罪と罰―花の名残―
警察の事情聴取を受け、家に帰れたのは翌日の一時だった。
岩佐は、拉致と監禁の疑いで身柄を拘束され、刑事事件として捜査の対象となった。
私は警察に着くと、すぐに宮永さんに連絡を入れた。
「宮永さん、あの後、すぐに警察が来て……」
「……ノリコ……よかった……」
ため息のような、声にならない声だった。宮永さんの次の言葉はなかなか出てこなかった。ようやく出た言葉が、
「助けに来たの、旦那さん?」
「え?」
どうやら、通話は切れていなくて、治樹が駆け付けたところまで聞こえていたようだ。宮永さんは、自分たちの計画の甘さで私に怖い思いをさせてしまったこと、自分が何も出来なかったことを、ものすごく悔しがり、ひどく落ち込んでしまった。結局、何もされなかったことをいくら言っても、自分を責める事をやめなかった。私は彼のナルシシズムに基づいた人を喰ったような態度が、プライドを持っている人だけが持つ清々しさを感じさせ、そこに惹かれていたから、今の彼はあまりにも落差があった。
電話を切って数時間後、宮永さんがファイルと藤枝さんの母親の仏像を持って警察に事情を話しにやってきた時には、いつもの宮永さんに戻っていた。しかし、私と目が合っても、よそよそしかった。それは治樹と初めて対面することを意識していたのかもしれなかったが、治樹に対して自分が助けられなかったことの負い目を感じているようにも思えた。
私とぴったりくっついて座っていた治樹に近づいて宮永さんが挨拶をした。
「宮永と言います。謙翔会被害者の会で奥様にはいろいろ協力いただいています。今回こんなことになってしまい、責任を禁じえません」そう言って頭を下げた。
治樹は目の前の男を見て、誰だか悟ったようだった。
「どうも、はじめまして。教子がお世話になっています」
そう短く挨拶すると、それ以上何も言わなかった。
私は二人の男を目の前にして緊張していた。宮永さんは「今回は本当に、ありがとうございます」と言ってさらに頭を下げた。治樹はそれに対し、言うだろうと思っていたセリフをそのまま口にした。
「妻を助けに行くのは当然でしょう? あなたに礼を言われる筋合いはありません」
「そうですね。申し訳ありません」
そう言って、宮永さんは私たちから離れていき、その後、警察ではほとんど話をしなかった。
治樹はなぜ、私の居場所がわかったのか、それを知った時、自分の犯した罪の大きさを知った。
探偵を雇い、私の行動を調査させていたのだった。
「つまり、奥さんが浮気をしてるんじゃないかと疑って、尾行を付けたわけ? こりゃまあ何が幸いするかわからんねえ」
聴取にあたっていた警官が茶化すように言った。疲れがピークに達していた私は何を言われても、何も感じることがなかった。
「あいつだろ? ……寝たの?」
警察から戻り、そのまま疲れてベッドに倒れた私に、治樹が追い討ちをかけた。
「昨日の夜、雇った探偵から報告を受けた。溝の口で男と一緒にマンションに入っていったって」
治樹は私と一緒にベッドに横になり、天井を見ながら続けた。
「でも、そんなことどうでもいいや。教ちゃんが無事だったから。ほんとにそう思ってんだよ」
治樹のその一言で、涙が溢れてきて、どうにも止まらなくなってしまった。
「寝てない。信じてくれないかもしれないけど、寝てないよ」
私はうつ伏せで、泣きながら訴えた。
「うう……、治樹が来てくれなかったら……、怖かったよ……、怖かったよ」
抑えていた感情を子供のように出し始めて、ようやく、自分がこんなにも怯えていたことに気づいた。私は布団が涙でグシュグシュになるくらい泣きじゃくった。治樹が肩に手をかけ被さるように私を抱きしめた。
「教ちゃんを守るって誓っただろ? 大丈夫。ずっと俺が守る」
治樹の腕の中で震えながら小さくなっていると、遠い記憶が蘇ってきた。
「お母さん、私プロポーズされたの。結婚しようと思う」
「えっ? 今お付き合いしてる会社の人?」
「そう。盛崎さんって言うの」
「ちょっと残念だわ。都庁に勤めてた、高野さんだっけ? あの人よかったのに……」
「それ何年前の話よ。何でそういうこと言うかな」
「あんたんとこの会社、そんなに大きくないじゃない。母親としてはねぇ、苦労させたくないってのが本音なのよ」
「ちょっと! 失礼じゃない! 安月給だって言いたいわけ? 私だって働くし、何の心配もない」
「あんたが働かなくてもやっていけるくらいじゃないと」
「なんでいつも私が選ぶものにいちいちケチつけるの? おめでとうくらい言ってくれたっていいじゃない」
涙が頬を伝う。母が一瞬黙り込む。
「ごめんね、言い過ぎたわ。あんたの決心は固いのね。お母さん、ついあんたのためを思って……、余計な心配だったね」
涙は止まらない。
「治樹くんって面白い人ね」
「でしょ。会社でもずっとあんな感じ」
「でもさあ……、教子の今までの好きになるタイプと違うよね」
「そう?」
「林くんから始まり、最近だと高野さん? どっちかって言うと、クールな優男タイプが好きだったじゃない?」
「有里ちゃんまで……。そういう過去の男の名前出さないでよ」
「背が高くて、顔は細面で、目は切れ長、髪はちょっと長めで……、あとなんだっけ?」
「何それ?」
「教子が言ってたタイプの男」
「そんなこと言ってない」
「言ってたよ。ジョニーデップの目がもう少し細かったら完璧とかなんとか」
「そういう好きなタイプと結婚相手とはまた違うでしょ」
「そうかな? 好きなタイプと結婚できるのが一番でしょ?」
「そういう有里ちゃんは、どういうタイプが好きなわけ?」
「私は外見にはいっさいこだわりなし。考え方とか興味を持つものが一緒の人かな」
「相変わらず優等生な答えでつまんなーい。じゃあ、有里ちゃんは一目惚れって絶対ないの?」
「絶対ってことはないけど、今まで好きになった人は会話していくうちに、その人の考え方とか生き方に触れてだんだん好きになっていくパターンね」
