第9話 あなたの隣に立つなら、私が決めたい
夜会の翌朝。
私は、少しだけ寝不足だった。
理由は分かっている。
ユリウスに『今日は、とても綺麗です』と言われたからだ。
「……今さら?」
鏡の前で呟く。
一晩経ったのに、思い出すたびに顔が熱くなる。
社交辞令なら何度も聞いた。けれど昨日の言葉は違った。言いたかったから言った、と彼は言った。
それが、とても困る。
「お嬢様?」
「何でもないわ」
「そうですか?」
「ええ」
私は鏡から離れた。
今日は朝から街道整備の最終協議がある。考えるべきことは他にたくさんある。
◇
商業組合との会合は、思っていたより難航した。
「冬季の通行料を上げるというのは困ります」
組合長が腕を組む。
「水路の維持費として必要なのは理解しますが、荷馬車一台ごとに徴収されては負担が大きい」
父の代理として出席していた私は、資料を見る。
「では、年間通行証にするのはどうでしょう」
私は、頻繁に使う商会は定額、年に数回の利用者は一回ごとの料金にする案を出した。
「それなら負担の見通しは立てやすい」
組合長が頷く。
隣に座っていたユリウスが資料へ目を落とす。
「料金設定を二種類にする?」
「はい」
「管理は?」
「両端の検問所で。通行証には両家の印を入れます」
「片方だけでは?」
「駄目です。この街道は両領が維持します。あとで責任を押しつけ合いたくありません」
「ずいぶん実感のこもった理由ですね」
「経験から学びました」
「それなら強い」
組合長も笑う。
昼過ぎ、条件がまとまった。
「この案で組合へ持ち帰ります」
組合長を見送り、会合室には私とユリウスだけが残った。
「疲れました?」
「少し」
「でも楽しそうだった」
「最近、そればかり言いますね」
「本当なので」
私は書類をまとめる。
「以前は、こういう場に出るとは思っていませんでした」
「婚約していた頃?」
「ええ。結婚後は侯爵家でレオナルドを支える。それが私の人生だと思っていました」
今でもそう思う。
ただ。
「自分の家のことなのに、私はずっと『結婚するまでの仮の場所』みたいに思っていたのかもしれません」
「アルフェルト領を?」
「はい」
いつか離れる場所だと思っていた。
「今は?」
「残りたいです」
言葉は自然に出た。
自分でも驚かなかった。
「ずっと?」
ユリウスの声が少し変わった。
「少なくとも、誰かと結婚するからやめる、とはもう思いません」
私は資料を閉じた。
「これが私の仕事だ、と言えるくらいには関わりたいです」
ユリウスはしばらく黙っていた。
「そうですか」
「何です、その顔」
「いえ」
「反対?」
「まさか」
「では?」
「困りました」
「何がです?」
彼は答えなかった。
◇
その意味を知ったのは、翌日だった。
◇
「セシリア」
朝食後、父に呼び止められた。
「王都にいる間に話しておきたいことがある」
「何でしょう」
「クレイン伯爵から、話が来た」
「街道について?」
「いや」
父は妙に真面目な顔をしている。
嫌な予感ではない。ただ妙な予感だった。
「ユリウス殿との縁談だ」
私は、しばらく言葉が出なかった。
「……縁談?」
「ああ」
「私と?」
「他に誰がいる」
心臓が急に忙しくなる。
「いつ?」
「昨夜」
「ユリウスは知っているのですか?」
「もちろんだろう」
「もちろん……」
昨日、会合のあとも彼は何も言わなかった。「困りました」とだけ。
「返事は?」
父が聞く。
私は顔を上げる。
「もうなさったのですか?」
「していない」
ほっとした。
それが顔に出たらしい。
父が苦笑する。
「そんな顔をするな」
「だって」
「お前に聞かずに決めると思うか?」
「……いいえ」
「なら」
父は椅子へ座り直した。
「お前はどうしたい」
その質問に、もう戸惑うことはなかった。
「分かりません」
父の眉が上がる。
「嫌なのか?」
「違います」
「では好きなのか?」
「お父様」
「何だ」
「少し楽しんでいません?」
「父親だからな」
「関係ありません」
父は笑った。私は少し考えた。
「ユリウスと話したいです」
「縁談のことを?」
「はい」
「分かった」
「それから決めます」
「そうしろ」
父は、それ以上何も言わなかった。
だから、私は自分で手紙を書いた。
『お話があります』
『今日、少しお時間をいただけますか』
◇
待ち合わせたのは、王都屋敷の庭だった。
正式な縁談の話をするには少し気軽すぎる場所かもしれない。
でも、応接室で向かい合うより、ここがよかった。
ユリウスは私を見るなり。
「聞きました?」
と言った。
「聞きました」
「怒っています?」
「少し」
彼の顔が固まる。
「やっぱり」
「私には先に言ってくれなかったので」
「……それは」
「なぜお父様が先なのです?」
「正式な縁談なので」
「私へ言ってからでは駄目だったのですか?」
珍しくユリウスが困っている。少しだけ気分がいい。
「セシリア」
「はい」
「私も、どう言えばいいか分からなかったんです」
「あなたでも?」
「私を何だと思っているんです」
「何でも意見を言える人」
「仕事なら」
彼はため息をついた。
「こういうことは、別でしょう」
「そういうものですか」
「そういうものです」
秋の庭に冷たい風が吹く。
「では」
私から言った。
「聞かせてください」
「何を?」
「どうして、私と結婚したいのですか」
ユリウスが息を止めた。
直球すぎても、これを聞かずには決められない。
