表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君が僕を振ったことにしてくれ  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/10

第3話 もう、あなたの言葉を整えるのはやめました

 三つの箱を作った翌日から、私は婚約に関わるものを一つずつ片づけ始めた。


 最初に取りかかったのは、婚礼の招待客だった。


 招待状そのものはまだ発送していない。

 ただし、結婚の日取りについては、すでに親しい親族や友人へ知らせてある。


 正式な招待状が届く前から予定を空けてくれている人も多い。

 当然、婚約がなくなったことも知らせなければならなかった。


「アルフェルト家からお知らせするのはこちらの方々でよろしいですか?」


 私は父の執務室で名簿を広げた。


「ああ。こちら側の親族についてはそれでいい」


 父が頷く。


「ヴァルナー侯爵家の親族まで、お前が連絡する必要はないぞ」


「分かっています」


 そう答えたところで、私は名簿の端に書かれた名前へ目を止めた。


 ベルトラン伯爵夫妻。


 レオナルドの母方の親戚だ。

 三年前、レオナルドが不用意な冗談で怒らせた相手でもある。

 翌朝、私が謝罪状を書き直し、伯爵夫人の好む花を添えて届けたことで、ようやく交流が戻った。


 今回の婚礼でも、伯爵夫妻は真っ先に祝意を寄せてくださっていた。


 私は名前の横へ小さく印をつけかけて、ペンを止めた。


「どうした」


「いいえ」


 私は印を消した。


「こちらはヴァルナー家のご親族でした」


「そうだな」


「では、お任せします」


 たったそれだけのことだった。


 本当に任せてしまって大丈夫だろうか。


 レオナルドはベルトラン伯爵へ、失礼のない手紙を書けるだろうか。

 婚約解消を知らせるだけでも、書き方によっては余計な憶測を招く。

 頭の中では、もう適切な文面が組み上がり始めていた。


 そこまで考えて、私は名簿を閉じた。


 関係ない。

 もう。

 それは私が考えることではない。


     ◇


 その日の午後。

 侯爵家から使者が来た。


「ヴァルナー侯爵夫人からでございます」


 渡されたのは一通の手紙だった。

 封を開く。


 丁寧な謝罪から始まっていた。


 婚約の件への謝罪と、婚礼準備を任せすぎていたことへの詫びが続き、最後に、


『可能であれば、一度だけ屋敷へ来ていただけないでしょうか。あなたがお持ちの婚礼準備の記録について、引き継ぎをお願いしたく存じます』


 と書かれていた。


 それならば、筋は通っている。

 私は翌日の午後に伺うと返事をした。


     ◇


 ヴァルナー侯爵家へ入るのは、婚約解消の話し合い以来だった。


 五年間。

 数え切れないほど通った屋敷だ。


 玄関番は反射的に「お帰りなさいませ」と言い、すぐ青ざめた。

「いいのよ。癖はすぐには抜けないものね」

 それはきっと、私も同じだった。


 応接室には侯爵夫人と家令が待っていた。

 レオナルドの姿はない。


 少しだけほっとした。


「来てくれてありがとう、セシリア」


「必要なものをお持ちしました」


 私は持参した帳面を三冊、机へ並べた。


「こちらが招待予定客。こちらが婚礼衣装と装花、それから料理関係。最後が、新居についてです」


 侯爵夫人は帳面を開き、目を見開いた。

「本当に、何から何まであなたがしていたのね」

「侯爵夫人とも相談して決めましたから」

「それでもよ。あなたなら任せて大丈夫だと、甘えてしまっていたわ」


 責めるつもりはなかった。

 実際、私も進んでやっていた。


「今さら言っても仕方のないことです」


「そうね」


 侯爵夫人は寂しそうに笑った。


「だから、せめて今後は私たちでやります」


「はい」


 私は頷いた。


 そこで家令が困ったように口を開いた。


「セシリア様。一点、伺ってもよろしいでしょうか」


「何でしょう」


「ベルトラン伯爵夫妻へのお知らせについてなのですが」


 やはり。

 胸のどこかで、小さく音がした。


「何か?」


「若旦那様が昨日、お手紙を出されまして」


「そうですか」


「その……伯爵閣下から、今朝お返事が」


 家令が侯爵夫人を見た。

 夫人が目を閉じる。


「かなり、お怒りなの」


「まあ」


「婚礼中止の知らせが、あまりにも簡潔すぎたようで」


 私は黙って続きを待った。


 侯爵夫人が言いにくそうに続ける。


「『諸事情により婚約は解消となりました。予定を空けていただいたところ申し訳ありません』と」


 思わず瞬きをした。


 それだけ?