「ふーん、治ちゃんの場合、一目惚れでもないし、考え方とか生き方に共感したわけでもないなあ……」
「ほんとにそれで大丈夫なの?」
「大丈夫って?」
「結婚生活」
「あのね、結婚してまだ一週間だよ。なんてこと言うわけ」
「そう怒らないでよ。教子のために言ってるんじゃない」
「どこが私のためなの?」
「あっ、治樹くんが戻ってきたよ」
「何盛り上がってんの?」
「なんでもない」
「なーに、言ってよ。俺の悪口?」
「違うって……」
「好きなタイプは年齢と共に変わってくるって話しをね……」
「へえー、じゃ、昔はどんなタイプが好きだったわけ?」
「ジョニーデップの目が……」
「ちょっとぉ!」
「あ、お姉さん、それは知ってます。さんざん言われましたから。ぜんぜんタイプじゃなかったって……。ジョニーデップみたいな人と結婚するはずだったのにって」
「言ってない、そんなこと」
「だいたい教ちゃんって面食いだからなあ。浮気の心配でもしたほうがいいのかなあ」
「やっぱりね。浮気すると思った。宮永さんと寝たんでしょ?」
「なんで、有里ちゃんが宮永さんを知ってるの?」
「だってあの人、教子のめちゃめちゃタイプじゃない」
「治樹くん、別れたほうがいいわよ。こうなるともうどうしようもないから」
「教ちゃんを信じてたのに……」
「どこ行くの?」
「そいつを殴ってくる。人の女を寝取るような男、殺してやる」
「治ちゃんごめんなさい。行かないで。もう会わないから。もう絶対会わないから」
「嘘つき! そう言ってずっと会ってたじゃないか。もう何を言っても信じないよ」
「君だれ?」
「教子の旦那です」
「ノリコ? 知らない」
「セックスしただろ?」
「ああ、したかな? もう忘れちゃったよ。まさか、本気にしちゃったわけ? オレにしたら遊びなのに。すぐ女は本気になるからいやだよ」
「宮永さん、ひどい! あれは遊びだったの?」
「当たり前だろ? 女なんて酒を飲ませて甘い言葉を囁けばすぐにオレのものになる。藤枝も言ってたじゃないか。なんで信じないのさ……」
「殺してやるっ」
「治樹!」
「やめろ……ウッ……」
「治樹? 違う……マナミさん?」
「私が殺してあげたのよ。盛崎さん、私に感謝して……」
いつの間にか眠ってしまった。隣で治樹が寝息を立てていた。嫌な夢を見た。私はベッドから起き上がり、治樹に布団を掛け、水を飲みに、キッチンに行った。ひどく喉が渇いていた。嫌な夢だった。私が連れ去られて監禁されたのも、警察が来て事情聴取されたのも、もしかしたら夢だったのかと一瞬考えた。あまりに現実離れした現実を受け入れることは容易ではなかった。寝室に戻って治樹の寝顔を見る。今こうして家にいることは、偶然の重なり合いの結果なのだと思うと、治樹は本当にずっと私を守ってくれそうな気がした。
例年より、一週間早い桜の開花で、井の頭公園は沢山の人たちで賑わっていた。
「まだ、五分咲きってところね」
「ねえ、もう教えてくれたっていいじゃない。なによ、話したいことって」
姉に大事な話があると呼び出され、吉祥寺まで出てきたのだが、なかなか話してくれない。だんだん私の機嫌が悪くなってきた頃、姉のケータイが鳴った。
「もしもし、着いた? 橋のところにいる。うん、わかった」
ケータイを切るとようやく今日の主旨を話し出した。
「教子に会わせたい人がいるの。謙翔会で知り合ったんだけど、結婚前提でお付き合いをしてるの」
私は素直におめでとうと言うべきだったが、やはり謙翔会という言葉が気になった。
「沢井くん、こっち」
姉が手を振る。
「お待たせしました」
沢井くんと言うから若い人かと思ったら四十代くらいのおじさんだった。
「妹の教子。こちら沢井くん。レントゲン技師をやってるの。今日は病院抜けてきてくれたのよ」
「はじめまして、教子です。姉がお世話になってます」
沢井くんと呼ばれるその人は、笑顔になるといい感じの皺が表れて、私は好感を持った。
「また、六時になったら戻らないといけないから、あまりゆっくりは出来ないけど……。教子さんは甘いものは好き?」
「はい。大好きです」
「じゃ、決まりだ。公園出てちょっといくと、甘味処のいい店があるんだ」
沢井くんと有里ちゃん。三人で並んで歩きながらも、二人の睦まじい様子が伺えた。姉は幸せそうだった。今日も姉は翡翠のネックレスをしていた。
「それにしても、なんで家がわかったのかしらね」
お店に入り、席に着くなり姉が言った。私が岩佐らによって拉致、監禁された事件を姉に話したのは昨日だ。そして法外な値段で品物を売り付ける実態を探る目的で入信したこともその時打ち明けた。姉は何よりも私が無事だった事に安堵し、私が嘘をついていたことに関しては、「そういうことだったのね」と呆れ気味に言っただけだった。ただ、謙翔会にそういう人間がいることが悲しいと、あくまでも一個人の仕業と捉えていた。
「デタラメの住所を書いたのになぁ……」
「そんなことしたの? ほんとに騙してたのね」
騙してたって……、最初騙して私を入信させたのは姉じゃないか。
「あっ!」
一番最初に謙翔会に行った時、これが入信するためのものとも知らずに住所を書かされていた! 退会した後も、あの記録はまだ残っていたんだ。
「どうしたの?」
「ううん」
今さら蒸し返す気はしなかった。
「ねえ、沢井さんとはどうやって知り合ったの?」
今日の本来の目的に話を戻した。
姉はフフッ……と笑って、沢井さんに話を振る。
「セミナーでね。一緒のグループになったのがきっかけだね」
姉の方を見ながら沢井さんが答える。
セミナー……。私は西伊豆のセミナーのことを思い出した。
「有里ちゃんは謙翔会に入会する前に一般参加でセミナーに参加したことはある?」
姉はちょっと驚いたようだ。
