第10話 私が選んだ人と、私が選んだ未来
春になった。
北街道の脇を流れる古い水路には、雪解け水が勢いよく流れている。
「思ったより水量がありますね」
私は土手の上から水面を覗き込んだ。
隣に立つユリウスも地図から顔を上げる。
「去年のままだったら、かなり街道へ流れ込んでいたでしょうね」
「では、私の案は正しかった?」
「そうですね」
「もう少し喜んでください」
「ただし」
嫌な予感がする。
「下流の石積みは補強したほうがいい」
「やっぱり」
「全部正解でないと不満ですか?」
「いいえ」
私は笑った。
「最近は、間違いを見つけてもらうのも悪くないと思っています」
「成長しましたね」
「誰のおかげでしょう」
「私でしょうか」
「そこは謙遜してください」
「事実なので」
「相変わらずですね」
そんな話をしながら、二人で街道を歩く。
あの婚約解消から、半年ほどが経っていた。
街道工事は冬前に一区切りつき、年間通行証も正式に導入された。春の輸送量は去年より増えている。
そして私は、今では正式にアルフェルト家の領地運営に加わっていた。
父から担当を任されたのは、街道と商業関係。
最初は、
『お嬢様が?』
と驚く人もいた。
商人への返事を遅らせ、数字を取り違え、父と意見がぶつかったこともある。
ユリウスとは、もっとぶつかった。
「去年の倉庫案、まだ諦めていないんですか?」
「便利だと思います」
「維持費が高すぎます」
「利益は出ます」
「五年後なら」
「三年です」
「四年」
「……三年半」
「交渉成立ですね」
こうして、意見が違うたびに話す。
どちらかが我慢して終わりにはしない。
今は、心地いい。
◇
昼前。
視察を終えて村へ戻ると、小さな広場で市場が開かれていた。
冬には見かけなかった花が並んでいる。
「春ですね」
「そうですね」
立ち止まっていると、花売りの女性が笑った。
「お嬢様、一本いかがです?」
「私?」
「そちらの旦那様に買っていただいては?」
私は固まった。
ユリウスも、珍しく固まった。
「まだ旦那様ではありません」
私が言うと。
「これは失礼しました」
花売りは悪びれもせず笑う。
「では、将来の旦那様?」
「それもまだ」
「一本ください」
ユリウスが遮った。
「ユリウス?」
「これを」
白い小花を束ねたものを選ぶ。
「はい、どうぞ」
ユリウスは代金を払い、花を私へ差し出した。
「何です?」
「贈り物です」
「急ですね」
「言いたかったから言う。渡したかったから渡す」
どこかで聞いた言い方だった。
「便利に使っていますね、その理屈」
「気に入っています」
私は花を受け取る。
「ありがとうございます」
「喜んでくれました?」
「はい」
「ならよかった」
以前なら、贈り物をされたら相手が何を期待しているのか考えた。
何を返せば相手が喜ぶかを考えた。
今は、嬉しいなら嬉しいと言う。
◇
午後。
伯爵邸へ戻ると、王都から手紙が届いていた。
差出人は、レオナルド・ヴァルナー。
久しぶりだった。
「読む?」
父に聞かれる。
「はい」
封を開ける。
内容は短かった。
侯爵家の仕事を父親の監督下で学び直していること。
南部商会との取引が、ようやく安定してきたこと。
そして、以前ならセシリアに文章を見てもらいたいと思っただろうが、今回は自分で何度も書き直した、と。
最後に。
『あなたが幸せであることを願っています』
そう書かれていた。
私は、しばらく手紙を見ていた。
「返事は?」
父が聞く。
「書きます」
「何と?」
「私も、レオナルド様がお元気であることを願っています、と」
それで十分だった。
愛して、傷つき、別れ、許した。
それでも戻らない。その全部が今では同時に本当だった。
◇
もう一通。
エミリアからも手紙が来ていた。
彼女は王都の親戚の家で、子どもたちへ音楽を教え始めたらしい。
『結婚の予定はありません』
そんな一文のあとに。
『今のところは、ですが』
と付け加えてあった。
彼女も、自分の人生を歩き始めているらしい。
◇
夕方。
春薔薇には、まだ早い。
代わりに小さな若葉が枝いっぱいに出ている。
「セシリア」
「はい」
「話があります」
いつもと違う声だった。
私は立ち止まる。
「どうしました?」
「以前、私はあなたに求婚しましたね」
「しましたね」
「正確には、私より先に父が申し込みましたが」
「順番を間違えた事件ですね」
「まだ言います?」
「一生言うかもしれません」
「困りましたね」
「そのとき、あなたは結婚の返事を保留にした」
「はい」
「あれから、数か月経ちました」
「数えていたんですか?」
「毎日」
「嘘でしょう」
私は笑う。
でも心臓は、もう答えを知っているように速かった。
「急かすつもりはありません」
ユリウスが言う。
「今日答えてほしい、と言うつもりもない」
「では?」
「ただ」
彼は私の前に立った。
「もう一度、私自身から聞きたいと思いました」
そして今度は、先に父へも、誰にも話していない。
私だけを見る。
「セシリア」
「はい」
「私と結婚してください」
この数か月、私はこの言葉について何度も考えた。
結婚したら、また誰かの妻という役割に自分を合わせるのではないか。
相手を好きだからこそ、無理をしてしまうのではないか。
怖かった。
今も、まったく怖くないわけではない。
でも、それ以上に。
この数か月、私はユリウスと何度も意見を違えた。
反対し、反対され、頼り、断り、互いの失敗も見た。
それでも、私たちは、どちらか一人が我慢しなければ続かない関係にはならなかった。
「一つ、条件があります」
私が言うと、ユリウスが少し緊張した顔で頷いた。
「聞きます」
「私は結婚後も、アルフェルト領の仕事を続けたいです」
「はい」
「クレイン領のことも手伝います。でも、私の仕事を全部やめて、あなたを支えるだけにはなりません」
「はい」
「住む場所も」
「相談します」
「子どもができても」
「相談します」
「私が間違っていたら」
「反対します」
「あなたが間違っていたら?」
「できれば優しく教えてください」
「そこは甘いですね」
「婚約者になる予定の人なので」
笑ってしまう。
「それから」
私は続ける。
「私に『君なら分かってくれる』と言って、説明を省かないでください」
ユリウスの表情が、少し柔らかくなった。
「分かりました」
「本当に?」
「いいえ」
思わぬ答えに瞬きをする。
「それは、これからもあなたに説明してもらわないと分かりません」
彼は言った。
「私も説明します」
「……はい」
「分からないまま、勝手に分かったことにはしない」
胸が温かくなる。
この人は、きっと完璧ではない。
私も、完璧ではない。
だから。
話す。
聞く。
決める。
何度でも。
「では」
ユリウスが、少しだけ緊張した声で言った。
「返事を聞いても?」
私は一度、自分に尋ねた。
家のためでも、相手を喜ばせるためでも、断れば傷つくからでもない。
私が、どうしたい?
