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君が僕を振ったことにしてくれ  作者: 九葉(くずは)


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7/10

第7話 戻りません

 レオナルドから届いた手紙に返事を書いたのは、翌日の朝だった。


 夜のうちには書かなかった。


 以前の私なら、相手を待たせないためにすぐ便箋を出していただろう。


 どう返せば傷つけず、期待を持たせずに済むか。以前ならそんなことばかり考え、自分の気持ちは最後に回したはずだ。


 だから今回は、一晩眠った。

 朝食を食べた。

 庭を歩いた。


 それから机に向かって、自分に尋ねた。


 私は、レオナルドと話したいのか。


 答えは。


「……話しておきたい、かしら」


 会いたい、ではなかった。

 戻りたい、でもない。


 ただ。


 五年間好きだった人が、ようやく自分の言葉で何かを伝えようとしている。

 一度は聞いておこうと思った。


 私は短い返事を書いた。


『お話は伺います』


『来週、王都へ参りますので、その際に』


 それだけ。


 場所は我が家の王都屋敷。昼間に、侍女を隣室へ置いて会うことにした。


 そう決めた。


 自分で決めると、思っていたより簡単だった。


     ◇


 王都へ戻る日。


 ユリウスも同じ馬車列で途中まで同行することになった。


 街道工事の報告をクレイン伯爵へ届けるため、彼も王都へ向かうという。


 休憩のため立ち寄った宿場町で、私たちは小さな食堂の窓際に座った。


「少し緊張していますね」


 ユリウスが言った。


「そんなに分かります?」


「さっきから紅茶に砂糖を三回入れています」


 私は手元を見た。

 確かに。


「あら」


「甘いものがお好きなのかと思いました」


「一つで十分です」


「では、かなり緊張していますね」


 笑われた。

 私は匙を置いた。


「レオナルド様と会うことになりました」


 ユリウスの表情が、ほんの少し変わった。


「そうですか」


「謝りたいそうです」


「それで、会うことに?」


「はい」


「あなたが会いたいと思ったから?」


「……ええ」



「戻るつもりはありません。でも、一度だけ話を聞いておきたいと思いました」


「なら、いいと思います」




「止めないのですね」


「止めてほしい?」


「いいえ」


「なら止めません」


 ユリウスはカップを置いた。


「ただ、一つだけ」


「何でしょう」


「会ったあと、あなたが自分を責めるようなことだけはしないでください」


「私が?」


「謝られたら許さなければならない、とか。反省しているならもう一度機会を与えるべきだ、とか」



「謝罪を受け取ることと、関係を元に戻すことは別です」


 その言葉が、胸のどこかへ静かに収まった。


「……そうですね」


「ええ」


「ありがとうございます」


「礼を言われるほどのことでは」


「それでも」


 私は笑った。


「今の言葉は、覚えておきます」



「それなら、言った甲斐がありました」


     ◇


 レオナルドは、約束の時間より十五分早く来た。


 以前なら、珍しいと思っただろう。


 応接室へ入ると、立ち上がったレオナルドが一瞬息を止めた。


「セシリア」


「お久しぶりです、レオナルド様」


 そう長い時間が経ったわけではない。

 それなのに、ずいぶん久しぶりに感じた。



 劇的な変化ではない。

 ただ、以前より自分の言葉を探すことに疲れている顔だった。


「座ってもいい?」


「もちろんです」


 二人で向かい合う。

 侍女がお茶を置いて出ていった。


 扉は完全には閉めない。

 レオナルドはそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。


「手紙を読んでくれて、ありがとう」


「はい」


「来てくれたことも」


「今日は、あなたのお話を聞くために来ました」


 私はそう言って、待った。


 以前のように、彼が言葉を見つけるのを助けるためではない。

 彼自身が話すための沈黙だった。


「……最初に」


 レオナルドが口を開いた。


「謝りたい」


「はい」


「婚約を解消したことではなくて」



「君に、僕を振ったことにしてほしいと頼んだことを」


 彼の指が動く。

 いつもの癖。


 けれど今日は、途中で自分から手を離した。


「僕はあのとき、本気で……それくらいなら君は引き受けてくれると思っていた」


「そうでしょうね」


「君なら耐えられると思った」


 レオナルドが苦く笑う。


「それがどれだけ酷い考えだったのか、今は分かる」


 私は何も言わなかった。


「エミリアにも言われた」


「……そうですか」


「彼女とは、終わったよ」


 驚きはしたが、嬉しいとも悲しいとも思わなかった。


「彼女は、僕と結婚できないと言った」


「理由を聞いても?」


「君にしたことを、自分にもいつかするかもしれないと思うからだそうだ」


 なるほど。

 エミリアらしいと思った。


「僕は、そんなことはしないと言った」


 レオナルドは自嘲するように笑った。


「でも、それを言った瞬間に分かった」


「何が?」


「君にも、ずっとそう思っていた」


 私は彼を見る。


「セシリアなら違う」


 彼は一つずつ、言葉を置いた。


「セシリアなら分かる。セシリアなら許す。セシリアなら大丈夫」


 そして、一度息を吐いた。


「相手を大切にしているつもりで。実際には、君にだけ負担をかけても壊れないと思っていた」



 婚約していた頃に聞きたかった言葉だったのかもしれない。


「ベルトラン伯爵の件も。南部商会の件も。僕は初めて、自分がどう見られていたのか分かった」


「はい」


「皆、急に僕を嫌いになったわけじゃなかった」


 レオナルドは目を伏せる。


「君がずっと、僕が嫌われないようにしてくれていたんだな」


「嫌われないように、というつもりではありませんでした」


「分かってる」


