治ちゃん。ごめんね」
私はお構いなしにさらに抱きついた。私の目にも涙が伝った。
「治ちゃんを悲しませるようなことしてごめんね」
「教ちゃんを信じてるから……」と鼻を啜り上げる治樹を見て、私はこの人を裏切るところだったんだと自分を恥じた。
その夜、久々に治樹とセックスをした。愛撫している最中もギャグを言ったりして笑わせるいつものセックスだったが、私は絶対考えてはいけないことを考えてしまいそうで、治樹にいつも以上に求めた。治樹も次第に興奮してきて、結婚してからは、こんなに激しいセックスはしていなかった。
「治樹……治樹……」
執拗に名前を呼んた。しかし、それも空しく私の脳裏には別の顔が浮かんできて、それが私の奥底にある性感帯を刺激した。私はいつになく感じ、後に激しい自己嫌悪に変わるであろう誘惑についに抗しきれなかった。
宮永さんに抱かれている自分を想像するという裏切り……。しかし、その結果が、治樹にとってはセックスの快楽を盛り立て、男としての欲望を満たしていた。
こんなことなら……。身体は常に正直で、誤魔化しがなかった。絶頂に達して果てた治樹の顔を見ながら、女の自分に素直になれなかったことに悔しさが込み上げていた。
セミナーの申し込みはギリギリ間に合ったが、なんと西伊豆での宿泊を兼ねたセミナーだった。まず、治樹にどう説明したらいいか悩み、次に宮永さんと一泊という状況に混乱した。すぐに宮永さんに連絡を入れ、西伊豆一泊の件を連絡すると、それだけ時間があれば何か掴めるだろうと真剣な返答をされて、動揺した自分が恥ずかしくなった。治樹にはこれ以上の嘘は付きたくなかったから、率直に言えることは言おうと決めた。
「謙翔会のセミナーに参加するって、何をする気なわけ?」
治樹はちょっと怒り気味だった。
「有里ちゃんが仏像のカタログをもらってきて、それがベラボーに高いものだったの。それを売りつける手口を探りに……」
「そんなこと警察にまかせればいいじゃないか。探偵みたいなことして、相手は宗教団体だろ? 危険な目にあったらどうするのさ」
「警察は事が起こってからでないと動かない。その間に被害が増えていくの」
「誰の指図でそんなことやってるわけ? 前に言ってた被害者の会の連中?」
「そう。だけど心配しないで。治ちゃんを裏切るようなことは決してしない。危険なこともしない」
私は治樹の顔をまっすぐに見て言った。
「わかったよ。教ちゃんを信じる」
そう治樹に言われる度に私は胸が痛くなった。
その日はどんよりとした天気だった。横浜から教団がチャーターした観光バスで現地へと向かったが、宮永さんは直接現地に行って向こうで会う約束をした。これから先、宮永さんではなく、前田さんと呼ぶ事に決めたのだった。友達の名前を借りたと言っていた。
「前田……前田……ああ、宮永さんって呼んじゃいそう」
姉は前回参加したので、今回は不参加だったが、私は少しホッとしていた。口からでまかせが言えないのとなんとなく宮永さんと一緒にいるのを見られたくなかった。
「セミナーは初めて?」
バスで席が隣になった女性に話しかけられた。
「はい。何もわからなくて……」
「一人参加?」
「いえ、現地で一般参加の友人と会う約束になってます」
「そう。私は今回一人なの。もし良かったら話し相手になってくれるといいな。平沢舞です。よろしく!」
快活そうな女性で、いきなりタメ口だったが私より随分と若そうだった。
「盛崎教子です。よろしく」
「盛崎さん、教子さんって呼んでいい?」
こんな闊達な女性が、謙翔会のセミナーに一人で参加していることが不思議に思えて、聞いてみた。
「このセミナーに参加すると、生きる希望が湧いてくるって聞いて、最初は騙されたと思って参加してみたの」
「何か、あったんですか?」
「タメ口でいいよ。私タメ口でしか話せないから」にっこり笑った。「失恋したの。大失恋。死のうと思ったくらい。その時にね、偶然セミナーの案内がポストに入ってたの。今回二回目。このセミナーすごいよ。失恋したことなんて忘れちゃう」
失恋か……。姉もそうだし、それを言ったらマナミさんも……。
「どんなところがすごいの?」
「そんなのこれから体験すれば?」ククッと笑う。
死のうと思うくらい落ち込んだ人にはまったく見えない明るさだった。
バスに揺られ、四時間、ようやく西伊豆の堂ヶ島に到着した。遠くに海が広がっていた。小さな島々が曇り空に混じってうっすらと見える。三月とはいえまだまだ寒かったが、潮の香りが気分を高揚させた。四階建てのこの保養施設は教団所有のものだった。建物自体はそっけないものだったが、きれいに使用されていて、窓からの景色は絶景だった。
宮永さんが到着しているか気になった。自家用車で来ると言っていた。とりあえず荷物を置いて、ロビーに下りた。バスで知り合った舞ちゃん――そう呼んでくれというので――はすでにロビーのソファーでくつろいでいた。私を手招きする。
「ねえねえ、お友達はまだ? 来たら紹介してね。それにしても奥さんだなんて信じられない。私と同じくらいだと思った」
バスの中でいろいろと喋ったのだが、私が結婚していると言ったら驚いて、旦那さんはどんな人とかあれこれ聞いてきたのが少し鬱陶しかった。だから友達がどんな人なのかは話していないのだが、男だと知ったらどんな反応をするだろう。
16時からのオリエンテーションまでは自由だったので、皆思い思いに外に散歩に出たりして過ごしていた。宮永さんが遅いのでケータイに連絡しようとした時、奥の階段から宮永さんが下りてきた。
「早く着いちゃってね。上の部屋で寝てた」
私は一瞬ポカンとしてしまったが、そばに舞ちゃんがいることを思い出し、宮永さんを紹介した。もちろん偽名で。
「こちらお友達の前田さん」
舞ちゃんが今度はポカンとしていた。
「彼女バスで仲良くなったの」
