第2話 理由について嘘をつくつもりはありません
父に婚約解消の話をしたのは、その日の夕食前だった。
「レオナルド様に、好きな女性ができたそうです」
執務室で書類を読んでいた父は、眼鏡を外した。
「……もう一度言ってくれ」
「レオナルド様に、好きな女性ができました。それで、私との婚約を解消したいそうです」
「そうか」
父はそれだけ言って、しばらく黙った。
アルフェルト伯爵である父は、感情を表に出すほうではない。
けれど、机の上に置いた眼鏡の位置を三度も直している。
かなり腹を立てているときの癖だ。
「お前はどうしたい」
やがて尋ねられた。
「婚約解消に同意します」
「……いいのか」
「はい」
「五年だぞ」
「分かっています」
五年は長い。
けれど、それを理由に愛していない相手を縛りつけるつもりはなかった。
「レオナルド様が別の方を愛したことについて、責任を追及するつもりはありません」
「ずいぶん冷静だな」
「そう見えますか?」
父は私をじっと見た。
私は少し考え、それから正直に言った。
「たぶん、まだ実感がないのだと思います」
「そうか」
「ただ、一つだけお願いがあります」
「何だ」
「婚約解消の理由を、曖昧にしないでください」
父の眉が動いた。
「どういうことだ?」
私はレオナルドとの会話を、できるだけそのまま説明した。
エミリア・ローゼ嬢を愛していること。
私との婚約を解消したいこと。
そして。
「私がレオナルド様を振ったことにしてほしい、と頼まれました」
机の上で、父の指が止まった。
「……何だと?」
「エミリア嬢が悪く言われないように、だそうです」
「それで、お前は何と答えた」
「婚約解消には同意します。でも嘘はつきません、と」
父が椅子の背にもたれた。
長く息を吐く。
「よく言った」
意外だった。
父なら「穏便に済ませよう」と言うと思っていた。
「お父様」
「何だ」
「怒っていらっしゃいます?」
「かなりな」
「でも政略婚約ですし」
「そういう問題ではない」
父の声は静かだった。
「婚約を解消したいと言うこと自体は構わん。人の気持ちは契約書で縛れない。だが、自分が選んだ結果をお前の責任にするのは別だ」
私は少しだけ目を伏せた。
「私も、そう思いました」
「なら十分だ」
父は眼鏡をかけ直した。
「明日、ヴァルナー侯爵家へ使いを出す。両家で話をしよう」
「お願いします」
「セシリア」
「はい」
「相手を庇う必要はないぞ」
その言葉に、胸の奥がちくりとした。
「庇うつもりはありません」
言ってから、本当にそうだろうか、と自分に問いかけた。
私は今日まで、何度レオナルドを庇ってきただろう。
本人より先に謝ったことさえある。
悪気はありません、言葉が足りなかっただけです。
私は何度も彼の気持ちを代弁してきた。彼には彼の口があったのに。
「……もう、しません」
今度は、自分に言い聞かせるように答えた。
◇
翌日の午後。
ヴァルナー侯爵夫妻とレオナルドが、我が家を訪れた。
客間に入ってきた侯爵夫人は、私の顔を見るなり青ざめた。
「セシリア」
「ご無沙汰しております、侯爵夫人」
「そんな他人行儀な……」
言いかけて、夫人は口を閉じた。
もうすぐ義母になるはずだった人だ。
今後は、本当に他人になる。
侯爵は険しい顔をしていた。
「アルフェルト伯爵。まずは、息子の不始末について謝罪したい」
父が首を横に振る。
「話を聞いてからにしましょう」
「……そうだな」
全員が席についた。
レオナルドは昨日と同じように、右の親指で左手の人差し指を擦っていた。
父が口を開く。
「では、確認します。レオナルド殿は、娘との婚約解消を希望している」
「はい」
「理由は?」
レオナルドが一瞬、私を見た。
私は何も言わない。
「それは……」
沈黙が落ちる。
以前なら。
私はここで口を挟んでいた。
お互いに将来を考え直した結果です、と。
誰も悪くならない言葉を、きっと探していた。
けれど、昨日私は決めた。
もう彼の言葉を代わりに作らない。
「レオナルド」
侯爵が低い声で促した。
「自分で説明しろ」
「……好きな女性ができました」
侯爵夫人が息を呑んだ。
「何ですって?」
「母上」
「セシリアとの婚約中に?」
「何もしていません。ただ、想いを自覚しただけです」
「相手は?」
レオナルドは少し迷ってから答えた。
「ローゼ子爵家のエミリア嬢です」
侯爵夫人は額へ手を当てた。
「なんということを……」
「だから、まだ何もしていないと」
「問題はそこだけではないでしょう!」
夫人が声を荒らげる。
珍しいことだった。私は驚いて顔を上げる。
「五年間も婚約してきたセシリアに、結婚半年を前にして他の令嬢を愛したと告げたのでしょう? それだけでも十分大事です」
「母上、だから僕は誠実に話したんです」
その言葉に、胸のどこかが冷えた。
誠実。
レオナルドは本当に、自分を誠実だと思っている。
隠さず話し、婚約解消後に求婚する。だから自分は正しい。
彼の中では、そういうことなのだろう。
父が静かに言った。
「もう一つ確認があります」
レオナルドの肩がわずかに強張る。
「娘から聞きました。あなたは、婚約解消をセシリアから申し出た形にしたいと頼んだそうですね」
侯爵夫妻が同時に息子を見た。
「……それには事情が」
「事実ですか?」
「はい」
「理由は?」
「エミリアの評判を守るためです」
