表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君が僕を振ったことにしてくれ  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/10

第1話 君が僕を振ったことにしてくれ

「好きな女性ができたんだ」


 結婚式まで、あと半年。


 その日、婚約者のレオナルドは、五年間で一度も見たことのないほど真剣な顔でそう言った。


 場所はヴァルナー侯爵家の応接室だった。


 つい先ほどまで、私たちは結婚後に暮らす屋敷の話をしていた。


 南側の客間をどう使うか。

 庭園の薔薇は今のまま残すか。

 冬になる前に古くなった暖炉を直しておいたほうがいいのではないか。


 そんな、ごく普通の未来の話を。


 私の膝の上には、屋敷の改修予定を書き込んだ帳面が開かれたままだった。


「……そう」


 自分でも驚くほど、平坦な声が出た。


 レオナルドは両手を組み、しばらく俯いていた。


 言いにくいことを伝えるとき、彼は右の親指で左手の人差し指を擦る癖がある。


 昔から変わらない。


 失言をしたときも、約束を忘れたときも、そのたび私は先回りして言葉を探した。

 どう説明すれば相手を怒らせず、彼の悪意のなさが伝わるかを。


 今回も、反射的にそんなことを考えかけて、やめた。


「どなた?」


「エミリア・ローゼ嬢だ」


 知っている名前だった。


 ローゼ子爵家の次女。

 春の王宮音楽会で、レオナルドと何度か話していた女性だ。


 柔らかな栗色の髪と、よく笑う明るい瞳が印象に残っている。

 私とも二度ほど挨拶を交わしたことがあった。


「いつから?」


「はっきり自覚したのは一月ほど前だ」


 一月。


 その言葉だけが、妙に具体的だった。


 一月前、私は侯爵夫人と結婚式の招待客を整えていた。

 その頃、彼は別の女性への恋心を自覚していたらしい。


「彼女も、あなたを?」


「……そうだと思う」


「そう」


「セシリア」


「何?」


「怒らないのか」


 思わず、彼の顔を見た。

 本気で尋ねているらしい。


「怒ったほうがいい?」


「いや。そういう意味ではないけれど」


「なら、今は質問に答えて」


 レオナルドは少し驚いた顔をした。


 私は滅多に彼の話を遮らない。

 それどころか、彼が何を言いたいのか分からなくなって黙り込めば、言葉を探すまで待った。


 五年間、ずっと。


「それで、あなたはどうしたいの?」


「君との婚約を、解消したい」


 胸の奥で、何かが落ちた。


 割れる音はしなかった。

 もっと静かだった。


 長い間、棚の上に置いていたものが、ある日気づけばなくなっている。

 そんな感覚だった。


「エミリア嬢と結婚したいのね」


「ああ」


「ご両親には?」


「まだ話していない」


「私が最初?」


「そうだ。まず君に話すべきだと思った」


 その答えを聞いて、少しだけ救われた気がした。

 少なくとも、すべてを決めてから通告したわけではない。


 私は帳面を閉じた。


「分かりました」


「セシリア」


「婚約解消については、両家で話し合いましょう。五年も続いた婚約だから、簡単に紙一枚というわけにはいかないでしょうけれど」


「……すまない」


「謝罪は必要ありません」


「いや、でも」


「必要ないわ。あなたが他の方を好きになったこと自体を責めても、仕方がないもの」


 これは本心だった。


 悲しくないわけではない。

 五年だ。


 十六歳の頃から、私はレオナルドの妻になるのだと思って生きてきた。


 彼の好みも、侯爵家の親族も、領地の事情も覚えた。

 いつか自分の暮らす家になると思ったからだ。


 それがなくなる。

 痛みがないはずはない。


 けれど、愛情がなくなった人間を、婚約という約束だけで縛りつけたいとも思わなかった。


「私の父には、私から話します」


「ああ。そのことなんだが」


 レオナルドが、再び指を擦った。

 私は閉じた帳面の上へ手を置いた。


 嫌な予感がした。


「一つ、君に頼みたいことがある」


「何?」


「婚約解消の理由なんだ」


「理由?」


「その……僕がエミリアを好きになったことは、できれば伏せたい」


 そこで初めて、少し眉を寄せた。


「なぜ?」


「彼女の評判に関わるだろう?」


「まだ婚約中の男性と恋仲になった、と見られるから?」


「そうだ」


「事実ではないの?」


「いや、僕たちはまだ何もしていない。二人きりで会ったこともないし、手紙も……数度だけだ。彼女も、僕と君との婚約があることを気にしている」


「なら、婚約を解消してから正式に求婚すればいいでしょう」


「もちろんそのつもりだ」


「だったら何を伏せる必要があるの?」


 レオナルドは答えなかった。


 私は待った。


 以前の私なら、ここで助け舟を出していただろう。


 つまりこういうこと?

 こう説明すればいい?

 あなたが言いたいのは、こうでしょう?