「はじめまして。前田です。前田つとむです」
私は笑いそうになって堪えた。
さらに握手を求めるように手を差し出す。
舞ちゃんは戸惑っていたようだったが、持ち前の明るさを取り戻して、握手に応じた。
「平沢舞です! はじめまして。まさか教子さんのお友達が男の人だとは思わなくて、ちょっとびっくり」
「スケジュール表持ってたら見せて」
もう彼女に興味はないのか唐突に言う。そのまま私からスケジュール表を奪い、また二階へ行ってしまった。
舞ちゃんが意味深に小声で話しかける。
「どういう関係なの?」
「どういう関係ってお友達」
「あんなかっこいい人……」
「そんなかっこいいかな? 性格悪いし、なんとなくわかったと思うけど」
「旦那さんよく外出許してくれたね」
「んー、まあ旦那には言ってないけどね」
「不倫!?」
「だからー、ただの友達だって」
なんか、メンドクサイ子と友達になっちゃったなあ……。ぐだぐだ喋っているうちに、オリエンテーションの始まる時間になった。今回のセミナーは参加者が百人に満たない、小規模のものだった。宿泊する部屋はすべてツインルームだった。一人参加の人はそのままツインルームを一人で使う。当然、私も宮永さんも一人で部屋を独占した。
宮永さんが二階から下りてこないのでケータイに連絡を入れる。先に行っててくれというので舞ちゃんと大宴会場に向かった。中に入るとすでに沢山の人が並べられたパイプ椅子に着席していた。後ろから三番目の真ん中に座った。
座って五分もしないうちに、会場が暗くなり、正面のスクリーンに謙翔会の様々な活動を紹介するVTRが流された。ゴミ拾いなどのボランティア活動、講演会、スポーツや音楽の祭典など、どれも皆笑顔で楽しそうな様子が映し出されていた。
「始まったばかり?」
すぐ右側に宮永さんが座った。
「紹介のVTRが流れただけ」
胸の鼓動が早くなる。左隣の舞ちゃんがこちらの様子を気にした。
楽しそうな活動内容の後は毎週行われる読経会の様子、そして最後に創立者であろう故人の映像とその法話が仰々しく紹介されてVTRは終わった。会場が明るくなる。ステージの端から女性が現れた。
「皆さん、こんにちは。謙翔会『希望のひかり』セミナーへようこそ! 初めて参加する方も多いと思いますので、これから行われるイベントの説明を簡単にしたいと思います。受付でお渡しした日程表を見ながら聞いていただけると分かりやすいと思います。まず最初に……」行事の説明が延々とあり、その後にこの施設に宿泊するにあたっての注意事項、最後にこのセミナーの主催者側スタッフの紹介があった。その中にあの幹部がいた。岩佐と紹介されたその男は、人当たりが良さそうな印象を作り出していた。マナミさんと一緒にいた時の貫禄は消えていた。スタッフ紹介に朝倉さんはいなかった。
「それではさっそく、第一ステージ『心の開放』を行いたいと思います。皆さん自分の座っている椅子を脇に片付けて、受付でお渡ししたグループごとに分かれてください」
私と宮永さんは別グループだったが、なんと舞ちゃんと宮永さんが同じグループだった。1グループ8人で輪になって床に座る。会場には暖房が効いていて暑いくらいだった。
8人が簡単な自己紹介をした後、ステージ側にいる人から右回りに自分の悩みを打ち明けるという、場合によってはかなり勇気のいる行為を行う。私は考えた末、夫がこの宗教に対する理解がなく、いつもそのことで喧嘩になるといった、夫婦の不仲について語った。
他の7人の悩みは聞いていて気が滅入るような深刻な話もあれば、舞ちゃんのような失恋話、飼い犬が病気というのもあった。私達のグループは比較的皆淡々と話していたが、他のグループに目をやると、泣きながら訴えるように話している人、嗚咽している声などが聞こえた。グループ全員の悩みを聞いた後は、一人一人がその悩みに対してアドバイスをする時間が設けられる。私の悩みに対しては、理解してもらえるまで根気強く説明するとか、夫婦仲と宗教とは切り離して考えるなど、誰でも考えそうなアドバイスばかりで斬新なものはなかった。ここで一旦休憩になる。舞ちゃんと宮永さんが戻ってきた。
「教子さん、聞いて。前田さん、ひどいアドバイスして女の人泣かせちゃったの」
まさかさっき聞こえた嗚咽は宮永さんが泣かせた女性の? 他にもおじさんを怒らせたり、グループ内でかなり浮いたことをしたらしい。
「み……前田さん、あんまり目立つようなことするの止めてください」
「いや、なんか気持ち悪くて」そう言ってコーヒーを買いに外に出て行ってしまった。
その言葉の意味を一瞬考えたが、なんとなく私にはわかった。
「ねえ、前田さんはどういう悩みを語ったの?」
私はそれを聞きたくて仕方がなかった。
「前田さんって飼育員だったんだ」
はあ? 声に出しそうになった。
「ニホンザルの飼育係りをしているんだけど、サルがなかなか懐いてくれなくて仕事をクビになりそうだって言ってたよ」
私は絶句してしまった。そう言えば宮永さんの職業を知らないことに気づいたが、それにしても嘘だろうと……、しかもそんなけったいな嘘をつくとは、これから先が気が気じゃなかった。
休憩の後、先のスタッフ紹介で、一番最初に紹介された人物がステージに上がった。歳は五十代から六十代といったところで、どうやら年齢から言っても一番偉い人のようだ。兼坂と紹介されたその人物は、何十回、何百回とこういう場を経験している人特有のまったく気負いのない様子でにこやかに話し出した。
「皆さん! 自分の悩みを曝け出し、いろいろなアドバイスを受けたと思いますが、その中でいいアドバイスをもらい、悩みが解決したという人はいますか?」
誰も何も言わない。
「いいんですよ。自分でそう思ったら、これから先やることに参加しなくてもいいので、夕食まで自由にしていてください。では、それ以外の悩みが解消される自信がない、確信が持てない人は次のステージに進みたいと思います」
