第8話 今度は、私が選びます
王都へ戻ってから一週間。
私は、婚約解消後初めて夜会へ出席することになった。
「本当に行くのか?」
出発前、父が三度目の確認をした。
「行きます」
「まだ噂は完全には消えていないぞ」
「知っています」
「お前が嫌なら、断って構わない」
「嫌ではありません」
私は鏡の中の自分を見た。
淡い青のドレス。婚約中なら選ばなかった色だ。
レオナルドは濃い色を好み、私も彼が喜ぶならと合わせていた。
今日の青は、私が好きだから選んだ。
「それに」
私は振り返る。
「いつまでも、噂がなくなるまで待っているわけにもいきません」
父は少し考えてから頷いた。
「分かった」
「お父様」
「何だ」
「もし何か聞かれても、助け舟は出さないでくださいね」
「……ずいぶん注文が多いな」
「自分で答えてみたいんです」
父は苦笑した。
「承知した」
◇
夜会の会場は、王都でも有名なオルブライト公爵家の大広間だった。
扉をくぐった瞬間、いくつもの視線がこちらへ向く。
すぐに逸らされる。
「注目されていますね」
隣にいた父が小声で言った。
「楽しそうですね、お父様」
「娘が強くなったのでな」
「他人事だと思って」
笑って返す。
以前なら、この視線だけで帰りたくなったかもしれない。
婚約者を捨てた気まぐれな令嬢か、別の女性に婚約者を奪われた哀れな女か。
以前なら、誰にどう思われているのかだけで帰りたくなった。
でも今は少し違う。
全員に分かってもらわなくていい。
私に尋ねる人がいれば、その人には私が答えればいい。
「セシリア嬢」
聞き覚えのある声に振り向く。
「ユリウス」
彼も今夜は礼装だった。
領地で見る姿とは印象が違う。
「来たのですね」
「あなたも」
「父に捕まりました」
「クレイン伯爵に?」
「冬の間くらい社交をしろ、と」
「では、今日はお仕事ではない?」
「一応」
彼は少し顔を寄せる。
「三人ほど、街道の話をしたいという方には捕まりましたが」
「十分お仕事ですね」
「あなたには言われたくありません」
「私?」
「会場へ入って十分で、もう商業組合長に声をかけられていましたよ」
「見ていたんですか?」
「たまたまです」
「あら、セシリア様」
別の声がした。
振り返る。
数度茶会で会ったことのある伯爵夫人だった。
「ご無沙汰しております」
「本当に。いろいろ大変だったそうね」
来た。
「お気遣いありがとうございます」
夫人は声を潜めた。
「こんなことを聞くのは失礼かもしれないけれど……本当に、あなたから婚約をお断りになったの?」
隣で父が動かなかった。
約束を守っている。
ユリウスも何も言わない。
二人とも、私を見るだけだった。
「いいえ」
私は答えた。
「婚約解消を申し出たのは、レオナルド様です」
夫人の目が丸くなる。
「まあ」
「ただ、私も同意しました」
「では、やはり何か事情が?」
「レオナルド様に、他に想う方ができました」
夫人が息を呑む。
私は続けた。
「そのため婚約を解消したいとのお話があり、私が受け入れました」
「でも、あなたが結婚に迷っていたと」
「それは事実ではありません」
言ってみると、思っていたより簡単だった。
夫人は気まずそうに目を伏せた。
「ごめんなさいね。変な噂を聞いてしまって」
「いいえ」
「あなたから聞けてよかったわ」
それだけ言って、夫人は去っていった。
「どうでした?」
ユリウスが尋ねる。
「何が?」
「自分で答えてみて」
「思っていたほど怖くありませんでした」
「それはよかった」
「でも」
「はい?」
「本当に何も言わないんですね」
「言わないでほしいと言ったのはセシリアでしょう」
「そうですけど」
「不満ですか?」
「いいえ」
私は笑った。
「むしろ、嬉しいです」
「なら安心しました」
◇
その後も、二人、三人と似たようなことを尋ねてくる人がいた。
私は同じことを答えた。
婚約解消を申し出たのはレオナルドで、私は同意した。彼には他に想う女性がいた。私は身を引いたわけではない。
それ以上は責めず、飾らず、事実だけを答えた。
そして、四人目と話し終えたところで、会場の空気が少し変わった。
レオナルドが来た。
侯爵夫妻と一緒だった。
でも、逃げたいとは思わなかった。
向こうも私に気づいた。
目が合う。
レオナルドは立ち止まった。
私は軽く会釈した。
彼も同じように返す。
以前とは違う。胸は締めつけられず、彼の表情から気持ちを読み取ろうとも思わない。
◇
「セシリア嬢」
しばらくして、年配の侯爵夫人に声をかけられた。
「少しよろしい?」
「もちろんです」
彼女はレオナルドの家とも交流の深い人物だった。
「ずっと気になっていたのだけれど」
「はい」
「あなたとレオナルド殿の婚約解消についてね」
まただ。
私は構えた。
「私が聞いたところでは、あなたが結婚に迷いを感じていたとか」
「それは」
「違います」
声がした。
私ではない。
振り返る。
少し離れたところにいたレオナルドだった。
侯爵夫人も驚いて彼を見る。
「レオナルド殿?」
彼は私の隣まで来た。
ただし、以前のように私の代わりに話すためではなかった。
私を見る。
「僕から話しても構わない?」
尋ねられた。
それから。
「どうぞ」
と答える。
レオナルドは侯爵夫人へ向き直った。
「婚約解消を申し出たのは僕です」
「あなたが?」
「はい」
「でも、セシリア嬢が」
「違います」
彼ははっきり言った。