「そうね。それが謙翔会のセミナーとは知らずに参加したのが、謙翔会に入るきっかけだったわ。実は沢井くんとはその時のセミナーで始めて会ったの」
「どうしてそのセミナーを知ったの?」
「これが不思議なことなんだけど、私が失恋してどん底にいた時に、幸せを呼ぶセミナーと題した案内が送られてきたの。これが謙翔会のセミナーだったの。そこで朝倉さんと出会って、話を聞くうちに入会に心が動いたわけ」
私は舞ちゃんの話を思い出した。
『失恋したの。大失恋。死のうと思ったくらい。その時にね、偶然セミナーの案内がポストに入ってたの』
舞ちゃんはそう言っていた。そしてさらに、失恋から立ち直ったのは朝倉さんのおかげとも……。
落ち込んでいる人の元に『幸せを呼ぶセミナー』、あるいは『希望のひかり』といったセミナーの案内が届く。とても偶然とは思えない。
その時、姉が胸のネックレスをいじりながら言った。
「その前に、このネックレスを購入したことでなんかツキがやってきたような気がするのよ」
その瞬間、頭の中のパズルが動き出した。
「それって、通販で買ったって言ってたよね」
「そうよ。でも、謙翔会とは関係ないわ」
「そのネックレスはどんなふうに売ってたの?」
「どんなふうって……ほら、よくあるじゃないツキを呼ぶストーンとか、ああいうの。失恋した時ってそういうものにすがりたくなるのよね」
バラバラだったパズルが形を成した。
「何に紹介されてたの? その通販会社はわかる?」
「なんだったかな? 何かの雑誌だったと思うけど。送られてきた時に同封されてたパンフレットを見れば会社名はわかると思う」
「それ、帰ったら教えて!」
私は軽く興奮していた。
「あともう一つ聞きたいんだけど、セミナーで岩佐っていう幹部に声を掛けられたりしなかった?」
「岩佐? ああ、あの朝倉さんと時々一緒にいる幹部の人ね。声を掛けられたことはないわ」
そこで沢井さんが口を挿んだ。
「僕は声を掛けられたことがあるよ。仏像の購入を勧められたんだけど、とてもじゃないけどその頃の自分が買えるような値段じゃなかったから断ったけど、ちょっと興味はあったね」
私は身を乗り出して質問した。
「なんで声を掛けられたのかわかりますか?」
「そう、まさに僕もそれが疑問で聞いてみたんだ。あなたの悩みを解決してくれる仏像があるからって声を掛けられたけど、同じように呼ばれた人たちの悩みはみんな違っていたから……」
なぜか、ここで勿体つける沢井さん。私は早く教えてもらいたくて沢井さんの顔を凝視してしまった。
「祈祷師が選んでくれるらしい。とにかく祈祷している間、真剣にお経に耳を傾けているとか、最前列で祈祷を受けているとか、とにかく心を入れて場に臨んでいる人、そういう人は祈祷師からはすぐにわかるって言ってた。そういう人を選んでいるって」
私は思わず「はあ……」と納得してしまった。そう言えば私は真剣に聞くどころか、途中で笑いそうになっていたではないか。宮永さんにおいては参加すらしていない。
私はこの話を一刻も早く、宮永さんに伝えたくて、急に用を思い出したと言って、姉たちと別れた。
なぜか、また公園に戻ってきてしまった。日が傾いて、桜が背景に溶け込んで行く。ケータイを取り出す。宮永さんとはあの事件の後、警察で会ったきり、一度も連絡をしていない。宮永さんからも連絡はなかった。
留守電になったと思った瞬間、彼の声が聞こえた。
「はい」
「教子です。今話しても大丈夫ですか?」
「いいよ」
ぶっきらぼうな返事。
「彼等のやり口がわかってきました。ファイルにも印があった通販です。姉は通販でネックレスを買ったんです。よくツキを呼ぶとかいった謳い文句で売ってるじゃないですか。だぶんああいうの。それを買った人の元に『幸せを呼ぶセミナー』の案内が届くんです。幸せに飢えている人の元に幸せを呼ぶセミナー……」
「あのセミナーは言わば勧誘のための催し物だからな。そしてそうやって通販でアクセサリーを購入した人は、より本格的な仏像にも興味を持つ可能性が高い。その通販会社はわかる?」
「姉に確認中です。それと……」
姉とお付き合いしている謙翔会の男性が岩佐に声を掛けられて、仏像購入を勧められたこと、声を掛ける人の選定は祈祷師が行い、真剣に祈祷を受けている人を選ぶことなどを話した。
「なるほどな。理に適っている。祈祷に対していい加減なやつが仏像に魅力を感じるわけがないもんな」そして私に話を振った。「ノリコも祈祷の最中に眠くなったりしたの?」
笑いそうになったとはさすがに言えなくて、言葉を濁した。私には信仰心というものがないのだと思い、それはそれでまずいと思った。
「だいたいの手口はわかった。後は弁護士に相談だな」
宮永さんがそう言ってこの話に区切りをつけた。
「宮永さん。なんか元気ないね」
「ノリコの旦那さんに会っちゃったからね」
私が何も言えずにいるとさらに続けた。
「それに君を助けられなかった。これはものすごく痛い」
「あれは私が言い付けを守らないで出掛けちゃったのが悪いんです」
「でも君の旦那さんは助けにきた。完敗だ」
「もう済んだことです。いつまで悔やんでるんですか? 宮永さんらしくない」
フフ……と宮永さんの笑う声が聞こえた。
「ノリコの旦那さんは浮気を疑って、尾行を付けてたわけだろう? どこまで知ってるんだろう……」
「宮永さんのマンションに一緒に入るところは見られてました」
「ふ~ん。そうすると中で何やってたかなんてわからなくても、想像は付くし、何もなかったっていう方が、嘘っぽいよな、やっぱ」
「ちょっと、待って下さい。実際なにも……」
私はそこで詰まってしまった。あれは何もなかったと胸を張って言えるのだろうか……。
「ノリコが止めなかったら、俺はやっちゃってた。人妻を平気で寝取るサイテーな男なんだ」
私は二の句が継げなかった。
空を見上げる。辺りは暗くなり、赤みを帯びた空に鳥たちの大群が黒い影を描く。