ほぼ全員が次のステージに進んだ。ここから急に宗教団体のセミナーらしくなる。第二ステージ『祈祷』。特別な修行を積んだ僧侶が祈祷してくれるというものだ。いつの間にかステージ上に三人の僧侶が現れた。そしてその僧侶を中心として紫色の幕が張られた。
「今回のセミナーには多くの一般参加の方がいらっしゃると思いますが、一対一の祈祷は在家の方のみとさせてもらっています。一般参加の方は後ろに下がってもらってスタッフの指示に従って祈祷を行います。その前にこれから配る用紙に名前と住所、解決したい悩み、あるいは願いなどを書いてください。それを祈祷の際に提出してください」
つまり、在家は一対一で丁寧な祈祷、一般参加はまとめて一緒くたに祈祷するということだ。どうやら、こうやって差別することで入信したい気持ちを高める作戦らしい。
宮永さんはこの頃になると、飽きてきたようで、在家側に並んでいる、私のところまで来て、ブツクサ言い出した。
「あの舞ちゃんって子、なんのためにこのセミナーに参加したか聞いたか?」
「失恋から立ち直るためじゃない?」
「それは前回のセミナーで立ち直ったんだよ。今回のセミナーは新しい出会いを求めてだって。こうしたセミナーでくっつくケースは多いらしいよ」
なるほど……と思ってしまった。でもそれだったら、私にくっついてないで、いい人探せばいいのに――。
「ところで……」私はもったいぶった調子で言った。「ニホンザルの飼育してたなんて初耳です」
「俺の中で前田つとむは飼育員なんだ」
「あっ、そ。何もそんな特異な嘘つかなくたって、他に詳しい人がいたらバレバレじゃない」
「ニホンザルが懐かなくて、クビになるってところで誰もつっこみ入れないから大丈夫だよ。本来、猿は懐かない」
飼育員の前田さんと話をしているうちに、自分の番がやってきた。紫の幕の中に入る。
僧侶がパイプ椅子に腰掛けていた。その前にはテーブルがあり、手前に左右二本の棒のようなものに縄を張ったものが置かれその先に木の台が置かれていた。悩みを書いた用紙を手渡す。その紙を台に置き、いきなり数珠を取り出し、お経を唱え始めた。お経の途中で動物が威嚇するような変な声を突然発したので、私は笑いそうになってしまって我慢するのに必死だった。五分ほどで終わった。私はお辞儀をして、退出した。先に終えていた舞ちゃんが話しかける。
「このセミナー絶対お得! 普通に祈祷を申し込むと一万円くらい取られるんだから」
「まじ? やってもらったことあるの?」
「一回だけ。もっと時間は長いし、ここまで簡略化されてはいないけど」
私は舞ちゃんが用紙に何を書いたのか気になったが、こういうことは聞くもんじゃないと思いやめた。しかし、舞ちゃんから話し出した。
「素敵な人に出会えますようにって書いちゃった。なんか叶いそう!」
なんか叶いそう、か……。私は嫌な予感がしたが、敢えて考えないようにした。
宮永さんは一般参加の祈祷に参加していないようで、姿が見えなかった。第二ステージの『祈祷』が終わって、ようやく夕食の時間になった。
建物内の二階にあるレストランに場所を移して思い思いに好きなものを食べるバイキング形式だった。一角に小さなステージが設けてあって、生バンドの演奏が始まっていた。
イタリアンにフレンチ、和食まで用意されていた。
「お腹空いちゃって、いっぱい取ってきちゃった」舞ちゃんがはしゃぐ。
宮永さんは和食中心に盛っていた。大きな窓からは暗い海と手前の民家の明かりが見える。生バンドが知った曲を演奏していたがタイトルが思い出せなかった。
「前田さんと教子さんってどういう関係なの?」
聞きたくて仕方がなかったのだろう。席に着くか着かないかのタイミングで唐突に聞く。
私ではなく、宮永さんに。
「彼女は俺の命の恩人なんだよ。だから切っても切れない関係。不倫してるわけじゃないよ」
また、口からでまかせを言っている。そのまま放っておいたら、ライオンの飼育員見習いだった時にライオンが襲いかかろうとしているのをたまたま通りかかった私がおしえて命拾いをしたって話になっていた。舞ちゃんは真剣な面持ちで聞いていた。やり切れない。皿が空になった宮永さんが料理を取りに席を立った。舞ちゃんも後を追うように取りに行く。一人になってボーっとしていたら、女性が話しかけてきた。朝倉さんだった。
「盛崎さん、セミナーに参加していたのね」
いつもの顔に張り付いたような笑顔で挨拶をする。最初のスタッフ紹介で姿が見えなかったので参加していないと思っていた。
「お一人?」
「いいえ、ここで友人になった女性と連れがひとり……」
タイミングよく舞ちゃんが戻ってきた。
「あら、あなた」朝倉さんが舞ちゃんを見て言った。
「その節はありがとうございました。すっかり元気になりました」
タメ口しか利けないと思っていた舞ちゃんが丁寧な言葉使いをした。ここにも繋がりがあったことを知って気持ちが高まった。二言三言儀礼的な言葉を交わして朝倉さんが行ってしまうと私は空かさず、舞ちゃんに質問した。
「朝倉さんを知ってるの?」
「前回のセミナーでお世話になったの。失恋から立ち直ったのはあの人のおかげかもしれない」
舞ちゃんはそれ以上何も言わなかった。私は朝倉さんが言っていた、人に話すと効果が薄れてしまうと話を思い出した。
「前田さんどこ行ったのかな?」
そう言えば料理を取りに行ったきり、戻ってこない。注意深く見回してみると、入り口近くの席に座って誰かと喋っていた。一番奥の席ではあの幹部がスタッフと一緒に食事をしているのが小さく見えた。
急に生バンドの演奏が止み、マイクの音が入った。
「えー、皆さん。お食事を楽しんでいる時に失礼します。今からビンゴ大会を開催したいと思います」