「困っているなら助けたかっただけです」


「それを、僕が当然にした」


 私は答えなかった。


「感謝していたつもりだった」


「ええ」


「でも、ありがとうと言えば、次も頼んでいいと思っていた」




「そうだったのかもしれませんね」


「ごめん」


「……はい」


「本当に、ごめん」


 しばらく、誰も喋らなかった。


 窓の外から、馬車の車輪の音が聞こえる。

 王都の日常。


 婚約が終わっても。

 誰かの恋が終わっても。

 街は普通に動いている。


「謝罪は受け取ります」

 レオナルドが顔を上げた。

「ありがとう」

「でも」

 彼の表情が強張った。


「それで、何かが元に戻るわけではありません」


「……分かってる」




「君に許してもらえれば、それで全部終わるとは思っていない」


「はい」


「ただ」


 レオナルドは唇を噛んだ。


「一つだけ聞いてもいいか」


「どうぞ」


「もう一度やり直す可能性は、本当にない?」


 やっぱり。

 心のどこかで、彼はそれを聞きに来たのだ。


 私は、自分の胸へ問いかけた。


 五年間、笑ったことも、彼の不器用さを可愛いと思ったことも、結婚を楽しみにしたことも全部本当だった。


 だからこそ、少し前までなら。

 彼が本気で反省したなら、もう一度くらい。


 そう考えていたかもしれない。


「ありません」


 驚くほど静かに答えられた。


 レオナルドの顔から色が消えた。


「……即答なんだな」


「はい」


「エミリアとは、もう何もない」


「それは関係ありません」


「でも、僕が彼女を選んだから」


「違います」


 私は首を横に振った。


「あなたがエミリア嬢を好きになったから、戻らないのではありません」


「じゃあ」


「私は、あの日」


 思い出す。

 婚礼の準備帳。

 彼の困った顔。


『君が僕を振ったことにしてくれ』


「あなたが私をどう見ていたのか、知ってしまったからです」


 レオナルドが黙る。


「愛していた婚約者ではなく、自分が傷つけても耐えられる人。困ったときには助けてくれる人。自分の失敗を丸く収めてくれる人」


「セシリア」


「もちろん、それだけではなかったと思います」


 責めたいのではない。事実だけを言う。


「あなたが私を大切に思っていたことも、嘘ではなかったと思います」


「だったら」


「でも、足りなかった」


 レオナルドの言葉が止まる。


「私はもう、あなたの隣で、また『分かってくれる人』になるのが怖いのです」


 彼が俯いた。


「変わる」


「そうかもしれません」


「今度はちゃんと」


「変わってください」


 私は遮った。

 彼が驚いて顔を上げる。


「私のためではなく」


 ゆっくりと。


「これからあなたが関わる人たちのために。そして、あなた自身のために」


「……君のためじゃなく?」


「はい」



「私とやり直すために変わるのなら、私が戻らないと分かった瞬間、変わる理由がなくなるでしょう?」


 レオナルドは答えられなかった。


「だから」



「私を理由にしないでください」


 長い沈黙のあと。


 レオナルドが小さく言った。


「……分かった」



     ◇


 帰り際。


 レオナルドは扉の前で立ち止まった。


「セシリア」


「はい」


「最後に一つ」


「何でしょう」


「僕は、君を愛していたと思う」


 過去形だった。

 胸が少し痛んだ。


「私も」


 だから、私も過去形で答えた。


「あなたを愛していました」


 レオナルドが目を閉じる。


 それから。


「……そうか」


 と笑った。


 悲しそうな笑顔だった。


「さようなら、セシリア」


「さようなら、レオナルド様」


 扉が閉まる。

 私は一人になった。


 泣くと思った。

 でも、涙は出なかった。


 代わりに、長い間胸の奥に引っかかっていた何かが、ようやく外れたような気がした。


     ◇


 その日の夕方。


 私は王都の商業組合会館にいた。

 街道整備について、冬の輸送業者と打ち合わせをするためだ。


 父は別の会合。

 今日は私がアルフェルト家側の代表として出ている。


 少し前なら考えられなかった。


 会合を終えて建物を出ると、門の近くにユリウスがいた。


「終わりました?」


「ええ」


「どうでした?」


「一つ、反対されました」


「それは大変だ」


「でも理由を聞いたら、向こうの言うことにも筋がありました」


「では?」


「明日、条件を組み直します」


「楽しそうですね」


 私は笑った。


「楽しいです」


 自分で言って、少し驚いた。


 本当に。

 楽しい。


 自分で考え、意見を言い、間違えたら直し、相手と答えを探す。


「レオナルド様とは?」


 ユリウスが尋ねた。


「話しました」


「そうですか」


「謝ってくれました」


「それで?」


「謝罪は受け取りました」


 一度、言葉を区切る。


「復縁は断りました」


 ユリウスは何も言わなかった。


 ほんのわずかに肩から力が抜けたように見えて、少し可笑しかった。


「安心しました?」


「……何にです?」


「いえ」


 誤魔化された。

 こんなユリウスを見るのは初めてだった。


「ところで、セシリア」


「はい」


「夕食は?」


「まだです」


「私もです」


 そこまで言って、ユリウスは一度言葉を止めた。


「よければ、一緒に食べませんか」


 私は瞬きをした。


「街道の話ですか?」

「今日はしません。食事をするのに、理由が必要ですか?」


 私は思わず笑った。


「いいえ」


「では?」



 誰かに必要とされたからではなく。

 家のためでもなく。

 役目でもなく。


 私自身が。


「行きたいです」


 そう答えた。


 ユリウスが笑う。


「では、行きましょう」


 差し出された手ではなく。

 彼の隣へ、自分から歩いていく。


 その距離が、今の私には心地よかった。

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