第二十一話
週明けの月曜日、その放課後。とは言うものの、今日はまだ昼過ぎ頃だ。
今日から定期試験が始まり、人によっては顔を顰めるのだろうが、俺も風香も立華さんも、こうしてレミニスに集まっていられるくらいの余裕はあるようだった。
一年の風香と立華さんは特に、同じ科目のテストを受けている訳だから、自然と会話も弾んでいる。
教科担任やテスト内容まで同じとは限らないが、それでも学年の違う俺よりは、やはり同学年同士で話す事の方が多いのだろう。
そう。立華さんが戻ってきてくれたのだ。
最初は、自分はここに居て良いのか、という表情を浮かべていたが、それが見当外れな疑念だと理解するのに然程時間はかからなかった。現に、立華さんの表情はとても明るい。
と、それを眺めている俺にマスターが声をかけてくる。その調子はいつも通り過ぎるくらいいつも通りだった。
「分かっているのでしょう?」
「勿論です」
「なら、良いのですが。どうするおつもりで?」
「……俺の一存で決めるなら、この関係は長くは続かないでしょうね」
「あくまでも、貴方はそういう役割で居るつもりなのですね」
「そうなります。というより、それ以上の方法を知りませんから」
「貴方は実に歪だ。狂っていると言ってもいい」
「……誉め言葉として受け取っておきましょう」
俺もマスターも、決して世間話のようなトーンを崩さない。
端的で、裏の無いマスターのその言葉は要するに忠告だった。
それだけ、マスターは俺の事も気に掛けてくれているという事になる。
風香と立華さんはまだ数学のここが自信が無いだとか、ここの問題はこうだとか、そういう話を続けていた。
「貴方はどうです、調子の程は」
「今回も、まあ恙なく」
「それは何よりです」
そんな取り留めのない事を話しながらコーヒーカップを傾けると、それが空になっていた事に気付く。
間抜けなその行為を悟られないよう、俺はさも今飲み終わったというフリをしてソーサーにカップを置いた。
のだが。
「……見ましたか」
「見ましたね」
マスターは相変わらず目敏い。
それは即ち、俺がそんな簡単な事すら見落とす程度に上の空だったという指摘だ。
「……まあ、少々手を焼いています」
「でしょうね」
「こんな経験は、初めてかもしれません」
「だから言ったでしょう。期待し過ぎです、と」
息を呑んだ。
まさか、あの言葉が俺の、俺へかける期待に向けられたものだったとは。
しかしそれならば、地に足のついていないように感じた事にも合点がいく。俺がその言葉を受け取った時、その言葉の向けられていた先が俺の自覚の全く無い場所だったから。そして、それを同時に鋭利な刃物のように錯覚した事も。
頭の切れる優秀な人間は、なまじ自分の能力の高さに自覚的な分、周囲よりも自分が優秀だと理解している分、余計な期待を自分にかけてしまう。そして、それを裏切ることが大きな苦痛になる。
まさか俺がそうだとは露程も思っていない程度には卑屈だったが、しかし確かにそういう人間が居る事を俺はよく知っていた。
例えば、姉さんが特にそのタイプにあたる。
姉さんは、自分にプレッシャーをかけることでポテンシャルを発揮する人間だ。かなり頭の回る人間だという自覚と自負があって、決してそれを裏切らないように行動する。そして、多くの場合はそれは良い結果を伴う。
そうならなかった時は、余り見られたものではないが。
そして俺にも、姉さんのような完璧主義的な性格が多少伝染していてもおかしくはないだろう。
「期待し過ぎ、ですか」
「そうですね。いえ、期待をしてしまうのも、分からなくはありませんよ。実際、貴方の目は非凡です。ただ、やはり老獪さというのが少し足りていないかと」
「老獪さ、ですか。確かに、如何せん経験不足なのは否めませんね」
「要領が良いというのも、中々に困りものでしょう」
「まあ、机上の空論、なんて言葉は耳に痛いですね」
「机上の空論というよりは眼高手低、というところでしょうか」
「原意とは少しズレませんか?」
「それくらいは誤差の範囲でしょう。少し意味する範囲が広くなったりする程度、珍しくもありません」
「なるほど確かに」