急遽、ビンゴが始まった。宮永さんがようやく戻ってきた。私たち三人はたいしたものが当たらなかったが、一等はグアム旅行だった。宮永さんが女物のスカーフが当たり、舞ちゃんにあげたのを彼女はすごく喜んでいた。
十時に就寝前の読経会があり、それで今日の日程はすべて終了になる。それまではこの施設にある温泉に入りに行ったりして各々自由に過ごす。温泉はこのセミナーの楽しみのひとつだ。
「前田さんって奥さんいるの? いるよね、そりゃ」
質問して自分で答える。舞ちゃんと温泉に向かいながら、この子がだんだん鬱陶しくなっている自分がいた。私は意地悪く言い放った。
「前田さんを好きになっても無駄だよ。彼、女性に興味ないから」
言ってしまった後、自分がほんとに嫌になった。舞ちゃんは一瞬きょとんとしていたが、「ゲイなの? そうなんだ……」
明らかに気落ちしていた。なんでこんな嘘をつくのか、醜い自分に気分が悪くなった。
温泉から出て、私は適当な理由をつけて舞ちゃんと離れた。これ以上あの子といたらさらに自分が嫌いになりそうだった。ひとりで館内を歩いていると、第一ステージで同じグループだった男性に声を掛けられた。
「盛崎さん、でしたよね。あなたのアドバイス、心に沁みました」
私は一瞬考えてしまった。なんてアドバイスをしたっけ? その前にこの人の悩みはなんだったっけ? 思い出す前に彼が説明してくれた。
「モテない自分を卑下していたことでさらに魅力をなくしていたことに気づかせてくれてありがとうございます。これからはもっと自分に自信を持って、前向きに物事を考えることに決めました」
そう言って、私の手を握った。反射的に手を引っ込めた。
「ああ、いきなりこんなことをしてごめんなさい。盛崎さん、よかったら僕と付き合ってくれませんか? すぐに返事をくれなくて結構です。明日、また会いますよね。同じグループだし」
「あの、すぐに返事します。付き合えません。結婚してますから」私は走って逃げたかった。
「僕のこと嫌いですか? 僕のこと素敵だって言ってくれたじゃないですか?」
目が据わっていた。彼の後ろに宮永さんが見えた。
「俺の女に何か用?」
宮永さんが私の腕を引き寄せる。風呂上りのいい匂いがした。
「俺たち隠れて不倫してるんだよ。バレたら大変なんだよ。内緒にしてくれる?」
さらに背中に手を回して私を抱き寄せた。
「いい女だろ?」
モテないくんは涙目になっていた。そのまま逃げるように階段を駆け上った。
彼が見えなくなっても宮永さんはまだ私を抱きしめていた。
「ちょっと……」宮永さんを押し戻す。私は顔が真っ赤になっていた。
「あー、ごめん。探してたんだ。よかった。言い寄られてたんだろ」
半渇きの髪が彼をいつもより若くみせていた。私は自分が化粧をしていないことに気づき、顔を見られたことがショックで、下を向いてしまった。先ほどの行為が蘇り恥ずかしくなった。
「ありがとう……」小さな声になってしまった。
「読経会までまだ時間あるな。俺の部屋来ない?」
私は返事が返せなかった。
「あ、俺が何かすると思ってる? 大丈夫、何もしないから」
私の心臓は早鐘を打っていた。小さく頷くのが精一杯だった。宮永さんが好きで好きでたまらなかった。
私は自室に化粧をしに戻り、それから宮永さんの部屋に向かった。お風呂から出た後に読経会をやるなんて、女性のことを考えてないと思った。
ドアをノックする。「どうぞ」という返事。ベッド脇のチェアに足を投げ出して座っていた。
「あれ? 化粧してきたの? ノーメイクよかったのに」
私は心の中でギャーッと叫んでいた。そんなことはお構いなしに宮永さんが話を始める。
「いい情報を聞けたよ。さっきレストランであの幹部と話しをしていた男がいたからその後で声をかけたんだ。そしたら、悩みをすっきり解決する方法があるから、読経会の後、部屋に来てくれってメモを渡されたって」
「すごい! そこであのカタログの登場ね」
「ただ、ここまでは聞き出せたけど、実際話しを聞いた後はたぶん、何も教えてくれなくなるだろうね」
「そうだ! 私も報告があったんだ。舞ちゃん、朝倉さんを知ってたの。失恋から立ち直ったのは彼女のおかげって言ってた。でもそれ以上は何も語らないの」
「実にうまい方法だな。そこで、盗聴器もない俺たちとしては堂々と訪ねていこうと思うんだ」
「訪ねるって、あの幹部の部屋に?」
「そう、ただし、俺ではなく君が」
「えっ!」思わず叫んでしまった。
「今回俺はあの幹部にあまり近づかないほうがいいと思うんだ。マナミのこともあるし、俺の正体がバレたら君も危ない」
確かにそうかもしれない。だけど、せっかく宮永さんがいるのに私一人でやるというのは心細い。
「でも、どういう理由で訪ねるの? 呼ばれたわけじゃないのに」
「まず、部屋番号については朝倉さんに聞いてみてくれ。きっと教えてくれると思う。理由は仏像のことをもっとよく知りたいと言うんだ。藤枝さんが以前セミナーに出た時にあの幹部から説明を受けたとでも言ってくれ。幹部の部屋に行ったらまずノックをする。たぶん俺が話した男性がすでに中にいるだろう。運よく開けてくれたら、朝倉さんに説明した内容をもう一度言う。さらに運がよければ中に入れてくれるだろう」
「部屋に入れてもらえたらどうするの?」
「買う予定の仏像の説明を受けるのと、先客の男にあの幹部が何を話しているのかをよく聞いてほしい。それだけだ」
それだけ……ね。
外がざわついてきた。読経会の時間だ。
「大丈夫、盛崎さんならやれる。行こう」私の肩をポンと叩く。
「あの……」
「なに?」
「……あ、あの、私、舞ちゃんに前田さんはゲイだって言っちゃった」
宮永さんがポカンとする。
「彼女、宮永さんのこといろいろ聞くから、ちょっと面倒くさくなっちゃって……」
宮永さんが笑い出した。
「ゲイの飼育員か。こりゃ、傑作だ」まだ、笑っている。「でもまあ、ありがとう。そろそろ限界だったんで……」