あの頃、答えられなかった質問。
今なら、はっきり分かる。
「はい」
私は言った。
「あなたと結婚したいです」
ユリウスが息を吐いた。
「……よかった」
「そんなに不安だったんですか?」
「当然でしょう」
「私なら分かってくれると思わなかった?」
「絶対に言いません」
二人で笑った。
それから、ユリウスが手を差し出す。
「触れても?」
「今さら?」
「大事なので」
私は、自分からその手を取った。
「はい」
指が重なる。
温かい。
何か月も考えていた未来が、自分のものになった気がした。
◇
結婚式は、翌年の春に決めた。
その前に街道の倉庫を完成させ、クレイン領の水路と、両家を行き来しやすい住まいも考えたい。
「新居ですが」
ユリウスが図面を広げた。
「アルフェルト領とクレイン領の境に近い場所は?」
「街道から近すぎます」
「便利でしょう」
「朝から馬車の音で起こされます」
「では森側?」
「冬に道が塞がります」
「難しいですね」
「私の意見を聞いてください」
「ずっと聞いています」
「では、王都の屋敷も残しましょう」
「三軒?」
「多いです?」
「維持費を計算してからにしましょう」
「現実的ですね」
「あなたに言われたくありません」
「好きにしろ」
と言った。
◇
結婚式の日。
私は鏡の前に立っていた。
白いドレス。
一年半ほど前、別の結婚式のために選んでいたものとは違う。
あのときの衣装は、侯爵家に似合うもの。
レオナルドの隣に立ったとき美しく見えるもの。
それを基準に選んでいた。
今日のドレスは、私が好きなもの。
ただし。
「その刺繍、ユリウス様が選んだのでしょう?」
侍女が笑う。
「候補を三つ持ってきました」
「その中から?」
「私が選びました」
「仲がよろしいですね」
「意見は合いませんでしたけれど」
「まあ」
「彼は真珠を増やしたがったんです」
「豪華ですもの」
「重いので却下しました」
侍女が吹き出した。
私も笑った。
◇
式の前。
父と二人で廊下を歩く。
「セシリア」
「はい」
「後悔はないか」
「ありません」
父が頷く。
「怖くも?」
「少し」
「そうか」
「でも」
私は笑う。
「怖いからやめる、とは思いません」
「そうか」
「怖かったら、その都度話します」
父は、少し目を細めた。
「随分変わったな」
「そうでしょうか」
「ああ」
「いい方向に?」
「それは自分で決めろ」
私は笑ってしまった。
◇
扉が開く。
その向こうで、ユリウスが待っていた。
私を見る。
笑う。
私は、彼のところへ歩いていく。
誰かに譲られた場所でも、決めてもらった場所でもない。
私自身がここに立ちたいと思ったから、ここにいる。
一年半ほど前。
私は言われた。
『君が僕を振ったことにしてくれ』
あのとき私は初めて、誰かの都合のために、自分の人生の説明を書き換えることを拒んだ。
それから、たくさんのことを決めた。
婚約を終わらせること。
領地へ帰ること。
仕事をすること。
自分の意見を言うこと。
レオナルドの謝罪を受け取ること。
戻らないこと。
ユリウスと恋をすること。
そして今日、この人と人生を歩くこと。
「セシリア」
ユリウスが小さく呼ぶ。
「はい」
「今、何を考えていました?」
「いろいろ」
「聞いても?」
「あとで」
「分かりました」
無理に聞かない。
でも、きっとあとで聞く。
そんな人だ。
私は彼の隣に立った。
これから何度も意見が違い、喧嘩し、間違い、傷つけることもあるだろう。
そのたびに。
誰か一人が「分かってくれる」ことへ甘えず、言葉にする。
聞く。
二人で決め直す。
それでいい。
神官が誓いの言葉を促す。
私はユリウスを見る。
彼も私を見る。
誰かに言わされた答えでも、誰かを守るための嘘でもない。今度は、私が選んだ。
「はい。誓います」
ユリウスが笑い、私も笑った。
私が選んだ人と、私が選んだ未来へ。
私は自分の足で一歩進んだ。




