第5話 私は身を引いた覚えはありません
街道整備の方針が決まったのは、その日の夕方だった。
古い水路を修復し、街道脇の排水をそこへ流す。
費用はアルフェルト家とクレイン家で分担するが、水路が通る村にも維持を頼むため、その分は通行税の一部から補助を出す。
全面石畳より費用を抑え、村の畑にも利点がある案だ。
「では、これで進めましょう」
父が書類へ署名する。
向かいではユリウスも頷いた。
「異論ありません」
老官吏が地図を畳み始める。
私はその様子を眺めながら、妙な感覚を覚えていた。
自分が出した意見が、形になった。
もちろん、私一人で決めたわけではない。現地を見て、専門家と両家と村側で検討した結果だ。
けれど、その始まりに私の一言があった。
「嬉しそうですね」
ユリウスに言われた。
「顔に出ています?」
「少し」
恥ずかしくなって口元へ手を当てる。
「自分の案が採用されるのは、やっぱり嬉しいものですね」
「採用されたから嬉しい?」
「え?」
「昨日、あなたは意見を言うだけでも随分緊張していたでしょう」
言われて思い出す。
確かにそうだった。
「では……」
少し考えた。
「聞いてもらえたことが、嬉しかったのかもしれません」
「それなら、これから何度でも聞きますよ」
「毎回採用してくださいとは言いませんよ」
「もちろん」
即答された。
私は笑った。
「そこは少しくらい迷ってください」
「嫌です。採用できない案は採用しません」
「容赦がありませんね」
「セシリアも、そのほうが楽でしょう?」
そう言われて、返事をするまで少し時間がかかった。
「……ええ」
たぶん。
本当に、そのほうが楽なのだ。
気を遣って賛成されるより。
私が何を言っても喜んで受け入れられるより。
違うなら違うと言ってもらえるほうが。
少なくとも、自分の言葉が相手の機嫌を取るためのものではなくなる。
「では次は、遠慮なく反対します」
「楽しみにしています」
「変な人ですね」
そんな会話をしていたときだった。
侍女が一通の手紙を持って入ってきた。
「お嬢様。王都からでございます」
差出人を見て、私は動きを止めた。
エミリア・ローゼ。
レオナルドが愛しているという女性だった。
◇
部屋へ戻ってから、しばらく手紙を開けられなかった。
怖かったわけではない。
ただ、彼女が何を書いてきたのか、想像がつかなかった。
責められる理由はない。それでも、同じ男を愛した女性からの手紙だと思うと、簡単には開けられなかった。
やがて覚悟を決め、封を切った。
文字は、丁寧だった。
『突然のお手紙を差し上げる無礼をお許しください』
そんな書き出しから始まっていた。
続いていたのは、謝罪だった。
『レオナルド様とのご婚約が解消されたと伺いました』
『私の存在が原因となったことを、深くお詫び申し上げます』
私は一度、読むのを止めた。
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『ただ、私は一つだけ、どうしてもセシリア様に確認したいことがございます』
その次の一文で、私は指を止めた。
『レオナルド様からは、セシリア様ご自身が結婚への迷いを感じ、婚約解消を受け入れてくださったと伺いました』
もう一度読んだ。
文面は変わらない。
私自身が結婚に迷い、婚約解消を受け入れた。
最後の部分だけなら嘘ではない。
私は婚約解消を受け入れた。
けれど、随分と順序が違う。
『もし本当に私のために身を引いてくださったのでしたら、私はそのご厚意を当然のものとして受け取ることができません』
身を引く。
私は椅子へ深く座り直した。
しばらく、何も考えたくなかった。
怒りより先に、疲れた。
あれだけ言ったのに。
私は嘘をつかないと。
私から婚約を解消したことにはしないと。
なのにレオナルドは、私が拒んだ形そのものではなくても、自分に都合のいい言葉へ少しずつ整えている。
「……私が身を引いた?」
声に出してみる。
違う。
私は彼を誰かに譲ったのではない。
私を悪者にしてまで別の女性を守ろうとした男を、もう婚約者として選ばなかっただけだ。
◇
返事を書くまで、一時間ほどかかった。
最初は長くなった。
誤解されない説明、レオナルドに悪意がなかったこと、エミリア嬢を責めていないこと。
考えるほど文章は増えた。
そして、途中で手が止まった。
まただ。
私はまた、レオナルドが悪く見えすぎないように文章を整えようとしている。
私は新しい便箋を出した。
今度は、事実だけを書いた。
『ローゼ子爵令嬢エミリア様』
『お手紙を拝受いたしました』
『まず、私があなたを責めているということはございませんので、その点はご安心ください』
そこまで書いて、一度息を吐いた。
『ただし、一点訂正いたします』
『私はレオナルド様との結婚に迷いを感じて、婚約解消を申し出たわけではございません』
『レオナルド様から、あなたを愛しているため私との婚約を解消したいとのお話があり、私はそれを受け入れました』
けれど、書いた。
『その際、私からレオナルド様を振った形にしてほしいとのお願いも受けましたが、私はお断りしております』
ペン先が止まる。
これでいい。
事実だ。
誰かを攻撃するための言葉ではない。
レオナルドを悪人に仕立てるためでもない。
『したがって、私はあなたのために身を引いたわけではございません』