宮永さんも困っていたみたいだ。
「でも、彼女から朝倉さんとのやりとり話を聞き出せるかもしれないから、仲良くしておこう」
私はその可能性は低いだろうと思っていた。
私たちが大宴会場に着いた時にはすでに照明も落ちていて、正面のスクリーンだけが明るく照らし出されていた。舞ちゃんがどこにいるのかわからない。とりあえず、入り口すぐの椅子に宮永さんと並んで座った。神奈川東支部で体験したものと同じだった。違うところと言ったら椅子に座っていることだった。三十分ほどで読経が終わった。会場の電気が点くと目がくらくらした。私は朝倉さんを探すことに必死だった。しかし、見つからない。
横で宮永さんが言う。
「目当ての幹部はあそこにいる。こうなったら直接幹部に話をしてみよう」
なんとも唐突な展開になった。幹部の男を追っかける。
「すみません。あの……私、盛崎教子といいます。実は藤枝さんという方から、以前セミナーであなたから仏像の話をいろいろ伺ったと聞きまして、今仏像購入を考えているのですが、もう少し詳しい話を聞きたいと思って……。お時間よろしければ、説明していただくことは可能でしょうか」
幹部の男は考えている様子だった。
「今日はもう時間がないんで、明日でいいかな?」
どうしても今日聞きたいとも言えず、わかりましたと返事をしてしまった。明日また声をかけることを約束して引き下がった。宮永さんに告げると「上々」と言った。
舞ちゃんはあれから私のそばにやって来なくなった。どこで仲良くなったのか、彼女と同い年くらいの男の人と楽しげに喋っていた。わかりやすい子だ。
自分の部屋に戻ると疲れがどっと襲ってきた。ベッドに横たわり、一人で使うには広すぎる部屋を眺めた。治樹は今頃何をしているだろうか。今こうして自宅から遠く離れた場所に来て、部屋に一人きりでいる自分がなんだか不思議だった。最初、宮永さんと一緒に宿泊することを変に意識していたことがとっても滑稽に思えた。宮永さんはまったく邪な考えを起こさなかった。風呂上りに言い寄ってきた男を遠ざけるために、私を抱きしめたことが夢の出来事のように思えてきた。あれは現実……。あの時の匂い、感触、まだ記憶が新しいうちに反芻して大切に仕舞い込む。こんなにも好きになっている。私は枕を抱きしめた。
翌朝も読経から始まった。六時半という早い時間にもかかわらず、皆参加していた。読経後、朝食となる。宮永さんは朝の読経には参加せず、いきなり朝食をとりにレストランに来た。
「おはよう……」
「おはようございます」
朝には弱い性質なのか、テンションが低い。
「朝の読経の時にまた、あの幹部に声をかけました。そしたらランチ前の休憩時間に話を聞かせてくれるって」
「そう……」
私はムッとしてしまった。宮永さんから頼んだことなのに、この無関心さ――。
今日は朝から青空が広がって窓からは遠くまで海が望めた。海に浮かぶ島々を見て、これが伊豆の松島と言われる所以かと納得した。この天気の中、室内にいるのはもったいない気がした。遠くの席に舞ちゃんが見えた。昨日喋っていた男性と一緒だった。
九時から第三ステージの『希望のひかり』が始まった。これは悩みを克服し、幸福を得た在家の体験談を聞く時間だった。
「三時間も聞くのか……きっついなー」宮永さんが呟いた。
まず、最初にステージ上に現れたのは、若い女性だった。中学生の時に酷いいじめにあい、自殺を図ったが死にきれず、それ以降は登校拒否をして、家に引きこもっていたという話をいかに辛かったか、いかに地獄の日々だったかという調子で語った。その後、謙翔会を知ってから私の人生は変わりましたと、こちらから見ていてもパーッと表情が明るくなったのがわかるくらいの変化をつけて語った。以前の私はきれいさっぱり消えてしまい、毎日が充実して楽しくて仕方ありませんと満面の笑顔で語る姿は、本当に楽しそうだった。
二人目は四十代くらいの男性だった。会社でちょっとした事件を起こしてしまい、クビになった話から始まり、再就職のために駆けずり回った話、しかし、なかなか職が見付からず、一方で離婚を切り出され、人生に失望して電車に飛び込もうとしたという話。私は聞いていて胸が締め付けられそうになった。隣の宮永さんはどんな気持ちで聞いているだろうかと気になった。そしてこれから先だった。そんな時に謙翔会に出会って私の人生は大きく変わりましたと、さっきの女性とまったく同じ調子だった。謙翔会に通うようになってから、就職先も決まり、妻も離婚を撤回し、子供との関係もよくなりましたとどこまでが本当のことなのか、先ほどの話も嘘だったのかと思うほど、深刻な面持ちで聞いていた自分がバカみたいに思えるほどの出来た話だった。ここで一旦休憩を挟む。
「次は失恋から立ち直った話と病気が治った話だな」宮永さんが言う。
休憩後、始まった話が本当に失恋から立ち直った話だったので、私は面白くなって横の宮永さんを肘で突いた。
四人目の登場に私たちは驚いた。朝倉さんだった。彼女の話はスクリーンに写真を映す手法で行われた。彼女の母親は足が悪く、杖をつかないと歩けない。そう言って、母親の写真が映し出された。腰が大きく曲がり、髪は白髪で八十一歳という年齢に違和感はなかった。その写真の右下に2005.4.20と日付が入っていた。
「この写真を撮った後に、謙翔会に入会しました。母は足が悪いので、読経会などの行事になかなか参加できません。しかし、家に仏像を購入し、同じようにお経をあげ続けているうちに、杖をつかなくても歩けるようになりました。それがこの写真です」
そう言って写真が切り替わる。場内にどよめきが起こった。曲がっていた腰がまっすぐになり、髪も白髪だったものが白髪交じり程度になっている。右下の日付は2008.5.14になっていた。
