第6話 君なら分かってくれると思っていた
エミリアから二通目の手紙が届いたのは、街道工事が始まって三日目のことだった。
前回とは違い、封筒は薄かった。
開いてみる。
『ご返事をありがとうございました』
最初の一文に続いていたのは、簡潔な謝罪だった。
『私が事情を正しく知らないまま、セシリア様が私のために身を引いてくださったものと思い込んでいたことを、お詫び申し上げます』
そこまでは、予想していた。
けれど、その次で私は手を止めた。
『レオナルド様とは、しばらく距離を置くことにいたしました』
「……まあ」
思わず声が出た。
私は続きを読む。
『私が知りたかったのは、誰が悪いかではありません。これから人生を共にする方が、自分の選択をどのように引き受ける方なのかということでした』
『今回のことについて話し合いましたが、レオナルド様は何度も、セシリア様なら理解してくださると思った、と仰いました』
胸の奥が、小さく痛んだ。
その言葉を、私は知っている。
君なら分かってくれる。
君なら大丈夫。
君なら許してくれる。
たぶん彼にとって、それは信頼を示す言葉だった。
けれど今になって思えば、あれは何度も、私だけに我慢を求めるための言葉になっていた。
『私には、それがどうしても理解できませんでした』
エミリアの手紙は、そこで終わりに近づいていた。
『セシリア様が今後、穏やかに過ごされることを願っております。お返事は不要です』
私は便箋を畳んだ。
胸が晴れたかと聞かれれば、そうでもなかった。
エミリアがレオナルドから離れたことを喜ぶ気持ちはなかった。
ざまあみろ、とも思わない。
ただ。
「そうなのね」
と思った。
そして少しだけ、安心した。
少なくとも彼女は、私の代わりに彼を受け止める役目を引き継いだわけではないらしい。
◇
その日の午後。
私は街道工事の現場へ出ていた。
古い水路に溜まった土砂を取り除く作業が始まっている。
「ここまで掘れば、流れは戻りそうですな」
現場監督が言う。
「ただし上流側の石積みが少し崩れています」
ユリウスがしゃがみ込み、状態を確認する。
「補修に何日?」
「二日あれば」
「費用は?」
「当初の見積もりの範囲です」
「なら進めましょう」
私は少し離れたところから、村の畑を見ていた。
水路から運び出された泥を、農民たちが荷車へ載せている。
「セシリア」
呼ばれて振り向く。
「どうしました?」
「いえ。あの泥、捨てるのですか?」
現場監督が頷く。
「その予定ですが」
「畑へ使えませんか?」
「泥を?」
「水路には長年、落ち葉や土が溜まっています。畑へ戻せば肥料になるかもしれないと思って」
監督が泥を見る。
「なるほど。ただ、砂が多ければ意味はありませんな」
「調べられます?」
「ええ。村の者に聞いてみましょう」
ユリウスがこちらを見る。
「また仕事を増やしましたね」
「迷惑でした?」
「いいえ。面白いと思って」
「ならよかったです」
私たちは並んで水路沿いを歩いた。
以前なら、何かを提案するたび。
本当にこれでいいのか。
余計なことではないか。
誰かの負担にならないか。
そんなことばかり考えていた。
今も考えないわけではない。
ただ。
間違っていたら直せばいい。
必要がなければやめればいい。
そう思えるようになっただけで、随分楽だった。
「ところで」
ユリウスが言う。
「今日は少し考え事をしていましたね」
「分かりました?」
「三度ほど、私の質問を聞き逃しました」
「それは失礼しました」
「何かありましたか?」
私は少し迷った。
「エミリア嬢から手紙が来ました」
ユリウスの表情は変わらなかった。
「そうでしたか」
「レオナルド様とは、少し距離を置くそうです」
「それを聞いて、どう思いました?」
また。
彼はそう聞く。
どうしたい。
どう思う。
私自身の答えを。
「……安心しました」
正直に言った。
「彼女が、私の代わりにならなくてよかったと思いました」
「代わり?」
「レオナルド様を理解して、庇って、言葉を整えて、最後には自分が譲る人です」
口にして、少し苦く笑った。
「嫌な言い方ですね」
「でも本当なのでしょう?」