『ご自身を私に対して負い目のある立場だと思われる必要もございません』
最後に少し考えた。
『今後については、レオナルド様とあなたのお二人でお決めになることと存じます』
そこで終えた。
以前なら、季節の挨拶や気遣い、レオナルドには悪気がないという説明まで足しただろう。
でも。
短くても、嘘はない。
「これでいい」
初めて、誰かに見せて確認したいと思わなかった。
◇
翌朝。
エミリア嬢への手紙を使者へ預けたあと、父と朝食を取っていると。
「セシリア」
「はい」
「王都から少し妙な話が届いている」
父が一通の私信をテーブルへ置いた。
「妙な話?」
「お前が婚約解消を望んだのではないか、という噂だ」
私はパンを置いた。
「もう?」
「正式な発表には理由を書いていないからな。社交界は空白があると勝手に埋めたがる」
「誰が言っているのです?」
「出所までは分からん」
父は少し不機嫌そうだった。
「ただ、ヴァルナー家に近い者の何人かが、『セシリア嬢が結婚に前向きではなくなったらしい』と聞いているそうだ」
エミリア嬢の手紙が頭に浮かんだ。
「レオナルド様でしょうね」
「断定はできん」
「はい。でも、同じ説明をエミリア嬢にもしています」
「何だと?」
父へ手紙の内容を話した。
父の顔がみるみる険しくなる。
「すぐ訂正させよう」
「待ってください」
「しかし」
「私から言います」
「どうするつもりだ?」
「誰かに聞かれたら、事実を答えます」
父が眉を寄せる。
「こちらから触れ回る必要はありません」
「それでは噂が先に広がるかもしれないぞ」
「構いません」
「セシリア」
「私は、悪い噂が一つでも立ったら終わるわけではありません」
口にしてから、自分で少し驚いた。
以前の私なら、誰にも誤解されないことを最優先にした。
噂が出る前に潰した。
失礼があれば訂正した。
少しでも評判に傷がつかないように整えた。
でも。
「聞かれたら答えます。必要なら説明します。でも、知らない人全員に私の潔白を信じてもらうために走り回るつもりはありません」
父は私を見ていた。
やがて。
「分かった」
とだけ言った。
「ただし、困ったら言え」
「はい」
「お前が一人で何でも背負う必要もない」
私は少し笑った。
「それも最近覚えました」
◇
数日後。
クレイン家から、正式な街道工事の契約書が届いた。
確認のため、ユリウスも再び屋敷を訪れた。
「こちらが修正後の費用分担です」
「拝見します」
私は書類を受け取った。
今は、自分でも一行ずつ読む。
「ここ」
「はい」
「水路清掃の費用ですが、二年目以降は村側負担が少し増えるのですか?」
「増えます。ただし収穫が一定以下の場合は両家側が補填する条項があります」
「なるほど」
「納得できませんか?」
「いいえ。確認したかっただけです」
「ならよかった」
私は契約書を閉じた。
「最近、確認するのが怖くなくなりました」
「以前は怖かった?」
「相手を疑っているように思われる気がして」
ユリウスが少し考える。
「私はむしろ、読まずに署名されるほうが怖いですね」
「どうして?」
「あとから『そんなつもりではなかった』と言われるからです」
思わず笑った。
「ずいぶん現実的ですね」
「契約ですから」
それから彼は、私の顔を見た。
「何かありました?」
「え?」
「今日は少し疲れて見えます」
以前なら。
大丈夫です。
何でもありません。
そう答えただろう。
口を開きかけて、やめた。
「婚約解消のことで、少し噂が出ているそうです」
「そうでしたか」
「私が結婚を嫌がって、レオナルド様との婚約を解消したことになりつつあるみたいで」
ユリウスの眉が少し動いた。
「事実ですか?」
「いいえ」
「では違うと言えばいい」
あまりに簡単だった。
「それ以外に何を?」
「私が何かしたと思いません?」
「あなたが?」
「婚約解消を申し出たとか」
「だから、今違うと言ったでしょう」
私は黙った。
ユリウスは不思議そうにこちらを見る。
「セシリア」
「はい」
「私は今、誰から聞いた噂より、目の前であなたが言ったことを信じています」
胸が少し速く鳴った。
「……簡単に信じすぎでは?」
「では嘘なのですか?」
「違います」
「なら問題ありません」
私は思わず笑った。
「あなたと話していると、難しく考えていたことが馬鹿らしくなることがあります」
「褒められている気がしませんね」
「褒めています」
「なら受け取っておきます」
ユリウスは立ち上がった。
「それと」
「はい?」
「もし王都で同じ噂を聞いても、私は訂正して回りません」
「しないのですか?」
「あなたの代わりに説明して回るつもりはありません」
その言葉に。
少し前の私なら、冷たいと思ったかもしれない。
けれど今は意味が分かる。
「ただ」
彼は続けた。
「私自身が誰かに尋ねられたら、『私はセシリア本人から別の話を聞いている』とは答えます」
「……ありがとうございます」
「礼は不要です。私がそうしたいだけですから」
その言葉が、不思議なくらい嬉しかった。
守ってもらったからではない。
私の代わりに戦ってくれるからでもない。
ただ、私の言葉を私のものとして扱ってくれたから。
彼が帰ったあと、私は窓辺にしばらく立っていた。
噂はまだ消えていない。
レオナルドとのことも終わりきってはいない。
それなのに。
次にユリウスと話すことを、私は少し楽しみにしていた。