「これは、奇跡ではありません。信仰心、奉仕の心でおつとめを行った結果なのです。自分を偽ってはいけません。また、疑いの心は心の開放を妨げ、結局は自己否定に行きつくのです。まずは自分を信じること、次は目の前の人間を信じることです。そうすれば今度はあなたがこの壇上に立って、迷える人たちに勇気と希望を与えることができるでしょう」
こうして、第三ステージ『希望のひかり』は終了した。私は少なからず、朝倉さんの話に引き込まれていた。自分も姉もそう違わないのでは、と思えてきた。
「この後で仏像の話をするわけだろ。最高のタイミングだな」宮永さんが言った。「客観的に話を聞くように努力してくれ」
私は頷いた。宮永さんが肩にやさしく手をおいた。
休憩時間は三十分。私は指定された部屋に行った。小会議室のような部屋だった。私はあの幹部と一対一で話を聞けるものと思っていたので、中に入って自分以外に五人いたことに驚いてしまった。その中の一人はこのセミナーで何度か見かけたので覚えた顔だったが、あとの四人は覚えがなかった。
「君、早く座って」
促されて、入り口近くの席に座った。
「まず、言っておきますが、この場に招待された人間は非常にラッキーだと思ってもらいたい。祈祷で書いてもらった紙の中から、選ばせてもらいました。君たちはあるものを手元に置くことで悩みが解消され、願いが成就できる非常に恵まれた立場にいます。このカタログを今からお渡ししますが、これらはけっして安いものではありません。しかし、これを手に入れれば心の平安が訪れてすべてがいい方向に行くでしょう。先ほどの『希望のひかり』で話された人たちはみな購入しています」
そう言ってカタログを配った。その際、一人一人に、君の悩みはこれこれだから、この仏像がいいと指定した。私の番になった。
「えっと、君は……自分から仏像の話が聞きたいって人だったね」
「はい。この仏像の購入を考えているのですが」
そう言って、マナミさんが見せてくれた小さな仏像を指差した。
「なんでこれを選んだの?」
適当です。と言いたいところを、母親が肝臓病で……という、マナミさんに話した内容と同じ話をした。
「素晴らしい! 君が選んだこの普賢菩薩は延命長寿の仏さまなんだ。特に女性にはいいんだよ。あなたのお母様にはぴったりだ」
ただ小さいという理由で適当に選んだ仏像にしては出来過ぎだと思った。
「時間がきてしまったね」再び皆に向けて話を始めた。
「詳しい仏像の話はまた個別に聞いてくれて結構ですよ。私は普段、神奈川東支部にいますので『岩佐』と言って訪ねてください。購入に関しても同様です。ここでひとつ注意があります。皆さん、よく聞いてください。今日ここで話したことは誰にも言わないでください。ここに集まった人同士でも知らん振りをしていたほうが賢明です。なぜなら、せっかくのチャンスをふいにする可能性があるからです。あなた方は選ばれた人たちです。このことを聞いた人たちが私も俺もと購入し出したら、この効力は失われるのです。くれぐれもこの幸運を逃さないようにしてください」
岩佐の話はこうして終わった。
私はレストランに向かった。ランチはランチミーティングという形で取ることになる。これでこのセミナーの全日程が終了する。
宮永さんが私を見つけた。
「どうだった?」
「私以外に五人いた。詳しい話は後でね。あっ、またあのグループに分かれるの?」
「そう。舞ちゃんとまたお話ができる。……どうした?」
あの言い寄ってきた男と向き合うことになる。そのことを言うと、「そうか、同じグループだったのか、気をつけろ」と言った。
八人席に分かれたテーブルにほとんどの人たちがすでに着席していた。私は少し遅れたため、空いてる席が一つしかなかった。愕然とした。すぐ前にその男がいた。
この場では、このセミナーを終えて自分がどう変わったか、最初の悩みに対する自分自身が出した答えなどを皆の前で発表するのだ。その後でそれについて他のメンバーがコメントする。目の前には幕の内弁当が置かれていた。
「食べながらリラックスした感じでいいですよ。では、始めてください」
その合図で、まず一人が話し始める。会社で上司にパワハラを受けて、胃潰瘍になり、休職しているという男性だ。彼は明らかに最初の印象より明るくなっていた。上司に我慢して言えなかったことを勇気を持って言ってみようと思います! と宣言して、来月から出社することを皆の前で誓った。彼に対して、皆は励ましの言葉を送った。三人、四人と和やかな感じで、気持ち悪いくらいに肯定的で前向きな発言が続いた。次にあの男の番になった。
「僕は今まで自分がモテないことに非常にコンプレックスを持っていました。女性に酷いことを言われて振られたこともありました。それ以降、僕は女性に対して自分を曝け出せなくなっていました。しかし、このセミナーを受けて、僕は変わりました。勇気を持って自分の思いを伝えることに躊躇しなくなりました。今回僕はこのセミナーで一人の女性に愛を告白しました。しかし、彼女は結婚しているという理由で断りました。しかし、彼女は不倫をしていました。このセミナーにその不倫相手と一緒に参加していたのです。僕はとんでもない女性を好きになってしまったと後悔しました。そこで僕は知りました。自分はモテないと自信をなくしていた理由は女性にあったのだと思ったのです。僕は女性を見る目がないことを悟りました。酷い女性ばかりを好きになっていたのです。やさしい心をもった女性は沢山いるのに……。これからはそういう女性を見つけて幸せになりたいと思います」
拍手が起こった。私は目の前の男が怖くなり、食が進まないにも関わらず、下を向いてひたすら幕の内弁当をつついていた。彼に対するコメントも皆、暖かいものだった。私は「いい人が見付かるといいですね」と短いコメントを返したが、彼の表情は険しくなっていた。
私の番になった。緊張で頭が真っ白になっていた。最初話した悩みはなんだったっけ?