「僕に他に想う女性ができたため、僕からセシリアへ婚約解消を申し出ました」
周囲で、何人かがこちらを見た。
レオナルドも気づいているはずだ。
それでも止めなかった。
「それだけではありません」
彼の声が少し掠れる。
「僕はそのとき、セシリアから僕を振ったことにしてほしいと頼みました」
「まあ……」
侯爵夫人が目を見開いた。
「自分と相手の女性の評判を守るためです」
私は彼を見た。
レオナルドは、私を見なかった。
「セシリアは断りました。当然です」
声は震えていた。
「今、彼女から婚約を解消したという話が広まっているのなら、それは事実ではありません」
「でも、なぜそんな噂が」
「僕が」
彼は一度言葉を切った。
「自分に都合のいい説明をしたからです」
あたりが静かだった。
ここまで言う必要はないと思ったが、止めなかった。
これは彼が自分で選んで言っている言葉だから。
「ですから」
レオナルドは頭を下げた。
「セシリアに非があったという話は、信じないでいただきたい」
侯爵夫人は驚いた顔のまま、やがて頷いた。
「……分かりました」
彼女は私にも軽く頭を下げた。
「セシリア嬢。変な噂を信じてしまってごめんなさい」
「いいえ」
「今度、お茶にいらしてね」
「喜んで」
夫人が離れていく。
レオナルドと私は、少しだけ二人になった。
「ありがとう」
私が言った。
彼は目を見開いた。
「……礼を言われることじゃない」
「そうかもしれません」
「僕が最初からそう言えばよかっただけだから」
「はい」
痛くない笑顔だった。
「セシリア」
「何でしょう」
「君に頼まれたから言ったんじゃない」
「分かっています」
「僕が言うべきだと思ったから言った」
「はい」
「それなら、よかったです」
「君は変わったな。前より、ずっと言いたいことを言う」
「昔から、そうできればよかったとは思います」
「でも、昔そうできなかった私も私ですから」
「全部、あなたのせいだったとは思っていません」
「セシリア」
「私も、自分が我慢すればうまくいくと思っていました」
それは、最近ようやく認められるようになったことだった。
「だから、これから変えます」
レオナルドは静かに頷いた。
「僕も」
「はい」
そこで本当に私たちの話は終わった。
彼は彼の場所へ、私は私の場所へ。もう同じ道へ戻る理由はない。
◇
「ずいぶん長く話していましたね」
手には二人分の飲み物。
「見ていたんですか?」
「たまたまです」
「二度目ですね、その言い訳」
「では、見ていました」
正直になった。
「怒っています?」
「誰に?」
「レオナルド様に」
ユリウスは考える。
「以前は少し」
「以前は?」
「あなたの代わりに勝手に腹を立てていました」
「まあ」
「でも、それも失礼だと気づきました」
「どうして?」
「あなたが許すかどうかも、私が決めることではないので」
私は飲み物を受け取った。
「本当に、あなたは私を助けてくれませんね」
ユリウスの眉が下がった。
「褒めてます?」
「とても」
「分かりにくいですね」
笑う。
そして、音楽が変わった。
舞踏の時間らしい。
何組もの男女が中央へ移動していく。
ユリウスがそちらを見る。
それから、私を見る。
「セシリア」
「はい」
「踊りませんか?」
心臓が跳ねた。けれど、彼はすぐ手を差し出さなかった。
「嫌なら断ってください」
「それは」
「義理でも、噂避けでも、私に気を遣ってでもなく」
少しだけ笑う。
「あなたが踊りたいなら」
私は彼を見る。
王都へ来てから、いろいろなことを自分で決めた。
街道会議へ出ること。
レオナルドと会うこと。
噂に自分で答えること。
そして、今。
私はどうしたい?
答えは簡単だった。
「踊りたいです」
私から手を差し出した。
ユリウスが目を見開く。
それから笑った。
「では、喜んで」
彼の手が、私の手を取る。
広間へ出る。
踊り始めてすぐ。
「少し速くありません?」
私が言った。
「セシリアのほうですよ」
「私は合わせています」
「私も合わせているつもりです」
「では、どちらかが間違っていますね」
「確認します?」
「踊りながら?」
「そのほうが面白いでしょう」
思わず笑ってしまった。
「普通、こういう場面ではもっと甘いことを言うのでは?」
「では、思いついたら教えてください」
「あなたが考えてください」
そんな話をしながら、私たちは踊った。
どちらか一方が、ずっと相手へ合わせるのではない。
私が進めば彼が受け、彼が向きを変えれば私も合わせる。
少しずれれば、そのたび二人で直す。
それでいい。
「セシリア」
「はい」
「一つだけ」
「何でしょう」
「今日は、とても綺麗です」
不意打ちだった。
足を間違えそうになる。
「……急ですね」
「甘いことを言えと言われたので」
「今のは命令されたから?」
「違います」
ユリウスは笑った。
「言いたかったから言いました」
ずるい。
そう思った。
「では」
私は彼を見る。
「ありがとうございます」
「それだけ?」
「私の番ですか?」
「対等なんでしょう?」
また笑ってしまう。
でも、少し考えて。
「ユリウスも、今日は素敵ですよ」
今度は彼の足がわずかに遅れた。
「……今、間違えましたね?」
「気のせいです」
「私は見ました」
「踊りに集中してください」
「はい」
私たちは、また歩調を合わせた。
私たち二人が、この時間を楽しむために。




