第7話 戻りません
レオナルドから届いた手紙に返事を書いたのは、翌日の朝だった。
夜のうちには書かなかった。
以前の私なら、相手を待たせないためにすぐ便箋を出していただろう。
どう返せば傷つけず、期待を持たせずに済むか。以前ならそんなことばかり考え、自分の気持ちは最後に回したはずだ。
だから今回は、一晩眠った。
朝食を食べた。
庭を歩いた。
それから机に向かって、自分に尋ねた。
私は、レオナルドと話したいのか。
答えは。
「……話しておきたい、かしら」
会いたい、ではなかった。
戻りたい、でもない。
ただ。
五年間好きだった人が、ようやく自分の言葉で何かを伝えようとしている。
一度は聞いておこうと思った。
私は短い返事を書いた。
『お話は伺います』
『来週、王都へ参りますので、その際に』
それだけ。
場所は我が家の王都屋敷。昼間に、侍女を隣室へ置いて会うことにした。
そう決めた。
自分で決めると、思っていたより簡単だった。
◇
王都へ戻る日。
ユリウスも同じ馬車列で途中まで同行することになった。
街道工事の報告をクレイン伯爵へ届けるため、彼も王都へ向かうという。
休憩のため立ち寄った宿場町で、私たちは小さな食堂の窓際に座った。
「少し緊張していますね」
ユリウスが言った。
「そんなに分かります?」
「さっきから紅茶に砂糖を三回入れています」
私は手元を見た。
確かに。
「あら」
「甘いものがお好きなのかと思いました」
「一つで十分です」
「では、かなり緊張していますね」
笑われた。
私は匙を置いた。
「レオナルド様と会うことになりました」
ユリウスの表情が、ほんの少し変わった。
「そうですか」
「謝りたいそうです」
「それで、会うことに?」
「はい」
「あなたが会いたいと思ったから?」
「……ええ」
「戻るつもりはありません。でも、一度だけ話を聞いておきたいと思いました」
「なら、いいと思います」
「止めないのですね」
「止めてほしい?」
「いいえ」
「なら止めません」
ユリウスはカップを置いた。
「ただ、一つだけ」
「何でしょう」
「会ったあと、あなたが自分を責めるようなことだけはしないでください」
「私が?」
「謝られたら許さなければならない、とか。反省しているならもう一度機会を与えるべきだ、とか」
「謝罪を受け取ることと、関係を元に戻すことは別です」
その言葉が、胸のどこかへ静かに収まった。
「……そうですね」
「ええ」
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことでは」
「それでも」
私は笑った。
「今の言葉は、覚えておきます」
「それなら、言った甲斐がありました」
◇
レオナルドは、約束の時間より十五分早く来た。
以前なら、珍しいと思っただろう。
応接室へ入ると、立ち上がったレオナルドが一瞬息を止めた。
「セシリア」
「お久しぶりです、レオナルド様」
そう長い時間が経ったわけではない。
それなのに、ずいぶん久しぶりに感じた。
劇的な変化ではない。
ただ、以前より自分の言葉を探すことに疲れている顔だった。
「座ってもいい?」
「もちろんです」
二人で向かい合う。
侍女がお茶を置いて出ていった。
扉は完全には閉めない。
レオナルドはそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。
「手紙を読んでくれて、ありがとう」
「はい」
「来てくれたことも」
「今日は、あなたのお話を聞くために来ました」
私はそう言って、待った。
以前のように、彼が言葉を見つけるのを助けるためではない。
彼自身が話すための沈黙だった。
「……最初に」
レオナルドが口を開いた。
「謝りたい」
「はい」
「婚約を解消したことではなくて」
「君に、僕を振ったことにしてほしいと頼んだことを」
彼の指が動く。
いつもの癖。
けれど今日は、途中で自分から手を離した。
「僕はあのとき、本気で……それくらいなら君は引き受けてくれると思っていた」
「そうでしょうね」
「君なら耐えられると思った」
レオナルドが苦く笑う。
「それがどれだけ酷い考えだったのか、今は分かる」
私は何も言わなかった。
「エミリアにも言われた」
「……そうですか」
「彼女とは、終わったよ」
驚きはしたが、嬉しいとも悲しいとも思わなかった。
「彼女は、僕と結婚できないと言った」
「理由を聞いても?」
「君にしたことを、自分にもいつかするかもしれないと思うからだそうだ」
なるほど。
エミリアらしいと思った。
「僕は、そんなことはしないと言った」
レオナルドは自嘲するように笑った。
「でも、それを言った瞬間に分かった」
「何が?」
「君にも、ずっとそう思っていた」
私は彼を見る。
「セシリアなら違う」
彼は一つずつ、言葉を置いた。
「セシリアなら分かる。セシリアなら許す。セシリアなら大丈夫」
そして、一度息を吐いた。
「相手を大切にしているつもりで。実際には、君にだけ負担をかけても壊れないと思っていた」
婚約していた頃に聞きたかった言葉だったのかもしれない。
「ベルトラン伯爵の件も。南部商会の件も。僕は初めて、自分がどう見られていたのか分かった」
「はい」
「皆、急に僕を嫌いになったわけじゃなかった」
レオナルドは目を伏せる。
「君がずっと、僕が嫌われないようにしてくれていたんだな」
「嫌われないように、というつもりではありませんでした」