 でも今日は、不思議なくらいその気になれなかった。


「……僕のほうから君との婚約を解消したとなれば、いずれエミリアとのことが知られたとき、皆そう考える」


「何を?」


「僕が、彼女のために君を捨てたと」


「実際、その通りでは?」


「セシリア」


 少し責めるような声音だった。

 懐かしいと思った。


 彼が困ることを私が口にすると、時々こういう声を出す。

 その後いつも、私が引いた。


「ごめんなさい。続けて」


「……僕だけなら構わない」


 構わない人間は、こんな話をしない。


「でも、エミリアまで、婚約者のいる男を奪った女だと思われる。それは可哀想だろう」


「そうね」


「君もそう思うだろう?」


「ええ。彼女があなたに婚約者がいると知りながら関係を迫ったのでなければ、必要以上に悪く言われるのは気の毒だと思う」


 レオナルドの表情が、目に見えて明るくなった。


「よかった。君ならそう言ってくれると思っていた」


 その言葉に、なぜか胸が冷えた。


 君なら。

 そう言ってくれると思っていた。


 彼は身を乗り出した。


「だから、君から婚約を解消したことにできないだろうか」


「……何て?」


「理由は何でもいい。僕との性格の不一致でも、結婚に不安を感じたでもいい。君が僕を振ったことにしてくれ」


 一瞬、意味が理解できなかった。

 言葉は明瞭なのに、それが本当に私への要求なのだと頭が受けつけなかった。


「私が」


「ああ」


「あなたを振ったことに?」


「形の上では、だ」


「その場合、私はどうなるの?」


「君?」


 その顔を見た瞬間。


 ああ。


 と思った。


 本当に考えていなかったのだ。


「あなたとの五年の婚約を、私の心変わりで壊したという評判になるわね」


「心変わりとまでは言わなくていい。将来を考え直したとか」


「同じでしょう」


「でも君なら大丈夫だ」


「何が?」


「君は評判もいいし、しっかりしている。アルフェルト伯爵家だって堅実だ。多少の噂が立っても、すぐ消える」


「エミリア嬢には消えない噂が、私なら消えるの?」


 レオナルドが言葉に詰まった。


「そういう意味じゃない」


「では、どういう意味?」


「君は強いから」


 息が止まりそうになった。


 信頼していると伝えるような、優しい声だった。


「君は冷静だし、周りもちゃんと君を知っている。多少悪く言われたって耐えられるだろう? でもエミリアは繊細なんだ。彼女はそんなことを言われたら傷つく」


「私は?」


「え?」


「私は傷つかないの?」


 レオナルドの口が開いた。

 閉じた。


「いや、そうじゃない。君だって傷つくとは思う。ただ……君なら事情を理解してくれると思って」


 事情。

 その言葉を私は何度聞いただろう。

 失言も、忘れた約束も、侯爵家の都合も、いつも理解するのは私だった。


 そして私は、それを信頼だと思っていた。


「セシリア?」


「確認してもいい?」


「ああ」


「あなたはエミリア嬢を守るために、私に悪評を引き受けてほしいのね」


「悪評なんて大袈裟な」


「では言い換えるわ。あなたが別の女性を愛した結果として婚約を解消するけれど、その原因は私にあったという形にしてほしいのね」


「原因とまでは」


「社交界では、そう受け取られるでしょう」


「君なら説明できる」


 思わず笑いそうになった。

 こんなときなのに。


「どう説明するの?」


「それは……君のほうが上手いだろう?」


