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君が僕を振ったことにしてくれ  作者: 九葉(くずは)


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4/10

第4話 私の意見を聞いてください

 婚約解消が正式に決まったのは、それから五日後だった。


 両家の署名、贈答品の返却、婚礼費用の精算。

 最後に、王都の親しい家々へ送る簡潔な通知が整えられた。


『ヴァルナー侯爵家レオナルドと、アルフェルト伯爵家セシリアとの婚約は、双方の話し合いにより解消されました』


 理由は書かれていない。


 父の言った通りだった。

 嘘はつかない。

 けれど、必要以上に誰かを傷つけることもしない。


 それで十分だと、私は思った。


「本当にこれでいいのか?」


 署名を終えたあと、父が尋ねた。


「何がです?」


「もう少しこちらに有利な条件を要求してもよかった」


「必要ありません」


 侯爵家からは追加の補償も申し出られたが、父は実費だけを請求した。

「お金を多くいただいても、五年間が返ってくるわけではありませんから」


「……そうだな」


 父が書類を閉じる。


「では、これで終わりだ」


 終わり。


 不思議な言葉だった。

 五年間続いた婚約が、紙の上では今日で終わる。

 けれど私は泣かなかった。


「お父様」


「何だ」


「来週のクレイン家との街道協議ですが」


「ああ」


 父が顔を上げる。


「私も同席してよろしいでしょうか」


 一瞬、父は何も言わなかった。


「……どうしてだ?」


「興味があります」


「私が出ろと言ったからではなく?」


「はい」


「伯爵家の娘として必要だからでもなく?」


「はい」


 父の口元が、わずかに緩んだ。


「なら出ればいい」


「ありがとうございます」


「私に礼を言うことでもない。お前の家でもある」



     ◇


 アルフェルト伯爵領へ戻ったのは、その二日後だった。


 王都から馬車で一日半。結婚後は年に数度しか帰れなくなると思っていた場所だ。

 麦畑、森、古い石橋、丘の上の伯爵邸。見慣れた景色が今日は少し違って見えた。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 屋敷へ着くと、古参の侍女長が玄関まで出迎えてくれた。