「あの後、マナミさんはどうなったの? マナミさんには会ってないの?」
話題を変えたくて急にそんなことを聞いた。
「昨日、離婚届けを出してきた」
「えっ!?」
この人には何度も驚かされているけど、こういうことは一向に慣れない。
「離婚って、そんな一大事、急に……」
「急じゃないよ。マナミとはじっくり話した。タイミングがたまたま昨日だっただけ」
「私がマナミさんのこと聞かなかったら言う気もなかったでしょ」
「当然だよ。君には関係ない」
私には関係ない……か。わかってる。そんなこと。
だんだん、宮永さんと話しているのがつらくなり、言葉が少なくなる。
「マナミは岩佐と一緒に連行されたけど、全ては岩佐の指示で動いていたことがわかるとすぐに釈放された。でも、岩佐との関係を聞かれて、大切な人と答えた。俺に迷惑をかけないために彼女から離婚を言ってきたよ。俺は断わった。そしたらいずれ岩佐と結婚したいからってさ。岩佐には妻子がいて離婚調停中らしい」
もう何も言えなかった。西の空も暗くなっていた。
「ノリコにこんなこと話す気なかったのにな……」
じゃ……と彼が言いかけたので、私は間髪入れずに言い放った。
「話す気ないなんて、ひどい人。私は何なの? あなたにとって何者なの? 関係ないって……確かに関係ないかもしれないけど……。単なる浮気相手くらいにしか思ってないのなら簡単に好きとか言わないで」
ケータイを持つ手が振るえていた。俯くと涙がポタッと落ちた。
「ごめん……。そういうつもりじゃなかった」
これ以上、言葉を交わすのがつらくなってそのまま電話を切った。
外灯が照らし出す公園は人影もまばらで、遠くで聞こえる路上ライブの歌声だけが昼間の喧騒を思い出させた。
その夜、なかなか寝付けなかった。隣に寝ている治樹が悪い夢でも見ているのか、うなされていて、その声にドキッとしてとても眠れる状態ではなかった。最近、嫌な夢ばかり見てしまう。寝返りを打つと今日の宮永さんとの会話が思い出された。自分のことは棚に上げて、言い放ったことを今さらながら後悔した。私は治樹と別れる気はない。治樹が私を守ってくれたように、私も治樹を守りたい。だから宮永さんとの関係は、私の浮気だ。これが私の一方的な片想いであったら、どんなに楽だっただろう。いや、もしかしたら私が想っているほど、宮永さんは想っていないのかもしれない。男の浮気と女の浮気は比重が違うのかもしれない。ふと気づくと、治樹がスヤスヤと眠っていた。
「治樹、ごめんね。悪い女でごめんね」
カーテンの隙間から薄い光が洩れてきた。このまま朝を迎えそうだった。
翌朝姉から電話があった。例の通販会社の件だ。パンフレットを捨ててしまったようでわからないとの回答にがっかりした。
「のりりん、ランチ行こ! なにボーッとしてんの?」
「あー、つぐみか。昨日ほとんど寝てなくて、もう眠くて……」
つぐみは大学時代の友人で、今の職場を紹介してくれたのも彼女だ。彼女は正社員で私は派遣だが、結婚を機に治樹の勤めている会社を辞めて、タイムシェアで働ける今の職場に移ってずいぶんと楽になった。
「久々に盛り上がっちゃったわけ?」
「なにオヤジみたいなこと言ってんの? しかも、久々って……」
親友のつぐみには、いろいろと打ち明けていたので、昨日までの一連の出来事もさらっと話した。
「治樹くんがかわいそう……。あんたバチあたるよ! なんなの? 旦那に浮気の調査されちゃうなんて、夫婦として終わってるよ」
つぐみは昔からズケズケ物を言う。そういうところが好きでもあるのだが、今回は堪える。
会社の近くの定食屋で本日の魚定食を頼んだが、まったく食が進まなかった。
「その宮永さんって人、私から言わせれば、とんでもない女たらしじゃん。離婚したなんてさ、旦那との仲を裂く気なんじゃない。のりりん、目を覚ましたほうがいいよ。ダメだよ、まじで……。のりりんって普段ガードが堅いくせに、こういうタイプにコロッっていっちゃうんだよね」
酷い言われようだ。しかし、客観的に話せば話すほど、第三者が聞いたらこういう感想になるんだろう。
「大丈夫。治樹と離れる気はまったくないし……。だけど、宮永さんのことをどうしても考えちゃうの」
「ダメだこりゃ。だいたいなんなのその宮永って男。のりりんのこと好きだって言っておいて、危険なことさせてさ。ふつう好きな女に危険なことさせる? そんでまだ奥さんを愛してるとかなんとか。その奥さんだって、彼の浮気が原因で宗教に走ったわけでしょ。女の敵じゃん!」
このまま放っておいたら、宮永さんの罵詈雑言で聞くに耐えなくなりそうだったので、話題を変えた。
「ねえ、もしつぐみの彼氏が宗教にハマったらどうする?」
今、つぐみは独身だが、意中の彼はいる。
「宗教か……。ハマるタイプじゃないと思ってるけど、人間わからないからな。それで人が変わるようなら、さよなら……かな。でもさ、宗教って実は魅力的じゃない?」
「えっ? どういうこと?」
意外な答えに聞き返す声が大きくなる。
「例えば失恋でもなんでもいいけど人生に失望した時に、何か自分以外の絶対的なものに身を任せられるって楽だろうなって思うことあるよ。……ま、今は仕事もそこそこ、恋愛もそこそこで頑張れてるけど、これから先何かあった時に最後の砦としてすがることがないとも言えない」
いつも明るく元気なつぐみがそんなことを考えているとは驚きだった。私もセミナーで朝倉さんの話を聞いた時、少し気持ちが揺らいだことを思い出した。
「最後の砦か……」
「のりりんはもうちょっと地に足を付けたほうがいいね。危なっかしすぎる。大切なものを見失わないようにね」
そう言って、定食のご飯を御代りした。
ふわふわと舞い上がった風船の糸をつぐみはしっかりと握って引き戻してくれる。
満開の桜に酔いしれ、世間がお祭り騒ぎをしていた頃、岩佐が詐欺容疑で逮捕された。