 あまりにも自然に言われた。


 私は彼を見た。


 この人は、本当に何も分かっていない。


 私に婚約解消を頼んでいる。

 別の女性と結婚したいと告げている。


 そのうえで、自分が悪く見えない説明まで、私が考えると思っている。


 五年間、私がずっとそうしてきたから。


 誰かを怒らせれば、言葉を整えた。

 親族と揉めれば、間に入った。

 礼を欠けば、翌朝には私が手紙を書いた。


 彼自身が書いた文面を読み、「この一文は誤解されるから変えたほうがいい」と何度言ったことだろう。


 私もそれを愛情だと思っていた。

 けれど今、私の愛情はいつでも使える便利な道具になっていた。


「分かりました」


 私が言うと、レオナルドはほっと息を吐いた。


「ありがとう、セシリア。本当に君は」


「婚約解消には同意します」


 彼の笑顔が止まった。


「え?」


「父にもそう伝えます。両家で条件を確認して、正式に解消しましょう」


「ああ。助かる」


「でも」


 私は膝の上の帳面を持ち上げた。


 結婚後の屋敷、招待客、修繕、親族への挨拶。

 五年間積み重ねた未来が、何十ページにもわたって詰まっている。


 私はそれを閉じたまま、テーブルの上へ置いた。


「私があなたを振ったことにはしません」


 レオナルドが瞬きをした。


「セシリア」


「婚約を解消したいのはあなたでしょう?」


「だけど、さっきも説明したように」


「ええ。理解しています」


「なら」


「理解したうえで、お断りします」


 声は震えなかった。


 胸は痛い。

 五年分の何かが、内側からゆっくり剥がれていくように痛い。


 それでも、言葉は驚くほど簡単に出てきた。


「あなたが誰を愛するかは、あなたが決めることです」


 レオナルドは黙っている。


「だから、その結果もあなたのものです」


「結果?」


「誰かに悪く思われることも。失望されることも。エミリア嬢との関係を説明することも」


 私は彼をまっすぐ見た。


「あなたが選んだことの責任まで、私が引き受けるつもりはありません」


「そんな、責任を押しつけるつもりじゃ」


「では、事実のままで問題ないでしょう?」


 レオナルドは答えなかった。


 私は立ち上がった。


「今日は帰ります」


「待ってくれ、セシリア。感情的になっているなら」


 そこで初めて、少しだけ腹が立った。

 けれど怒鳴る気にはならなかった。


「私は、五年間で一番冷静よ」


 自分でも、それが分かった。


「お父様には今日中に話します。侯爵閣下にも、あなたからお伝えください」


「でも、どう説明すれば」


 私は扉へ向かいかけて、足を止めた。

 振り返る。


 困った顔をしたレオナルドがいた。


 いつもなら私は、その顔を見るだけで言葉を探した。


 彼が傷つかず。

 相手も怒らず。

 何事もなかったように明日を迎えられる言葉を。


 けれど。


「それは、あなたが考えることです」


 初めてそう言った。


 そして私は、五年間の婚約者を応接室に残して、一人で扉を閉めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
襟首つかまえて往復ビンタしたい! すごいな、こいつ。半年後の婚礼パアーにして、招待状も送ってるのに、これか。 よし、前向きに考えよう。結婚する前でよかった!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