そこから思い出さなければならなかった。謙翔会に入っていることを夫はよく思っていないこと。それが原因で喧嘩をすることがあること。最初の悩みを語った後に、このセミナーを終えて、どう変わったかを言わなければならない。私はここで言い淀んでしまった。
「謙翔会のことを理解してもらうために、きちんと向き合って、時間をかけて説明しようと思います」
それだけ言うのに時間がかかってしまった。それに対する皆のコメントは、私以上に熱いものだった。
「謙翔会を理解してくれない人って、自分の世界に閉じこもって、他の世界があることを知ろうともしないで否定するだけなんだよね。ほんとにかわいそうって思っちゃう」
「旦那さんもこのセミナーに連れてくれば? 騙してでも連れて来ちゃえば、良さはわかってくれると思うよ。何よりも旦那さんのためにもそうしたほうがいいと思う」
目の前の男がコメントする番になった。
「旦那さんと喧嘩する理由は謙翔会とは関係ないのではないですか? むしろ謙翔会をいいように使って、別の男性と不倫をするなんて、あなたが謙翔会をまったく理解してないようですね」
その場の空気が凍りついた。皆黙ったしまった。私は反論しなかった。反論が出来なかった。
「次の人!」自然とこの場を仕切る役目を果たしていた女性が明るく言った。「楽しくやりましょ」
それで元の空気に戻った。それ以降、私の存在は無視された。
つらいランチミーティングが終わって、最後に兼坂というこの場で一番偉いと思われる人が締めの挨拶を行い、全ての日程終了、解散となった。
「教子さん、どうだった? セミナー」
舞ちゃんだった。声をかけてくれたことが嬉しかった。
「うーん、勉強にはなったけど、グループにちょっと苦手な人がいて……」
言葉を濁した。私は舞ちゃんを鬱陶しいと遠ざけておきながら、声をかけてくれたことをこんなにも嬉しく思っている。自分勝手でずるい私……。
「あのね、前田さん、飼育員を辞める決断をしたって、皆の前で発表してたよ。向いてないことを無理にやったって道は開けないって……。あと、自分はゲイだってことも告白したの。皆から激励されてたよ」
こっちがつらい思いをしてる時に……。だいたい、宮永さんが不倫してるなんて言うから……。私はビンボーくじを引いてしまった気分だった。
「舞ちゃん、これからどうするの?」
兼坂氏の締めの挨拶で「せっかく西伊豆の堂ヶ島まできたので是非夕日を見て帰ってもらいたい。今日はきれいな夕日が見られそうですから」と遅いバス便を勧めていた。これからすぐに帰る人たちのためのバスと遅い時間帯のバス、二つのバス便が用意されていた。
「実はね、私いい人見つけちゃったの。その人とこれから少し遊んで帰る」
「そう。よかったじゃない。祈祷の成果ね」
舞ちゃんが仲良く喋っていた同い年くらいの男の人のことだろう。
「じゃ、待ち合わせしてるからこれで。教子さん、いろいろありがとね。バイバイ」
元気よく去って行った。ちょっと寂しくなった。
宮永さん、どこ行っちゃったんだろう。自分の部屋かな? 私も荷物まとめなきゃ。帰りの支度をするために部屋に戻った。部屋から宮永さんのケータイに連絡を入れた。留守番電話になってしまった。仕方なく、荷物をまとめてロビーに下りた。
その時、目に飛び込んできた光景に驚いてしまった。宮永さんとあの幹部、岩佐が話しをしていた。私は反射的に階段の裏側に身を隠した。
「君もほしいのか?」
「ほしいですよ、そりゃ。だって、持ってるだけで、苦しみから解放され、望みが叶うわけでしょ? 全財産を擲ったって惜しくない。もちろんそんなものがあったら……の話ですけどね」
「君にはそんなものがあったって売る気はしないよ」
「あったって……ってことは、ないってことですか?」
「君とこれ以上話している暇はない」
「あなたから話しかけてきたんじゃないですか?」
「とにかく君は謙翔会にはふさわしくない人間だ。入会はすすめないよ」
岩佐が捨て台詞を吐いて玄関から出て行く。私はそれを見届けてから、宮永さんに駆け寄った。
「どうしたの? いったい……。ビックリしちゃった」
「よかった。岩佐が階段を背にして立っていて。外に出てゆっくり話をしないか?」
私たちは宮永さんの車で海岸近くまで行き、海が見える駐車場に止めた。
「外は寒いから中で話しをしよう」
まずは、私が岩佐に会って、あの小会議室で聞いた話をした。
「もらったカタログは?」
「姉から借りたものとまったく同じ」宮永さんに手渡す。
宮永さんがパラパラと捲る。
「祈祷で名前と住所と解決したい悩みを書かせた用紙は岩佐の手元にあるってことだな。その中から買いそうな人間を選んで声をかける……その五人の中に知った顔はいた?」
「知った顔っていうか、このセミナーで見かけたので覚えてた人が一人とあとは知らない人。でもこのセミナーの参加者で私が知ってる人なんてほとんどいないし」
「男女比は?」
「男性が一人とあとは女性」
「同じ悩みを抱えてるわけじゃないよな……」
「その人の悩みに合った仏像をカタログ中から選ばせるんだけど、あなたは人間関係の悩みだからとか、家庭内の問題、病気とかいろいろだった」
宮永さんはしばらく考え込んでいた。私は車のフロントガラスから見える海を眺めながら、帰りはこのまま宮永さんの車で帰ることになるのかな……などと思っていた。
そろそろいいかなと思い、さっきから聞きたくてうずうずしていた質問をした。
「なんで岩佐と話してたの?」