「ただいま」


 自然に答えた。


 ヴァルナー侯爵家の玄関で言われた「お帰りなさいませ」とは違う。

 ここでは、間違いではない。

 私は本当に帰ってきたのだ。


 自室の棚には、王都へ荷物を移した分だけ空きがあった。

 以前なら寂しかっただろう。今は、また好きなものを置ける場所に見えた。


     ◇


 クレイン家との協議は、三日後に行われた。


 議題は、冬になると水が凍結し、荷馬車が横転することもある北街道の整備だった。


 クレイン家からはユリウスと土木担当の官吏、我が家からは父と家令、そして私が出た。

「来てくださったのですね」

「はい。私が出たいとお願いしました」

 ユリウスは「それはよかった」と笑った。


 机の上には街道の地図が広げられている。

 問題になっているのは、両領の境界近くにある低地だった。


 官吏は低地を全面的に石畳へ変える案を説明した。費用は高いが、補修は減るという。

 私は地図を眺めた。

 確かに石畳にすれば丈夫になる。けれど、気になることがあった。


「一つ、よろしいでしょうか」


 全員の視線が集まった。




「この低地を石畳にしても、水そのものは残りますよね」


 官吏が頷く。


「ええ。ですから路面を高くする予定です」


「そうすると、行き場を失った水はこちらへ流れませんか?」


 私は地図の端を指した。

 小さな集落がある。


 去年、父と視察した場所だった。

「この村は畑が低い位置にあります」


「……確かに」


 父が地図を覗き込む。


「街道を守った結果、畑を水浸しにしては意味がないな」


「排水路を新設すると、さらに費用がかかります」

「なら、この古い水路は使えませんか」

 私は地図をなぞった。少し整備すれば、街道側の水を川へ逃がせるかもしれない。


 言い終えて。

 余計なことだっただろうか、と不安になった。



「その案は面白いですね」

 ユリウスが官吏へ確認すると、「勾配次第だが可能性はある」と返った。

「では調べましょう」


「では調べましょう」

「まだ思いつきの段階です。私の案で決めてしまっては」

「決めていません。候補に加えただけです」


 ユリウスは当然のように言った。


「調べて、良ければ採用する。駄目ならやめる。それだけです」


「……そうですね」


「意見を出した人が、最後まで正しくなければならない決まりはありません」


 胸の奥を、小さく突かれたような気がした。


 レオナルドへ何かを提案するとき。

 私はいつも、失敗しない答えを用意しようとしていた。


 相手を怒らせず、誰にも迷惑をかけず、後から問題にならない答えを、口にする前に何度も考えた。


 でも。

 意見というものは、出した瞬間に正解でなくてもいいのかもしれない。


「では」


 私は改めて地図を見る。


「もう一つ、気になるところがあります」


 父が笑った。


「今日はよく喋るな」


「迷惑でした?」


「まさか」


 その日の協議は、予定より一時間長くなった。


     ◇


 会議が終わったあと。


 ユリウスは翌日の現地確認まで伯爵邸へ滞在することになった。

 夕食までの間、私は秋薔薇の残る庭へ出た。


 歩いていると、後ろから足音がした。


「セシリア嬢」


 振り返る。


「クレイン卿」


「ユリウスで構いません。領地では皆そう呼びます」


「では、私もセシリアで」


「ありがとうございます」


 二人で並んで庭を歩く。


「今日は驚きました」



「何がです?」


「あなたがあんなに意見を言う方だとは思っていなかったので」


「やっぱり喋りすぎました?」


「どうしてそうなるのです」


 笑われた。


「良い意味ですよ」


「王都では、あまり言う機会がなかっただけです」


「機会が?」


「……そうですね」



「機会がなかったというより、求められるまで言わない癖がついていたのかもしれません」


「なるほど」


 ユリウスはそれ以上追及しなかった。


「あなたは、意見が違う相手とはよく喧嘩になりますか?」


「私ですか?」


「今日、ローデン殿の案と違うことをかなりはっきり仰っていたので」


「あれは喧嘩ではありませんよ」


「そうなのですか?」


「考えが違うだけです」


 ユリウスはさらりと言う。


「彼は石畳が最善だと思った。あなたは水路利用の可能性を見つけた。私は両方調べたいと思った。それだけでしょう」


「意見が違っても、相手を否定したことにはならない?」


「なぜなるのです?」


 即答だった。



 レオナルドと意見が違うたび、私は彼が傷つかない言い方を探し、最後には自分が折れることも多かった。


「難しい顔をしていますね」


「少し、考えていただけです」


「なら邪魔しません」


「いえ」


 私は笑った。


「聞いてもいいですか?」


「どうぞ」


「もし私があなたの案に反対したら?」

「理由を聞いて、私も反論します。それでも合わなければ、どちらかの案で進めるだけです」

「もっと『あなたの意見を尊重します』と言われるかと」

「尊重することと、全部賛成することは違うでしょう」


 風が吹いた。

 枝に残っていた赤い葉が一枚、道へ落ちる。


「ただ」


 ユリウスが続けた。


「あなたの意見を聞かずに決めることはしません」


 私は足を止めた。

 彼も少し先で止まる。


「どうしました?」


「いいえ」


 たった一言だった。

 けれど胸の奥の、まだ名前のつかない場所が温かくなった。


     ◇


 夕食前。

 王都から手紙が届いた。


 差出人は、侯爵夫人だった。

 正式な婚約解消後の礼状だろうか。


 封を開く。


 最初は近況と、こちらの領地へ無事帰ったかを気遣う内容だった。

 けれど後半。


 私は手を止めた。


『あなたにお伝えするべきことではないと思いながら、私自身への戒めとして書きます』


 そんな前置きのあと。

 ベルトラン伯爵との件が記されていた。


 レオナルドは結局、自分で謝罪状を書いたらしい。


 ただし、伯爵が怒った理由を、


『私の言葉が誤解を招いたようで』


 と説明した。


 それを読んだ伯爵から、


『誤解ではない。書いた本人が悪かったと理解していないなら、謝罪の意味がない』


 と返事が来た。


 その結果、ベルトラン伯爵夫妻は、しばらくヴァルナー侯爵家との私的な交流を控えると申し出たという。


 私は手紙を膝へ置いた。


 一瞬だけ、どう書けばよかったのか、頭の中に文章が浮かんだ。


『配慮を欠いた文面で、不快な思いをさせてしまいました』


 そう書けばいい。

 誤解させた、ではなく。

 自分が配慮を欠いた、と。


 たったそれだけ。


 以前なら、その一文をレオナルドへ送っただろう。


 今からでも。


 いや。


「セシリア?」


 父の声に顔を上げる。


「どうした」


「侯爵夫人からです」


「何かあったのか?」


「少し」


 手紙を畳む。


「でも、私がすることはありません」


 言ってみると、以前よりずっと自然だった。


「そうか」


 父も、それ以上聞かなかった。


 私は机へ手紙を置いた。


 レオナルドは少しずつ失っている。

 私が奪ったのではない。私が塞いでいた小さな穴から、水が漏れ始めただけだ。


 それを見て、胸がすっとするかと思っていた。

 でも実際には、少し違った。


 悲しい。


 五年間好きだった人が、自分の言葉にこんなにも無自覚だったことが悲しかった。


「お嬢様」


 侍女が扉を叩いた。


「クレイン様がお待ちです。夕食のお時間でございます」


「今行きます」


 私は立ち上がった。

 手紙は机の上に残した。


     ◇


 翌朝。

 私たちは問題の街道を見に行った。


 父は別件があり、同行できない。

 ユリウスと老官吏、それに我が家の家令。

 そして私。


 実際に現場を見ると、水路は思ったより状態が良かった。


「これなら使えそうですな」


 老官吏が言う。


「ただし途中で二か所、土砂を取り除く必要があります」


「全面石畳よりは?」


「おそらく半分以下の費用で済みます」


 ユリウスが私を見る。


「セシリア」


「はい」


「どう思います?」


 一瞬、反射的に答えそうになった。


 皆様が良いとお考えなら。

 専門家の判断に従います。


 いつもの、安全な言葉。


 でも今日は少し考えてから言った。


「水路を使う案がいいと思います」


「理由は?」


「費用だけではありません」


 私は遠くの村を見る。


「この水路が戻れば、春の雪解け水も流せます。村の畑にも良いはずです」


「なるほど」


「ただ、毎年の掃除が必要になります」


「そこは誰が?」


「村にすべて負担させるのは違うと思います。街道利用者にも利益があるので、両家で維持費を」


 そこまで話して、ユリウスが笑っていることに気づいた。


「何です?」


「いえ」


「何かおかしいですか?」


「昨日より、ずっと迷わず話すようになったと思って」


「では続きを聞かせてください」


 私は受け取った。


「私の意見でいいのですか?」


「あなたの意見を聞いているんです」


 その言葉に、今度は迷わなかった。


「では」


 私は地図を開いた。


 誰かの言葉を整えるためではなく。

 誰かが望む答えを返すためでもなく。


 私自身が考えたことを、私自身の言葉で話すために。

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