新聞の扱いは小さく、あくまでも一個人がやったこととして、教団は関与していないことが強調されていた。その中で私たちが初めて知った事実が明らかにされていた。朝倉さんは岩佐の義理の姉で今回の詐欺事件の共謀者だと言う事だった。新聞によると朝倉千鶴子はアクセサリー等を扱う通販ショップを経営しており、その顧客情報を岩佐に渡し、教団の勧誘に役立てていたのだ。また、仏像などの販売ルートも朝倉千鶴子の手を借りていた。詐欺罪として検挙された理由は、私が持ち出したあの黒いファイルが詐欺の証拠となったからだ。商品の本来の価値を偽り、その価値に見合わない高額の金を出させた違法な行為との判断だった。また、この証拠となり得るファイルを巡っての拉致監禁事件も考慮されたようだった。これからの取り調べでは霊感商法としての手口にも調査を広げていくとあった。
この岩佐の逮捕から1週間後、藤枝さんの母親が亡くなった。藤枝さんから直接電話で伝えられた。
「穏やかな死に顔だったよ」
藤枝さんがそう言った時、私たちがこうして動いているのはけっして彼女のためではないのだと思った。亡くなる前、岩佐が逮捕されたことを藤枝さんが母親に伝えると、「誰? なにをしたの?」と言ったという。裁判はこれからだ。判決が出るまでは長い。
私はこの岩佐の逮捕と藤枝さんの母親の死をきっかけにあることにも決着をつけようと心に決めた。
「マナミさんはこれからどうするつもりなのかな?」
私と宮永さんは捜査の協力依頼を受け、警察に足を運んだ。そこでマナミさんは不起訴になったことを聞かされた。全ては岩佐の指示で動いていたこと、直接の金銭の授受は受けていない事などが理由だった。帰り道、ほっとしたのと同時に疑問が湧いてきたのだ。
「岩佐の出所を待つんじゃないかな」
宮永さんは、ちょっと前まで自分の妻だった人に対して淡々と語る。
道路脇の桜はもうすっかり葉桜と化して、歩道に散った桜の花びらが過ぎ去る季節の早さを思わせる。満開の桜の中を宮永さんとこうして歩けなかったことが悔やまれた。
「謙翔会はマナミを除籍するだろうけど、彼女の心のよりどころはもうそこじゃないのかもしれない」
「岩佐?」
「さあね……」
そう言って、緑に侵されていく桜を見ていた。私は宮永さんがマナミさんを想う気持ちのほとんどを理解できていない。でもなんとなく償いのような愛を連想した。
宮永さんは前に電話で私が感情的になったことに関して、何も触れない。私もそれについては忘れたかった。
「藤枝さんのお母さんは被害者だったのかな?」
「その自覚はないまま、天国に行けたと思いたいな。結局被害者は藤枝ってことだろう。これから事情聴取で警察にいろいろ聞かれるんだろうな」
「不当に支払ったお金は返ってくるの?」
「裁判が終わってみないとわからないけど、まず、全額返ってくることはないだろうね。本人は満足して買っていることになっているから。今のところ他の購入者からの告訴もないし。俺の予想では半分返ってくればいいところかな」
「そんなもの?」
「購入者の意識にもよるからね。中には自分が高い金額で買うことで、それが教団の運営資金となり教団の発展に寄与するからという理由で購入してる人だっているかもしれない。ま、結局それは教団の運営資金にはならなくて、幹部のポケットマネーに化けてるわけだから詐欺だけどね」
藤枝さんの母親があれだけたくさん購入した理由はもしかしたらそれなのかもしれない。しかし、それを確かめるべき本人はもういない。
クラクションが鳴る。交通量の多い道路脇を並んで歩く。宮永さんと二人でこうして歩いていることを意識し出すと会話が止まってしまう。気持ちが揺らいでしまう。しばらく黙って歩いた。
交差点の手前で突然宮永さんが言った。
「結局、藤枝には聞けなかった……」
「なにを?」
「ノリコが書いた俺宛のメールの内容」
私はその場で止まってしまった。
「あれ?」宮永さんが振り返る。
私は深呼吸を一つした。
「あなたが大嫌いです。その性格どうにかなりませんか? ……って書いたの。よかった、届かなくて」
「ふーーん……」
宮永さんが疑うような目で見る。
「最初の頃の印象最悪だったもの」
私はそれ以上、宮永さんを見られなかった。
歩道のコンクリートに涙がぽたぽた落ちた。信号が青に変わったが渡る事が出来ない私。
「ノリコ、ちょっと待ってて」
急に走り出してタクシーを止めた。泣いてる私を無理矢理ひっぱってタクシーに乗せる。
「何すんの?」
「もう会わないつもりだろ。だったら最後に俺に好きなことさせてよ」
宮永さんが運転手に行き先を告げる。よく聞こえなかったが聞き慣れない名前だった。
タクシーは市街地を抜け、郊外に向かっていること以外、地理に疎い私にはわからなかった。
さっき泣いた事が恥ずかしくなり、私はわざとぶっきらぼうに言った。
「どこに連れていくの? 夕飯までには帰してくれる?」
「これだから人妻はいやだな。わかったよ。六時までには帰す」
運転手は不倫現場に立ち会っていると思っているだろう。
後部座席で宮永さんが私の手を握る。私はドキドキしたがその手を感じていることにした。
「ノリコと寝なくてよかった」
「え?」
「きっと寝てしまったら、手をつないだだけでドキドキすることはなくなっちゃうだろ?」
「それって、一度寝た女にはときめかなくなるって言ってるのと同じ!」
「わかってないな。それはそれで違うステージで楽しめるんだよ」
「なんかやらしい……。やっぱり女ったらしだ!」
車の中の会話はしんみりしないように、彼流のトークが炸裂していた。
宮永さんとはセックスはしなかった。だけど、こうして手を握り合っていることがそれ以上に二人が繋がっていることを感じさせた。
私がやっていることは不倫だ。どう考えても。だけど神様、今日で終わりにします。だから今日だけ、溺れさせて下さい!