 いえ。

 それだけでも、必要な情報は伝わる。

 間違ってはいない。


「そして、そのあとに」


 侯爵夫人が額を押さえた。


「『なお、私は近いうちに別の良縁に恵まれる予定ですので、ご心配には及びません』と……」


 私は目を閉じた。


 レオナルド。

 どうして。


 婚約解消を知らせる手紙に。

 どうしてその一文を入れるの。


「伯爵は、セシリアとの婚約がなくなった直後に次の縁談を喜んでいるのか、と」


「当然でしょうね」


 口から出たあと、侯爵夫人が驚いて私を見た。


「あ」


「いいのよ」


 むしろ、少し笑いたくなった。


 以前なら「そういう意味で書いたのではありません」と庇っただろう。


 実際、そうなのだと思う。


 たぶん彼は、婚約がなくなっても自分は落ち込んでいないから気を遣わなくていい、と伝えたかっただけだ。


 でも。


 私がそう翻訳してあげなければ、書かれているのはただの一文だ。


「それで……」


 家令が言った。


「若旦那様は、改めて謝罪のお手紙を送るべきではないかと」


「ええ」


「どのように書けばよいか、セシリア様に一度見ていただけないかと仰いまして」


 応接室が静かになった。


「私は断ったのよ」


 侯爵夫人がそう言ったとき、扉の近くから「お母様」と声がした。

 レオナルドが立っていた。


「少し見てもらうだけだ」


「レオナルド」


「別に婚約者として頼んでいるわけじゃない。セシリアは文章が上手いから」


 侯爵夫人の顔が引きつった。

 私は不思議なくらい落ち着いていた。


「お手紙はもう書かれたのですか?」


「ああ」


 レオナルドが封筒から便箋を出した。


「これなんだが」


 差し出される。

 手を伸ばしかけて、止めた。


「拝見しません」


「え?」


「それはレオナルド様のお手紙ですから」


「だから、変なところがないか確認してくれればいい」


「家令にお願いしては?」


「いや、こういうことは君のほうが分かるだろう」


「分かると思います」


「なら」


「でも、しません」


 レオナルドが黙った。


「……まだ怒っているのか?」


「いいえ」


「じゃあどうして」


 私は少し考えた。


 どう言えば分かってもらえるだろう。


 その考えが浮かんだ瞬間、自分で可笑しくなった。

 また私は、彼に分かりやすい言葉を探そうとしている。


 だから今日は、簡単に言うことにした。


「もう、あなたの言葉を私が整える理由がないからです」


 レオナルドの手にある便箋が、かすかに揺れた。


「そんな言い方をしなくても」


「五年間、私がしてきたことです」


「分かってる」


「本当に?」


「もちろんだ。いつも助かっていた」


「では、これからはご自分でなさってください」


「急に全部やめる必要はないだろう」


「急ではありません」


 私は彼を見た。


「婚約を終わらせたいと決めたのは、あなたです」


「それとこれは別の話だ」


「私には同じ話です」


 レオナルドが眉を寄せる。


「だって君は、こういうことが得意じゃないか」


 胸の奥が、すっと冷えた。


 やっぱり。

 彼はまだ、分かっていない。


「得意なら、あなたのためにし続けなければいけませんか?」


「そんなことは言ってない」


「では、断っても問題ないでしょう」


「セシリア」


「ベルトラン伯爵へ失礼をしたのは、私ではありません」


「分かっている」


「なら、謝る言葉もレオナルド様ご自身で考えてください」


 レオナルドは何か言おうとして、やめた。


 侯爵夫人が低い声で言う。