「私がアルフェルト伯爵家の娘だから?」
「違います」
「街道の仕事ができるから?」
「それも違う」
「では?」
彼は、しばらく考えた。
「最初は、あなたをとても我慢強い人だと思っていました」
「それは褒めています?」
「今は褒めていません。王都で見かけるあなたは、いつも周りが一番困らない答えを選んでいた」
「……見ていたのですか」
「何度か。立派だと思いました」
一度、言葉を切る。
「でも、領地で再会して」
私は待った。
「でも領地で、自分の意見を言ったあとに不安そうな顔をするあなたを見た。それでも次の日にはまた意見を言った。間違えたら訂正して、反対されたら理由を聞いた」
ユリウスの表情が柔らかくなる。
「自分がどうしたいのか、少しずつ口にするようになった」
彼が私を見る。
「私は、そのあなたが好きです」
言葉が出なかった。
「誰かのために何でもできるセシリアではなく、嫌なことは嫌だと言うあなたも、間違えるあなたも」
「そこは入れなくても」
「重要です。完璧だから好きなのではないと伝えたいので」
本当に、この人には困る。
「仕事を続けたいなら、結婚しても続けてほしい」
「クレイン領へ移らなくても?」
「それも相談しましょう。普通と、私たちに一番合う方法は別です」
私は彼を見る。
「昨日」
ユリウスが苦笑する。
「あなたが、誰かと結婚するから仕事をやめるつもりはないと言ったでしょう」
「はい」
「それを聞いて困った」
「なぜ?」
「私が求婚したら」
「あなたがまた、自分のしたいことを諦めるのではないかと思ったからです」
「だから」
ユリウスは言う。
「先に伯爵へ、条件を伝えました」
「条件?」
「結婚しても、あなたがアルフェルト領の仕事を続けること」
「……」
「住む場所も、役目も、子どもができた場合も」
「そこまで?」
「全部、二人で決めること」
私は笑った。
「すごく、あなたらしいと思って」
「褒めています?」
「とても」
それから、私は急に怖くなった。
幸せになりそうだと思うほど、また間違えたらどうしようと怖くなった。
結婚したら彼も私も変わり、私はまた相手へ合わせすぎるかもしれない。
「ユリウス」
「はい」
「私」
喉が少し乾く。
「怖いです」
彼は笑わなかった。
「何が?」
「結婚することが」
「一度、もうすぐ結婚するところまでいったから」
「はい」
「今度は大丈夫、と簡単には思えません」
「そうでしょうね」
「それでも?」
「それでも」
即答だった。
「怖くなくなるまで待ちます」
「……」
「結婚しないという答えでも、受け入れます」
優しいからだけではない。この人が、本当に私の答えを必要としているからだ。
「私が断ったら?」
「かなり落ち込みます」
思わず笑った。
「でも」
彼は続けた。
「それであなたの答えを変えさせようとはしません」
私は目を閉じた。
レオナルドは「私なら分かってくれる」と言った。
ユリウスは、私が分からないと言っても待ち、嫌だと言っても受け入れる。
小さく見えるその違いが、きっと人生を変える。
「すぐには」
私は言った。
「すぐには、結婚すると言えません」
「はい」
「でも」
一歩、彼に近づく。
「あなたと一緒にいたいです」
ユリウスの目が見開かれる。
「それは」
「求婚への返事ではありません」
「……厳しいですね」
「大事なので」
「はい」
「まず」
私は笑った。
「恋人になりませんか」
「……私から言う予定だったんですが」
「遅いです」
「伯爵への話を先にしてしまったので」
「知っています」
「順番を間違えましたね」
「かなり」
「やり直していいですか」
「どうぞ」
ユリウスは一度息を吸った。
それから、私へ手を差し出さず、まっすぐ見た。
「セシリア」
「はい」
「私と、お付き合いしてください」
「はい」
自分で選んだ。
家の都合でも、相手を傷つけたくないからでもない。
私が一緒にいたいと思ったから、その答えを口にした。
◇
帰宅すると、父が執務室で待っていた。
「どうだった」
私は椅子へ座る。
「結婚の返事は保留です」
「そうか」
「でも」
「でも?」
「お付き合いすることになりました」
父が、しばらく無言になった。
「……なぜ縁談から交際に戻るんだ」
「順番が逆だったので」
「誰のせいだ」
「ユリウスです」
「そうか」
父は机に肘をついて額を押さえた。
「お父様」
「何だ」
「反対?」
「まさか」
顔を上げる。
「お前が決めたのだろう」
「はい」
「ならいい」
その言葉に、私は少し笑った。
◇
その夜。
私は王都屋敷の自室で、アルフェルト領の地図を広げていた。
街道。
水路。
村。
これから整えたい倉庫。
冬の輸送。
春になったら確認したい畑。
やりたいことが、たくさんある。
そして、机の端には、ユリウスから届いたばかりの小さな手紙。
『明日の昼食はいかがですか』
『仕事の話は半分までにします』
思わず笑う。
私は返事を書く。
『半分もするのですね』
『でも、行きたいです』
そこまで書いて、少し考え、一行足した。
『私からも話したいことがあります』
やりたい仕事も、行きたい場所も、話したいことも、少しずつ増えている。
誰かの人生へ入れてもらうためではない。
私自身の人生に、私が選んだものを一つずつ置いていくために。
私は手紙を封じた。
明日もきっと、自分で決めることがある。
それが今は、楽しみだった。