車で一時間近く走った。高いビルは姿を消し、家々の間隔も広くなってきた頃、川が見えてきた。その先は自然豊かな丘陵が広がっている。
「ここはどこ?」
「東京の果て」
宮永さんが前のめりになって、運転手に行き先の指示を出す。橋を渡る。橋の脇に掲げられた標識でこの川が多摩川だとわかった。そこから数分走ったところで宮永さんが運転手を止めた。
「ここまででいいよ」
タクシーの料金表示は一万を軽く越えていた。
「こっからちょっと歩くけど」
タクシーを降りて細い脇道を並んで歩いた。
日もだいぶ傾いてきた。こんなに遠くに来て、本当に六時に帰れるのだろうか。それよりも何よりも宮永さんがここに連れてきた目的は? 私にはある予感があった。道はさらに細くなり勾配がきつくなる。周辺は完全に木々に覆われていた。
「大丈夫?」宮永さんが手を差し伸べた。
こういうストレートな優しさは、なぜか恥ずかしくなってしまう。そこから先は手をつないで歩いた。甘く、そして苦しい、妙な気分だった。
十五分近く歩いただろうか。急に開けたかと思うと遠くにピンク色の霞が見えた。
「桜……」
「間に合った」
少し早足になる。小さな板橋を渡ると左手の斜面に満開の桜の群生林が広がっていた。そして、たった今散り始めたかのように、花びらが降り注いだ。
「ここなら時間を遡れただろ?」
次から次へと舞い降りてくる桜の花びらを全身に浴びながら、ゆっくりと手をつないで遊歩道を歩く。私は感動のあまり言葉が何も出てこなかった。
「ノリコと満開の桜の中を歩いてみたかったんだ」
思ったことをストレートに言える宮永さんが羨ましかった。
「宮永さん……」
「ん?」
「漣って呼んでいい?」
私はずっと言ってみたかった言葉をようやく口に出来た。
「どうせならもっと早く呼んでほしかったよ」
「漣……」そう言って宮永さんの腕に自分の腕をまわした。
宮永さんと出会って初めて自分の箍を外した気がした。
遊歩道には今が見ごろということもあって、平日にも関わらず、数組の人たちが同じように桜を堪能していた。しかし、そんな人目はお構いなしに私たちは遊歩道で抱き合った。
宮永さんの荒い呼吸が耳元で聞こえる。首筋に彼の体温を感じる。
「漣……」愛してしまった人の名前を呼ぶ。
私たちは桜の下で男と女の本能をぶつけ合った。彼の手が私の頬を包み、唇を重ね合わす。私は目を閉じ、彼の両手の温もりを頬から首筋に感じながら、顔が紅潮してゆくのがわかる。キスという一線を越えた二人のどうしようもないくらいの欲望を互いに曝け出していた。初めて会った時には、見ているだけで女心を揺さぶられる、単調な日常の対極にいるような人物であったこの人と、今、こうして抱き合っている事実は、素直に受け入れることが怖いほどの至福であった。どこかで感受性を麻痺させないと、壊れてしまうほどに、私の心を射抜いていた。
「ノリコ……アイシテル」
彼の声が耳元で聴こえる。とどめのような一撃に私は過剰に反応した。
「やめてよ。どうしてそういうこと言えちゃうの?」
彼と目が合う。
「君の旦那の前でだって、言ってやるよ」
私が何か言い返すタイミングを奪うように強引なキスをする。それは濃厚なキスへと変わる。花吹雪が舞う中、私たちは何度も何度もキスをした。
いつか罰が当るかもしれない。一瞬私の脳裏に浮かんだその言葉は、目眩となって私を襲った。このまま桜の花びらと一緒に地面に溶けてしまいそうだった。
「宮永さん……」
自分の発したこの言葉で私は終止符を打った。
宮永さんは唇を離し、ため息を一つ吐いた。
「宮永さん……」私は意地悪く繰り返した。
彼は上方の桜に目を向け、舞い降りてくる花びらを手ですくった。そしてそれを手のひらで包み込んだ。その一連の動作は見蕩れるほどに美しかった。
「もう少し愛し合いたかった」宮永さんが呟やいた。
ありがとう……。さようなら……。私は心の中で呟く。
その声が聞こえたかのように、「ノリコの判断は正しい」と言った。
二人の間を絶え間なく花びらが舞い降りる。
「でもね……俺はまた欲求不満だよ」
そう言って拗ねる宮永さんが妙に愛しくなって、泣きそうになった。
このタイミングを逃したら、もう言えない気がした。
「私は夫を愛してます。彼なしでは生きられないくらいに……。だから宮永さんに恋するのは今日で終わりにします」
そこまで言って笑顔を作った。もう絶対泣かないと心に決めた。
二人の間に数秒の沈黙があった。
宮永さんは言葉を噛み締めるようにゆっくり言った。
「わかった……。君のために、俺も、君に恋するのは今日で終わりにするよ」
出会った頃の宮永さんだったらもっと別の言い方をしていたに違いない。
「私のために?」
私は視線を上に向けた。
「その言葉、世界で一番嫌いな言葉だわ」
夕暮れの暖かな色合いになった空はまるで桜の薄紅色が溶け出したようだった。
六時までにはあと一時間しかなかった。
それは宮永さんといられた最後の一時間だった。
藤枝さんから、久々に会わないかという連絡をもらったのは、五月下旬の夏の到来を思わせる暑い日だった。藤枝さんと初めて会ったレストランで会う約束をした。
「盛崎さん、こっち」藤枝さんが手を振る。
約束の時間より早めにやってくるところは相変わらずだった。
「お久しぶりです。お母様のことは本当に残念です。なんて言っていいか……。何も出来なくてすみません」
「何も出来ないって、あれだけいろいろやってくれて、僕のほうがどんなに礼を言ったって足りないくらいだよ」テーブルに付くくらいに頭を下げた。「本当にありがとう」
「お礼なんて要りません。頭を上げてください」
こういうところはぜんぜん変わってない。
今日のおすすめを二人分頼んで、改めて向き合った。
「もう落ち着いたんですか?」
「引っ越しの段取りも全て終わって、後は引っ越しの日を待つだけ」
「引っ越すんですか?」
「母親もいなくなったし、一人で住むには持て余す家だからね。手頃なマンションに移ることにしたんだ」
「どこに?」
「川崎」
「遠くなっちゃいますね。あっ、でも宮永さんちに近い」
言ってからシマッタと思った。
しかし、意外な答えが返ってきた。
「あれ? 宮永から聞いてない? あいつアメリカの本社に転勤になったんだよ」
私は頭が真っ白になった。現実を受け入れるのに時間がかかった。
「やっぱり盛崎さんには何も言ってないんだね。宮永は本社で働くのが夢だったから、多分もう帰ってこないんじゃないのかな。あのマンションも売っちゃったし……」