侯爵の顔から表情が消えた。
「レオナルド」
「父上、聞いてください。セシリアなら多少の噂が立っても問題ありません。彼女には十分な信用があります。でもエミリアは子爵家の令嬢で、立場が弱い。僕のせいで悪く言われるのは」
「つまり」
侯爵が遮った。
「お前が惚れた令嬢を守るために、婚約者へ泥をかぶれと頼んだのか」
「泥なんて大袈裟な」
私は昨日も同じ言葉を聞いた。
侯爵夫人が私を見た。
「セシリア。あなたは、それを了承したの?」
「いいえ」
はっきり答えた。
「婚約解消には同意いたします。ただし、理由について嘘をつくつもりはありません」
レオナルドが私を見る。
「セシリア、僕は君を悪者にしたいわけじゃない」
「分かっています」
「なら」
「でも、結果としてそうなるでしょう」
「だから、それは説明の仕方で」
そこで私は気づいた。
まただ。
説明の仕方。
結局、この人が必要としているのは、私が考えた「ちょうどいい説明」なのだ。
「どのように説明するおつもりですか?」
「え?」
「私が婚約を解消したことにするなら、理由が必要でしょう?」
「それは……」
「性格の不一致? 五年間問題なく婚約していたのに?」
「将来について考え直したとか」
「何を考え直したのです?」
「それは君が」
彼はそこで止まった。
私が見つめていたからだ。
「私が、何です?」
「……いや」
「私が考えればいいと?」
返事はなかった。
侯爵夫人が、ゆっくりと息を吐いた。
その顔に浮かんだものを、私は初めて見た気がする。
失望だった。
「レオナルド」
「母上」
「あなたは今まで、セシリアにどれほど頼ってきたの?」
「頼ってなんて」
「では、なぜ自分が婚約を壊す理由までセシリアに考えさせようとしているの?」
レオナルドは黙った。
私は膝の上で手を重ねた。
侯爵夫人の言葉に、胸が少し痛んだ。
そうか。
第三者から見ても、そう見えるのか。
私はずっと、婚約者として当然のことをしていると思っていた。
彼を助け、言葉を整えることが支え合うことだと思っていた。
けれど今、彼は私との関係を終わらせるためにさえ、私の助けを求めている。
父が書類を机へ置いた。
「では、アルフェルト家としての意思を申し上げます」
「婚約解消には同意します」
侯爵が目を伏せた。
「感謝する」
「ただし、公式な説明は事実のみとする」
「事実?」
「レオナルド殿の申し出によって婚約を解消した。それ以上でも、それ以下でもない」
レオナルドが身を乗り出した。
「待ってください。それでは結局」
「あなたが別の女性を愛したことまで、こちらから触れるつもりはありません」
父の声は穏やかだった。
「娘はあなたを陥れようとはしていない。しかし、あなたを守るために虚偽を述べることもしない。それだけです」
「でも後になって、僕とエミリアが結婚すれば」
「そこから先は、あなた自身が説明することでしょう」
レオナルドは、急に足元を失ったような顔をした。
彼は婚約解消を拒まれると思っていたのではない。
婚約を終えても、私が相談に乗り、助け、理解してくれると思っていたのだ。
「セシリア」
レオナルドが私を見た。
「少しだけ、二人で話せないか?」
私は首を横に振った。
「必要ありません」
「でも」
「婚約解消について決めることがあるなら、この場で話してください」
「そうじゃなくて……君と話したいんだ」
「私は昨日、十分お話ししました」
「セシリア」
「それに」
私は一度だけ息を吸った。
「これからは、私がいなくてもご自分で決められるようになったほうがいいと思います」
レオナルドは、昨日よりもずっと傷ついた顔をした。
◇
話し合いが終わったあと。
侯爵夫人が帰り際、私を呼び止めた。
「セシリア」
「はい」
「本当に、ごめんなさい」
「侯爵夫人が謝ることではありません」
「でも……」
夫人は私の手を取ろうとして、途中で止めた。
「屋敷のことも、婚礼のことも、あなたに頼りきりだったわ」
「私がやりたくてしていたことです」
「そうね」
夫人は悲しそうに笑った。
「だから私たちは、それを当然だと思ってしまったのね」
侯爵家の馬車が去っていく。
私は玄関前に立ったまま、それを見送った。
やがて父が後ろから声をかけた。
「寒いぞ」
「もう秋ですものね」
「婚礼用に頼んでいたものは、明日から整理しよう」
「はい」
「無理に急ぐ必要はない」
「いいえ」
私は首を振った。
「早いほうがいいです」
「招待状も、衣装も、屋敷の準備も。私が関わっていたものを全部確認します」
「取り戻すためか?」
「違います」
あの帳面を思い出した。
五年間かけて準備した、私の未来。
「もう私がやる必要のないことを、きちんと手放すためです」
父は何も言わなかった。
ただ、短く頷いた。
翌朝、私は三つの箱を用意した。
私の家へ戻すもの、侯爵家へ返すもの、そしてレオナルドのために書き直してきた手紙の控え。
謝罪文。
礼状。
親族への挨拶。
贈答への返礼。
何十通もある中から、三年前に私がほとんど全文を書き直した謝罪状を手に取った。
最後に残った彼自身の文章は、署名だけ。
私はしばらくそれを眺めて、三つ目の箱へ入れた。
もう二度と。
この人の言葉を、私の言葉で誠実に見せることはしない。
箱の蓋を閉じた瞬間、五年間の婚約が、昨日より少しだけ遠くなった。