「たぶん」
ユリウスは少し考えてから言った。
「では、エミリア嬢は賢い方ですね」
「そう思います」
「そして」
彼は私を見る。
「あなたも、もう戻らない」
確認するような言い方だった。
私は迷わなかった。
「はい」
「なら、それで十分です」
その言葉に、自分でも驚くほどほっとした。
◇
二日後。
父の執務室に呼ばれると、机の上に王都から届いた手紙が置かれていた。
「ヴァルナー侯爵からだ」
「侯爵閣下から?」
「婚約解消の精算についての最後の確認だ。その追伸に、お前のことがある。見せても構わないと書いてある」
父から渡された手紙を開く。
内容は、謝罪でも復縁の頼みでもなかった。
南部の商会との契約更新で、レオナルドが揉めたという報告だった。
長年の取引先へ条件変更を求める際、彼は『これまでの付き合いがあるのだから、この程度は譲歩してもらえるはずだ』という趣旨の手紙を送ったらしい。
先方はそれを、長年の協力を当然視されたと受け取った。
私はそこまで読んで、目を閉じた。
文章が目に浮かぶ。
悪意はない。
むしろレオナルドは、長い付き合いだからこそ頼める、と考えたのだろう。
でも。
相手に届くのは、彼の意図ではない。
書かれた言葉だ。
『三年前にも似たことがあり、その際の手紙を確認したところ、最終的に先方へ送られた文面の大半はセシリア嬢が整えたものだったと分かった』
侯爵の文字が続く。
『息子は初めて、自分が相手へ届く言葉をどれほど彼女に頼っていたのか知ったようだ』
そこで手紙は、父への詫びとともに結ばれていた。
私は便箋を閉じた。
「何を思う?」
父が尋ねる。
「悲しいです」
自分でも意外な答えだった。
「嬉しくはないのか」
「いいえ」
「ざまあみろ、とも?」
「少しも?」
私は考えて、苦笑した。
「少しくらいは、あるかもしれません」
「正直でよろしい」
「でも、それ以上に」
手紙を見る。
「レオナルド様は、変わったのではなく、今まで私が隠していただけなのだと思います」
父は黙って聞いている。
「そして私も、彼のためと思って、彼が自分で気づく機会を奪っていたのかもしれません」
「自分を責めるな」
「責めてはいません」
以前なら、きっと責めただろう。
もっと早く言えばよかった。
私が甘やかしたからだ。
そんなふうに。
でも今は。
「ただ、もう同じことはしないと思っているだけです」
父は頷いた。
「それでいい」
◇
その夜。
夕食後、私は街道工事の報告書をまとめていた。
「ここ、数字が違うぞ」
父が指をさす。
「え?」
確認する。
本当だ。
「……私の間違いです」
「珍しいな」
「訂正します」
以前なら、こんな簡単な間違いでも恥ずかしくて仕方がなかった。
完璧にしなければ。
誰にも迷惑をかけてはいけない。
そう思っていた。
今は、線を引いて数字を書き直す。
それで済む。
「お父様」
「何だ」
「私、王都へ戻らなくてもいいでしょうか」
父が顔を上げた。
「もちろんだが」
「しばらくはこちらにいたいです」
「社交界は?」
「冬になる前に一度くらいは出ます。でも」
窓の外を見る。
領地の夜は暗い。
王都ほど灯りはない。
けれど今は、この暗さが落ち着いた。
「ここでやりたいことがあります」
「街道か?」
「それも」
「他には?」
私は少し笑った。
「まだ考えているところです」
父が頷く。
「なら、考えればいい」
「はい」
誰かの妻になるための予定ではなく。
誰かの不足を補うためでもなく。
自分が何をしたいのか。
まだ、はっきりとは分からない。
でも、分からないまま考える時間を持てることが、今は少し嬉しかった。
◇
三日後。
王都から一通の手紙が届いた。
差出人を見た瞬間、私はしばらく動けなかった。
レオナルド・ヴァルナー。
婚約を解消してから、彼本人から手紙が来るのは初めてだった。
封を切る。
便箋には、たった三行だけ。
『一度、あなたと話がしたい』
『今度は、何を言えばいいかをあなたに考えてほしいのではない』
『僕自身の言葉で謝りたい』
私は読み終えて、静かに手紙を畳んだ。
そして、返事を書くための便箋をすぐには取り出さなかった。