藤枝さんはきつい一言をサラッと言った。
「あっ、ごめん。盛崎さんの気持ちも考えないで、僕が勝手に思っただけで、彼がそう言ったわけじゃないから……」
これが罰なんだ。そう思った。私はこれからずっと、桜が咲く季節になると、帰ってこない人を想って苦しむのだろう。
「藤枝さん。もうその話はいいです。私の中ではもう決着はついてますから」
嘘をついた。でも自分ひとりが苦しむだけだ。後で思い切り苦しもう。
私は別のことを考えようと努力した。
「あの後、裁判はどうなったんですか?」
「まだ、結審はされてないんだけど、僕以外にも購入者が訴えを起こしてくれて、少し有利にはなってきている。でも罪としてはそんなに重くなくて、刑事事件にはならなかったし、虚偽の記述をしたことが詐欺にあたる、少額の損害賠償請求で終わりそうだ」
「そんなものなんですか? 霊感商法としての罪は?」
「今のところ被害者側の証言のみで、立証が難しい。すべて口頭での説明だし、カタログの記載もうまく暈してあって、法に触れるような記述はされていないんだ。ただ、証言してくれる人間が増えれば、違う展開になるかもしれない」
私はいつでも証言台に立つつもりでいることを告げた。
「藤枝さんはこれで納得できるのですか?」
「なんかね。母親の最後に立ち会って思ったのは、母を静かに、心安らかに逝かせてあげたいってことだけだったんだ。だから、訴訟とか裁判とか、母の耳に入れたくなくて、自分で焚き付けておきながら、避けてたんだ。母が亡くなって、お金を取り戻すだけの裁判と思ったら、急に意義がなくなったような気がした。でも今は、これ以上被害者が出なくなったことに、裁判を起こした意義があったと思ってるよ」
藤枝さんが申し訳なさそうに私に見た。
「盛崎さん、あなたには本当に迷惑をかけてしまったと思ってる。危険な目にも遭わせてしまった。僕が考えなしにお願いをしてしまったばかりに……」
私はなぜか腹立たしくなった。
「私を被害者にするつもりですか? 勇敢に行動して、やり遂げたと思っているのに。褒めてほしいです……」
私はそこで言葉に詰まってしまった。下を向くと涙がテーブルにぽたぽた落ちた。
「盛崎さん……」
「私なんで泣いてるんだろう……。ごめんなさい」
無理に笑顔を作ってみせた。いろんなことが有り過ぎた。容量をオーバーした水がコップから零れ落ちるように、涙は正直だった。
「藤枝さん覚えてる? 宮永さんと三人で初めて会った時、乾杯の時に宮永さんがこう言ったんです。この出逢いはない方がよかったんじゃないかって」
「ああ、そんなこと言ったな、あいつ。ひねくれもんだから」
「あはは……」可笑しくなった。
あの時も藤枝さんはそうフォローした気がする。
「でも、私にとって、この出逢いは宝物です。あのね、この経験がうちの旦那との絆を深めてくれたんですよ」
「あれ? それってのろけ? 宮永、海の向こうで泣いてるね」
私たちは声をあげて笑った。窓から注ぐ眩い日差しはテーブルにくっきりとした格子の影を作った。夏になったら……笑顔の奥に隠したこの鈍い痛みは消えてなくなっているだろうか。
式場に向かう途中、治樹が突然言った。
「教ちゃん、もし俺が浮気したらどうする?」
「え? 浮気してんの?」
「したら……仮定のはなし!」
何だか、意地悪な質問のような気もしたが、素直に答える。
「たぶん、すごいショック。立ち直れないかもしれない」
「あの人とは浮気だったの?」
やっぱりきた。
でも、私は慌てなかった。その質問の答えをすでに考えていたから。
「たとえばさ、治ちゃん、小雪好きじゃん。もし、会社にそっくりな女性が現れたらたぶん惚れるでしょ? そういうレベルの話。それが現実に起こっちゃったの。だけど、それって、ただの憧れで、その人と日常生活を送るとか、苦しいことも、みっともないことも一緒に共有しようとは思わないじゃない? それが浮気ということなら浮気だったと思う。だけど治樹の代わりになるとは一度も考えなかったし、最初から一線を引いて、それを踏み越える発想はぜんぜんなかったの」
最後の言葉を過去形にしたことで、嘘は言っていなかった。
治樹は一瞬考え込んだ後、ゆっくりと言葉を選びながら話した。
「でもやっぱり浮気だよね。僕は傷付いた。あの人を殴ってやりたいと思った。そんで教ちゃんが信じられなくなって、すべてを疑った。探偵を雇うなんてこともしてしまった」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
私はこれ以上聞きたくなくて、治樹の言葉を遮るように謝った。どんなに謝ったって、たぶん許してはくれない。
「浮気でよかった」
「え?」
「教ちゃんを失うことが一番つらいんだ」
治樹が私の手を握った。この人の子供を生んで、老けていく自分が幸せだと思った。
「新郎、新婦入りまーす」
コーディネーターが声高に告げる。
今日は姉と沢井さんの結婚式。私の中にあった複雑な思いはもうない。八月の暑さの中での結婚式だったが、ウエディングドレスに身を包んだ姉はほんとうに幸せそうだ。沢井さんは着なれないタキシードを着て緊張気味。今日からお義兄さんと呼ばなくては。
「教ちゃん、ネクタイ曲がってない?」
「曲がってる。ちょっと待って、直すから」
「右側の裾直して」
カメラマンの助手が新婦のドレスの裾を直す。
「はい、皆さーん! ここを見てくださーい」
フラッシュが焚かれる。
「やべ、目閉じちゃった」治樹が横で大声で言う。
「はい。じゃ、もう一回ね。そこの人、あと三回撮りますから一回くらいは目開けといてくださいね」
どっと笑いが起きる。
「はーい、じゃ、撮りまーす」
二回目は皆緊張も溶けて、にこやかな表情になる。プロのちょっとしたテクニックだ。
親族のみのささやかな結婚式は、年齢的にも落ち着いた二人にとっては、非常にしっくりとくる、何よりも親思いの結婚式だった。
父は、私たち姉妹が嫁に行くまでは死ねないというのが口癖だった。以前、姉は結婚を決め、父に報告までした後に失恋した経緯があった。その時の父の失望といったらなかった。だから今回こうして無事に結婚式をあげられたことを母親以上に喜んでいた。母はここ何年かで急に老け込んだ印象だったが、今日はとても晴れやかな顔をしていた。
「教子の結婚式は、なんだか騒々しかったけど、落ち着いて料理食べられるし、いいわね」
母が横で鴨のソテーを口に運びながら言った。それを斜め前で聞いていた治樹がすかさず答える。