「ああ、昨日レストランで俺が情報を聞き出した男が岩佐に『誰かにこのことを喋ったか』と問い質されて、俺のことを話したみたいだ」
「まずくないの?」
「君と一緒にいる時に声を掛けられなくてよかったよ。単に失礼なやつがセミナーに一人混じってた、くらいだと思うけど」
「私たち、一緒にいるの結構見られたかな?」
「そう言えば、同じグループのあの男はどうした?」
私は少し宮永さんを責める口調で言った。
「この女はこのセミナーを利用して不倫してるって皆の前で発言したの」
「うわっ。相手は誰とか言った?」
「そこまでは言わなかったけど、私が一番接していたのは宮永さんだし……」
「ゲイを告白してよかった」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題だと思うけど」
いつの間にか日が落ちてきていた。遠くの空が赤く染まっていた。
「……ごめん。つらい思いさせちゃったね」
宮永さんのやさしい言葉になぜかそわそわしてしまった。目の前は海で、これから日が沈もうとする神秘的な情景が展開している。隣には宮永さんがいる……。
「ねえ、外出て歩いてみない?」
私たちは道路を渡って、岬に繋がる遊歩道を歩いた。波が岸壁を打つ音が聞こえた。海風が寒かったが、今まさにオレンジ色の光を放って日が沈む光景に圧倒され、寒さも何もかも忘れて見蕩れてしまった。
宮永さんが呟いた。
「こういう光景を見ると神様がいるような気がするね」
私は少なからず驚いた。夕日に照らされた横顔には自尊心の固まりのような彼の姿はなく、どこか寂しげだった。
太陽が姿を隠してしまうと急に寒さを感じて、私は肩を窄めて腕組みをした。
「車に戻ろうか」それを見て宮永さんが言う。
来た道を引き返し、車に戻った私たちは言葉少なだった。
「もういい時間だな。盛崎さんの家まで責任もって送り届けるよ」
私は時計を見た。遅いバス便の発車時間まであと三十分しかなかった。
「やっぱり、行きと同じバスで帰ります」
「俺のこと嫌い?」
「そんなんじゃなくて……」言葉に詰まってしまった。
たぶん、宮永さんとこんなに近い状態で4時間近くいるのは、治樹を裏切らないと誓った私にとっては耐え切れないと思った。
「俺がここで君をどうにかしないのは君がそれを望んでないのをわかってるからだよ。それに不倫してるって言われて、ほんとに不倫したらあの男が正義になっちゃうからね」
宮永さんが車を発進させた。謙翔会の施設に向かった。
出発時間の五分前だった。私はバスに乗り込み、空いている席に座った。バスは七割程度の乗車率だった。座った途端、後ろから肩を叩かれた。舞ちゃんだった。
「どうしたの? 遊んで帰るんじゃなかったの?」
「あの出会いは本物じゃなかったの。思いっきり振ってきちゃった」笑顔で答える。
席を換わってもらって舞ちゃんの隣に座った。舞ちゃんは腹の虫がおさまらないようで、怒涛の勢いで語り始めた。
「田口って言うんだけどさ、カメラマン見習いをしていて、将来は世界を旅していい写真いっぱい撮って、本を出したいとか夢語ってさ、すっかり騙されちゃった。やつの車で海沿いドライブしてたら急に『君の写真を撮りたい』とか言い出して、じゃあ、『海を背景に撮ろうよ』って言ったら、『そんなんじゃない。君の裸を撮りたい』とか言い出して、気持ち悪くなっちゃってさ、『降ろして!』って叫んだら、急にスピード上げて脇道の茂みの方に入って行って、もう怖くなっちゃってさ。変に騒がないほうがいいと思っておとなしくしてたら、車止めていきなり押し倒してやろうとするんだよ。思いっきり殴って逃げてきた」
あらら……。私は聞いていて、一瞬宮永さんのことを思い浮かべてしまった。
「どうやってここまで戻ってきたの?」
「大きな道路に出たらすぐそばに老人ホームがあって、そこからタクシー捕まえて戻ってきた」
「よかったね。時間間に合って」
「ほんとよかった。それにしても男ってどうしてアレばっかりなんだろ」
舞ちゃんは呆れ口調で言う。
こうして舞ちゃんとまた再会出来ただけでもバスを選択してよかったと思った。
ペットボトルのお茶を飲みながら、すっかり暗くなった堂ヶ島の景色が、窓から流れていくさまを見ていた。
「ねえ、教子さん。前田さんがゲイじゃなかったら付き合ってた?」
いきなりのこの質問に、咳き込んでしまった。
「……私は旦那がいるし、愛してるし、それはないと思う」
「私ね、妻子がいる男性とずっと付き合ってたんだ。ほんとに凄く好きで、向こうも私のことを大切にしてくれた。奥さんと別れるって決めて、一緒に暮らすことになった矢先に、その奥さんが妊娠したの。それを境に彼は私から離れていった」
明るい舞ちゃんの表情が沈んでいた。
「実はね、その数週間後に私も妊娠していたの」
あまりの衝撃的な告白に私は言葉がなかった。
「つまり、こういうこと。奥さんと別れるなんて言っておきながら、その奥さんともセックスしてたのよ。私は妊娠したことを彼には言わなかった。どちらを選ぶかなんてわかってたから……。あー、もう、やだな。すっかり立ち直ってるのに、こんな話しちゃった」
舞ちゃんがカバンの中からガムを出して私に差し出した。私はそのカバンに目が行ってしまった。
「なんでこんな話をしたかって言うと……。その男がね、ちょっと前田さんに似てるんだ。ううん、ほんとはぜんぜん似てないんだけど……、知れば知るほど似てない」
カバンの取っ手部分に宮永さんが舞ちゃんにあげたスカーフが巻き付けてあった。