「レオナルド。もうよしなさい」


「母上」


「セシリアは、婚礼の引き継ぎのために来てくれたのよ。それ以上を求めてはいけません」


「……分かりました」


 レオナルドは便箋を戻した。

 不満そうだった。


 以前なら、帰宅後に文章を考えて送ったかもしれない。

 今は、胸の痛みより少しだけ呼吸の楽さが勝った。


     ◇


 帰り際。


 私は家令へ残りの帳面を渡し、玄関へ向かった。

 その途中で、廊下の先から声がした。


「セシリア嬢?」


 聞き覚えのある声だった。

 振り返る。


 濃い灰色の礼服を着た青年が、家令に案内されてこちらへ歩いてくる。

 顔を見て、思い出した。


「クレイン卿」


「覚えていてくださったのですね」


「もちろんです」


 ユリウス・クレイン。

 隣領を治めるクレイン伯爵家の次男。



「今日は侯爵閣下とご面談ですか?」


「ええ。秋の街道整備について少し」


「お仕事中に呼び止めてしまいましたね」


「いえ」


 ユリウスは私の手元にある空になった鞄を見た。


「婚礼のご準備で?」


 一瞬だけ迷った。

「いいえ」


 私は答えた。


「婚礼はなくなりました」


 ユリウスの表情が変わった。


 けれど彼は、


「お気の毒に」


 とも、


「何があったのです?」


 とも言わなかった。


「そうでしたか」


 私は少し拍子抜けした。


「聞かないのですね」


「聞いてほしいですか?」



「……いいえ」


「では、聞きません」


 あっさりしている。

 不思議な人だと思った。


「ただ」


 ユリウスが続ける。


「来週、アルフェルト伯爵領へ伺う予定があります」


「我が領地へ?」


「街道と冬の輸送について、伯爵閣下と相談することになっています」


「そうなのですね」


「セシリア嬢も同席されますか?」


「父が必要だと言えば」


 いつもの答えだった。


 父が必要なら。家が必要なら。相手が望むなら。


 ユリウスが首を傾けた。


「あなたは、どうしたいのです?」


「……私?」


「ええ」


 単純な質問だった。

 なのに答えが出なかった。


 父でも家でもなく、私がどうしたいか。


「考えたことがありませんでした」


 正直に言うと、ユリウスは少し笑った。


「では、来週までに考えてみてください」


「同席するかを?」


「それも含めて」


 彼は侯爵家の奥へ向かいかけて、一度だけ振り返った。


「自分の予定を、自分で決めるのは案外楽しいですよ」


 それだけ言って去っていった。


 私は玄関に立ったまま、しばらくその背中を見ていた。



 あなたは、どうしたいのです?


 レオナルドはいつも、


 君なら分かってくれる。

 君ならできる。

 君なら大丈夫だ。


 そう言った。


 でも。

 私が何をしたいのか。


 そう尋ねられた記憶は、ほとんどなかった。


 窓の外を流れる王都を見ながら、私は小さく息を吐いた。


 婚約がなくなってから、返すもの、やめるもの、手放すものばかり考えていた。


 でも、なくなった場所には、何か新しいものを置いてもいいのかもしれない。


 来週、父とユリウスが話すという街道整備。

 私は領地の冬の輸送事情を知っている。

 興味もあった。


 誰かに求められたからではなく。

 私自身が。


「……同席してみようかしら」


 馬車の中で呟いた。


 自分で決めた予定が一つ増えた。

 それだけのことなのに、帰り道はいつもより少し短く感じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