「お義母さん、やっぱ、あのマツケンサンバが強烈だったですかね~」
「あら、あれはあれでいいのよ~。治樹くんらしいし~」
職場結婚ということもあって、同僚から上司まで、結構な人数を呼んで、新郎自らマツケンに扮し、派手派手にやったのだった。
「お母さん、あの時けっこうノッてたよ」
「教子のためだもの、そりゃ、ノルわよ」
一瞬、チクンとくるが、その場の笑いに紛れてしまった。
母は姉が宗教に入っていることを知らない。だから、沢井さんとの出会いが謙翔会ということも当然知らないし、不思議なことに沢井家においても、その話が出ることがなかった。沢井さんは父親を幼い頃に亡くし、母親は寝たきりのため、今日の式には出ていないが、彼のお姉さんの旦那さんが式の様子をずっとビデオカメラに収めていた。
姉に「私にはさんざん勧誘したくせになんで父にも母にも謙翔会のことを言わないの?」と結婚が決まってすぐに聞いたのだが、「お年寄りは頭が固いから、うちの両親は特に……。言っても理解してくれないでしょ?」という答えだった。私には理解できるという姉の基準がわからなかった。そう言えば、治樹に対しても直接的な勧誘はしなかった。私が偽りの入会をしていたことを知ってから、もう誘うことはなくなったが、以前姉はこう言っていた。
「私は誰彼と見境なく勧めているわけじゃないのよ。中には多くの人を入会させると自分の位階が上がるからそうする人もいるかもしれないけど、私はそんなつもりはない。信頼関係のある人に対して、より良い世界を見せてあげられると思っているから勧めているの」
より良い世界――それは姉の基準で作られた世界だ。姉にとってはそれが謙翔会という宗教だったけれど、私は姉ではない。
ふと、宮永さんが387というハンドルネームでサイトに書いていた言葉を思い出した。
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日本人は生活の中で“宗教”と言うと、いかがわしい新興宗教を思い出して眉をひそめる。何かを信仰している人に対しては心の弱さを見いだす。
だから「宗教にハマっている」という言い方をするのだ。そもそも宗教にいいも悪いもない。問題なのは人の信心を利用して悪企む連中と、自分の信念を押し付ける連中。前者は悪意をもって、後者は善意をもって。どちらがやっかいかはわかるだろう。
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藤枝さんが立ち上げた被害者の会のサイトは先月閉鎖された。
「え~、では、続きまして、新婦の妹さんご夫婦、盛崎治樹さん、教子さん、スピーチをお願いします」
急に指名されてびっくりしたが、治樹はもうマイクを手にしていた。
「只今ご紹介に預かりました、新婦の妹の旦那であります、盛崎治樹です。どうもはじめまして」沢井家の親族に向かってにこやかに挨拶をする。「こういう挨拶は苦手なので、短く要点のみをしゃべりたいと思います」
ここで笑いが起きる。前にスピーチした伯父さんが長かったためだ。
「陽介さん、有里子さん、ご結婚おめでとうございます。結婚に関しては一応は先輩でありますので、夫婦円満のアドバイスをしたいと思います。危機こそチャンス! ……以上」
胸の奥がわずかに疼いた。
「え~意味はですね、困難なことを乗り越えると愛が深まるということです。私たちは今愛が深まっています」
治樹が私の肩に手を乗せる。誰かがヒューという声を出す。
「ありがとうございます。それにしても危機ってなんですかね。聞かないほうがいいですかね」
司会者が受けるとどっと笑いが起きた。
「では、教子さん、お願いします」
私は緊張してしまって、頭が真っ白になっていた。とにかく何か喋らなきゃ……。
「陽介さん、有里ちゃん、結婚おめでとうございます。……姉は昔から優秀で、優秀な姉をもった身としては、劣等感の固まりで、姉は私をいろいろと心配してくれるんだけど、それが負担だったりして……」
ああ、何を言ってるんだろう。こんなおめでたい席で。そうだ! 深呼吸だ。ゆっくりと息を吸い込んでゆっくりと吐く。前方の姉の顔がはっきりと見えた。
「でも、そんな有里ちゃんが大好きです! 陽介さん、有里ちゃんを幸せにしてあげてください。姉は優秀な分、挫折が少ないから脆いところがあるんです。姉をよろしくお願いします。ほんとに今日はすごく嬉しいです」
喋るにつれて姉の顔が暈けていき、喋り終えた時には涙目になっていた。壇上の姉を見ると、私と同じような顔をしていた。
「教ちゃん、こっち」治樹が私を呼ぶ。
沢井さんと二人で喋っている。もうお義兄さんである沢井さんと打ち解けているようだ。こういうところはいつも尊敬する。治樹は謙翔会で知り合った沢井さんに対して最初は偏見をもっていたようだったが、そこは沢井さんの人柄なのか、「話してみると面白い人だね」と言って、治樹の中にあったフィルターは取り払われたようだ。
「有里ちゃんは?」
「着替えに行ってるよ」
沢井さんが答える。最初に会った時からすんなり懐に入れるような安心感があるのは、年齢のせいなのか、笑った時に表れるいい感じの皺のせいなのか、この人が謙翔会という宗教に入信していることを知る前も知った後も、何の違いもないだろうと思った。
「おまたせしました!」
「もう脱いできちゃったの? もったいない」
ウエディングドレスを脱いで、藤色のワンピース姿になった姉はほっとした表情をしていた。
「なんだか、ウエディングドレスって落ち着かない」
「一生に一度しか着られないのに……」
「二度着たらやだよな」
「治樹くん、その冗談はタブー」すかさず沢井さんがつっこみを入れる。
以前だったら治樹のそんな冗談にもっと過剰に反応していただろう。それは私の中で宮永さんの現実味がなくなってきたからだ。この先もっと薄れていくことに悲しみが伴うことだけは許してほしい。
姉は治樹の笑えない冗談をまったく意に介さず、四人で写真を撮ろうと言って、近くにいた親戚の叔父さんにカメラマンを頼んだ。
「はい、いいかい、撮りますよ」
デジカメだというのにファインダーを覗き込む叔父さん。
「叔父さん、そこから見なくても、その液晶に写ってるでしょ」
治樹が説明する。
「ええ~?」
これは時間が掛かりそうだった。
姉は私の横で囁いた。
「今、とっても幸せ」
私は心の底からこう言った。
「そう、よかったね」
― 終 ―




