第4話 私の意見を聞いてください
婚約解消が正式に決まったのは、それから五日後だった。
両家の署名、贈答品の返却、婚礼費用の精算。
最後に、王都の親しい家々へ送る簡潔な通知が整えられた。
『ヴァルナー侯爵家レオナルドと、アルフェルト伯爵家セシリアとの婚約は、双方の話し合いにより解消されました』
理由は書かれていない。
父の言った通りだった。
嘘はつかない。
けれど、必要以上に誰かを傷つけることもしない。
それで十分だと、私は思った。
「本当にこれでいいのか?」
署名を終えたあと、父が尋ねた。
「何がです?」
「もう少しこちらに有利な条件を要求してもよかった」
「必要ありません」
侯爵家からは追加の補償も申し出られたが、父は実費だけを請求した。
「お金を多くいただいても、五年間が返ってくるわけではありませんから」
「……そうだな」
父が書類を閉じる。
「では、これで終わりだ」
終わり。
不思議な言葉だった。
五年間続いた婚約が、紙の上では今日で終わる。
けれど私は泣かなかった。
「お父様」
「何だ」
「来週のクレイン家との街道協議ですが」
「ああ」
父が顔を上げる。
「私も同席してよろしいでしょうか」
一瞬、父は何も言わなかった。
「……どうしてだ?」
「興味があります」
「私が出ろと言ったからではなく?」
「はい」
「伯爵家の娘として必要だからでもなく?」
「はい」
父の口元が、わずかに緩んだ。
「なら出ればいい」
「ありがとうございます」
「私に礼を言うことでもない。お前の家でもある」
◇
アルフェルト伯爵領へ戻ったのは、その二日後だった。
王都から馬車で一日半。結婚後は年に数度しか帰れなくなると思っていた場所だ。
麦畑、森、古い石橋、丘の上の伯爵邸。見慣れた景色が今日は少し違って見えた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
屋敷へ着くと、古参の侍女長が玄関まで出迎えてくれた。
「ただいま」
自然に答えた。
ヴァルナー侯爵家の玄関で言われた「お帰りなさいませ」とは違う。
ここでは、間違いではない。
私は本当に帰ってきたのだ。
自室の棚には、王都へ荷物を移した分だけ空きがあった。
以前なら寂しかっただろう。今は、また好きなものを置ける場所に見えた。
◇
クレイン家との協議は、三日後に行われた。
議題は、冬になると水が凍結し、荷馬車が横転することもある北街道の整備だった。
クレイン家からはユリウスと土木担当の官吏、我が家からは父と家令、そして私が出た。
「来てくださったのですね」
「はい。私が出たいとお願いしました」
ユリウスは「それはよかった」と笑った。
机の上には街道の地図が広げられている。
問題になっているのは、両領の境界近くにある低地だった。
官吏は低地を全面的に石畳へ変える案を説明した。費用は高いが、補修は減るという。
私は地図を眺めた。
確かに石畳にすれば丈夫になる。けれど、気になることがあった。
「一つ、よろしいでしょうか」
全員の視線が集まった。
「この低地を石畳にしても、水そのものは残りますよね」
官吏が頷く。
「ええ。ですから路面を高くする予定です」
「そうすると、行き場を失った水はこちらへ流れませんか?」
私は地図の端を指した。
小さな集落がある。
去年、父と視察した場所だった。
「この村は畑が低い位置にあります」
「……確かに」
父が地図を覗き込む。
「街道を守った結果、畑を水浸しにしては意味がないな」
「排水路を新設すると、さらに費用がかかります」
「なら、この古い水路は使えませんか」
私は地図をなぞった。少し整備すれば、街道側の水を川へ逃がせるかもしれない。
言い終えて。
余計なことだっただろうか、と不安になった。
「その案は面白いですね」
ユリウスが官吏へ確認すると、「勾配次第だが可能性はある」と返った。
「では調べましょう」
「では調べましょう」
「まだ思いつきの段階です。私の案で決めてしまっては」
「決めていません。候補に加えただけです」
ユリウスは当然のように言った。
「調べて、良ければ採用する。駄目ならやめる。それだけです」
「……そうですね」
「意見を出した人が、最後まで正しくなければならない決まりはありません」
胸の奥を、小さく突かれたような気がした。
レオナルドへ何かを提案するとき。
私はいつも、失敗しない答えを用意しようとしていた。
相手を怒らせず、誰にも迷惑をかけず、後から問題にならない答えを、口にする前に何度も考えた。
でも。
意見というものは、出した瞬間に正解でなくてもいいのかもしれない。
「では」
私は改めて地図を見る。
「もう一つ、気になるところがあります」
父が笑った。
「今日はよく喋るな」
「迷惑でした?」
「まさか」
その日の協議は、予定より一時間長くなった。
◇
会議が終わったあと。
ユリウスは翌日の現地確認まで伯爵邸へ滞在することになった。
夕食までの間、私は秋薔薇の残る庭へ出た。
歩いていると、後ろから足音がした。
「セシリア嬢」
振り返る。
「クレイン卿」
「ユリウスで構いません。領地では皆そう呼びます」
「では、私もセシリアで」
「ありがとうございます」
二人で並んで庭を歩く。
「今日は驚きました」
「何がです?」
「あなたがあんなに意見を言う方だとは思っていなかったので」
「やっぱり喋りすぎました?」