「分かってる」
「困っているなら助けたかっただけです」
「それを、僕が当然にした」
私は答えなかった。
「感謝していたつもりだった」
「ええ」
「でも、ありがとうと言えば、次も頼んでいいと思っていた」
「そうだったのかもしれませんね」
「ごめん」
「……はい」
「本当に、ごめん」
しばらく、誰も喋らなかった。
窓の外から、馬車の車輪の音が聞こえる。
王都の日常。
婚約が終わっても。
誰かの恋が終わっても。
街は普通に動いている。
「謝罪は受け取ります」
レオナルドが顔を上げた。
「ありがとう」
「でも」
彼の表情が強張った。
「それで、何かが元に戻るわけではありません」
「……分かってる」
「君に許してもらえれば、それで全部終わるとは思っていない」
「はい」
「ただ」
レオナルドは唇を噛んだ。
「一つだけ聞いてもいいか」
「どうぞ」
「もう一度やり直す可能性は、本当にない?」
やっぱり。
心のどこかで、彼はそれを聞きに来たのだ。
私は、自分の胸へ問いかけた。
五年間、笑ったことも、彼の不器用さを可愛いと思ったことも、結婚を楽しみにしたことも全部本当だった。
だからこそ、少し前までなら。
彼が本気で反省したなら、もう一度くらい。
そう考えていたかもしれない。
「ありません」
驚くほど静かに答えられた。
レオナルドの顔から色が消えた。
「……即答なんだな」
「はい」
「エミリアとは、もう何もない」
「それは関係ありません」
「でも、僕が彼女を選んだから」
「違います」
私は首を横に振った。
「あなたがエミリア嬢を好きになったから、戻らないのではありません」
「じゃあ」
「私は、あの日」
思い出す。
婚礼の準備帳。
彼の困った顔。
『君が僕を振ったことにしてくれ』
「あなたが私をどう見ていたのか、知ってしまったからです」
レオナルドが黙る。
「愛していた婚約者ではなく、自分が傷つけても耐えられる人。困ったときには助けてくれる人。自分の失敗を丸く収めてくれる人」
「セシリア」
「もちろん、それだけではなかったと思います」
責めたいのではない。事実だけを言う。
「あなたが私を大切に思っていたことも、嘘ではなかったと思います」
「だったら」
「でも、足りなかった」
レオナルドの言葉が止まる。
「私はもう、あなたの隣で、また『分かってくれる人』になるのが怖いのです」
彼が俯いた。
「変わる」
「そうかもしれません」
「今度はちゃんと」
「変わってください」
私は遮った。
彼が驚いて顔を上げる。
「私のためではなく」
ゆっくりと。
「これからあなたが関わる人たちのために。そして、あなた自身のために」
「……君のためじゃなく?」
「はい」
「私とやり直すために変わるのなら、私が戻らないと分かった瞬間、変わる理由がなくなるでしょう?」
レオナルドは答えられなかった。
「だから」
「私を理由にしないでください」
長い沈黙のあと。
レオナルドが小さく言った。
「……分かった」
◇
帰り際。
レオナルドは扉の前で立ち止まった。
「セシリア」
「はい」
「最後に一つ」
「何でしょう」
「僕は、君を愛していたと思う」
過去形だった。
胸が少し痛んだ。
「私も」
だから、私も過去形で答えた。
「あなたを愛していました」
レオナルドが目を閉じる。
それから。
「……そうか」
と笑った。
悲しそうな笑顔だった。
「さようなら、セシリア」
「さようなら、レオナルド様」
扉が閉まる。
私は一人になった。
泣くと思った。
でも、涙は出なかった。
代わりに、長い間胸の奥に引っかかっていた何かが、ようやく外れたような気がした。
◇
その日の夕方。
私は王都の商業組合会館にいた。
街道整備について、冬の輸送業者と打ち合わせをするためだ。
父は別の会合。
今日は私がアルフェルト家側の代表として出ている。
少し前なら考えられなかった。
会合を終えて建物を出ると、門の近くにユリウスがいた。
「終わりました?」
「ええ」
「どうでした?」
「一つ、反対されました」
「それは大変だ」
「でも理由を聞いたら、向こうの言うことにも筋がありました」
「では?」
「明日、条件を組み直します」
「楽しそうですね」
私は笑った。
「楽しいです」
自分で言って、少し驚いた。
本当に。
楽しい。
自分で考え、意見を言い、間違えたら直し、相手と答えを探す。
「レオナルド様とは?」
ユリウスが尋ねた。
「話しました」
「そうですか」
「謝ってくれました」
「それで?」
「謝罪は受け取りました」
一度、言葉を区切る。
「復縁は断りました」
ユリウスは何も言わなかった。
ほんのわずかに肩から力が抜けたように見えて、少し可笑しかった。
「安心しました?」
「……何にです?」
「いえ」
誤魔化された。
こんなユリウスを見るのは初めてだった。
「ところで、セシリア」
「はい」
「夕食は?」
「まだです」
「私もです」
そこまで言って、ユリウスは一度言葉を止めた。
「よければ、一緒に食べませんか」
私は瞬きをした。
「街道の話ですか?」
「今日はしません。食事をするのに、理由が必要ですか?」
私は思わず笑った。
「いいえ」
「では?」
誰かに必要とされたからではなく。
家のためでもなく。
役目でもなく。
私自身が。
「行きたいです」
そう答えた。
ユリウスが笑う。
「では、行きましょう」
差し出された手ではなく。
彼の隣へ、自分から歩いていく。
その距離が、今の私には心地よかった。