「どうしてそうなるのです」
笑われた。
「良い意味ですよ」
「王都では、あまり言う機会がなかっただけです」
「機会が?」
「……そうですね」
「機会がなかったというより、求められるまで言わない癖がついていたのかもしれません」
「なるほど」
ユリウスはそれ以上追及しなかった。
「あなたは、意見が違う相手とはよく喧嘩になりますか?」
「私ですか?」
「今日、ローデン殿の案と違うことをかなりはっきり仰っていたので」
「あれは喧嘩ではありませんよ」
「そうなのですか?」
「考えが違うだけです」
ユリウスはさらりと言う。
「彼は石畳が最善だと思った。あなたは水路利用の可能性を見つけた。私は両方調べたいと思った。それだけでしょう」
「意見が違っても、相手を否定したことにはならない?」
「なぜなるのです?」
即答だった。
レオナルドと意見が違うたび、私は彼が傷つかない言い方を探し、最後には自分が折れることも多かった。
「難しい顔をしていますね」
「少し、考えていただけです」
「なら邪魔しません」
「いえ」
私は笑った。
「聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「もし私があなたの案に反対したら?」
「理由を聞いて、私も反論します。それでも合わなければ、どちらかの案で進めるだけです」
「もっと『あなたの意見を尊重します』と言われるかと」
「尊重することと、全部賛成することは違うでしょう」
風が吹いた。
枝に残っていた赤い葉が一枚、道へ落ちる。
「ただ」
ユリウスが続けた。
「あなたの意見を聞かずに決めることはしません」
私は足を止めた。
彼も少し先で止まる。
「どうしました?」
「いいえ」
たった一言だった。
けれど胸の奥の、まだ名前のつかない場所が温かくなった。
◇
夕食前。
王都から手紙が届いた。
差出人は、侯爵夫人だった。
正式な婚約解消後の礼状だろうか。
封を開く。
最初は近況と、こちらの領地へ無事帰ったかを気遣う内容だった。
けれど後半。
私は手を止めた。
『あなたにお伝えするべきことではないと思いながら、私自身への戒めとして書きます』
そんな前置きのあと。
ベルトラン伯爵との件が記されていた。
レオナルドは結局、自分で謝罪状を書いたらしい。
ただし、伯爵が怒った理由を、
『私の言葉が誤解を招いたようで』
と説明した。
それを読んだ伯爵から、
『誤解ではない。書いた本人が悪かったと理解していないなら、謝罪の意味がない』
と返事が来た。
その結果、ベルトラン伯爵夫妻は、しばらくヴァルナー侯爵家との私的な交流を控えると申し出たという。
私は手紙を膝へ置いた。
一瞬だけ、どう書けばよかったのか、頭の中に文章が浮かんだ。
『配慮を欠いた文面で、不快な思いをさせてしまいました』
そう書けばいい。
誤解させた、ではなく。
自分が配慮を欠いた、と。
たったそれだけ。
以前なら、その一文をレオナルドへ送っただろう。
今からでも。
いや。
「セシリア?」
父の声に顔を上げる。
「どうした」
「侯爵夫人からです」
「何かあったのか?」
「少し」
手紙を畳む。
「でも、私がすることはありません」
言ってみると、以前よりずっと自然だった。
「そうか」
父も、それ以上聞かなかった。
私は机へ手紙を置いた。
レオナルドは少しずつ失っている。
私が奪ったのではない。私が塞いでいた小さな穴から、水が漏れ始めただけだ。
それを見て、胸がすっとするかと思っていた。
でも実際には、少し違った。
悲しい。
五年間好きだった人が、自分の言葉にこんなにも無自覚だったことが悲しかった。
「お嬢様」
侍女が扉を叩いた。
「クレイン様がお待ちです。夕食のお時間でございます」
「今行きます」
私は立ち上がった。
手紙は机の上に残した。
◇
翌朝。
私たちは問題の街道を見に行った。
父は別件があり、同行できない。
ユリウスと老官吏、それに我が家の家令。
そして私。
実際に現場を見ると、水路は思ったより状態が良かった。
「これなら使えそうですな」
老官吏が言う。
「ただし途中で二か所、土砂を取り除く必要があります」
「全面石畳よりは?」
「おそらく半分以下の費用で済みます」
ユリウスが私を見る。
「セシリア」
「はい」
「どう思います?」
一瞬、反射的に答えそうになった。
皆様が良いとお考えなら。
専門家の判断に従います。
いつもの、安全な言葉。
でも今日は少し考えてから言った。
「水路を使う案がいいと思います」
「理由は?」
「費用だけではありません」
私は遠くの村を見る。
「この水路が戻れば、春の雪解け水も流せます。村の畑にも良いはずです」
「なるほど」
「ただ、毎年の掃除が必要になります」
「そこは誰が?」
「村にすべて負担させるのは違うと思います。街道利用者にも利益があるので、両家で維持費を」
そこまで話して、ユリウスが笑っていることに気づいた。
「何です?」
「いえ」
「何かおかしいですか?」
「昨日より、ずっと迷わず話すようになったと思って」
「では続きを聞かせてください」
私は受け取った。
「私の意見でいいのですか?」
「あなたの意見を聞いているんです」
その言葉に、今度は迷わなかった。
「では」
私は地図を開いた。
誰かの言葉を整えるためではなく。
誰かが望む答えを返すためでもなく。
私自身が考えたことを、私自身の言葉で話すために。