元々は絵や音楽を評価するだけの見聞はあるが創作力や表現力が無い、という意味の言葉だ。確かに、知識に実力が伴わない、と少し広義に解釈すると今の使い方でも正しい。
実力というのは、知識を元に経験を得る事で身に付くものだ。そういう意味では、経験の不足を的確に言い表した語のようにも思える。
「それで、どうでしょう?」
「……まあ、何とかしますよ。手段さえ択ばなければ、最悪の結果は回避できます」
「そうですか……貴方なら、その言葉通りにするでしょうね。しかし……自分の為に行動するという事を徹頭徹尾考えない人ですね」
「自由とは、他者の自由を守って初めて赦されるものです」
「倫理としてはそうですが、果たしてそれが現実果たされているかと言えば……」
「そうではないでしょうね。だからこそ、俺はそうする。それだけです」
「……狂気の沙汰ですね」
「何と言われようと、このやり方を変えるつもりはありませんよ」
「……そうですか。そうでしょうね」
言いながら、いつも通りの営業スマイルを浮かべるマスター。
それが意味するのは、俺が諦めている事を同じように諦めた、という事だ。
これは、俺のエゴでしかない。それでも、いや同じエゴならせめて、誰かを不幸にしない方を選びたい。
もう既に、手遅れになっているかもしれないが。
――――――――――。
それから小一時間程してレミニスを出ると、立華さんが声を掛けてくる。
「あれ?澤木先輩、駅はこっちですよ?」
「知ってる。今日は風香を送って行くから、こっちでいいんだ」
俺がそう返すと、横でその風香が一瞬意外そうな顔をした。すぐに隠したから立華さんには気付かれていないが。
「あぁ、そういう……。えっと、ごゆっくり?」
「送り狼じゃないから」
「そ、そうですよねっ!わ、私、帰りますね!」
「おう。気を付けてな」
勘違いが恥ずかしかったのか、はたまた俺の指摘が直球過ぎたのか、よく分からないが顔を赤くして駅の方へ小走りに向かう立華さん。
風香が横から俺をジト目で見つめていた。
「なんで、気付いたんですか?」
「そんなに意外か?」
「いえ、全く。行きましょう」
「あぁ」
風香が歩く横を着いていく。
俺はレミニスからどっちに向かうか、くらいしか風香の家の場所を知らないから、必然的にそうなる。
「この時間だと家に誰も居ないんですけど」
「……俺はそれをどう受け取れば良いんだ?」
「信じてますよ、って事です」
「なるほど。心得た」
余計な気を起こしてくれるなよ、という忠告らしい。
家に来るなという拒絶にも、その手の誘いとも取れなかったのはそのどちらでもないからだった。
そもそもそんなつもりが無かったせいで見落としたが。
「まあ、別に何を言わなくても先輩が何かしてくるとは思ってませんけどね」
「否定はしないけどな……」
それは信用されているという事でもあるが、意気地なしと言われている様で微妙な気分でもある。
「それより、話があるんじゃないのか?」
「……ありますよ。でも、あんまり外で話したくないです」
「……割と大事な話か?」
「……大事と言えば大事ですけど、それより恥ずかしいので。因みにですけど……覚えてますか?」
「……オーケー。ちゃんと覚えてるから安心してくれ」
言うと、風香が少し表情を緩める。
二か月前の約束だが、忘れる筈も無い。
風香の記憶力が高い事に疑いは無かったが、風香がそれを積極的に持ち出してくれた事に胸の奥が温かくなる。
「社交辞令とかじゃなくて良かったです」
「社交辞令だったらまた行こうとは言わないだろ、普通」
「そういうものですか?」
「多分な」
「多分ですか」
「俺はそうだと思う」
「なるほど。さて先輩、ここですよ」
言いながら指で示す先にあるのは、タワー程ではないもののかなり大きいマンション。
自動扉を暗証番号か何かで開けて、すぐ左のところにあるエレベーターは素通りし階段を上って行く。
「相変わらず、エレベーターは使わないんだな」
「使いません」
小柄な体には階段のワンステップが相対的に大きい。だからこそ、エレベーターを使うと負けた気になるという風香の気持ちは何となく理解できた。
低身長を気にしているから、低身長をものともしていないのだと誇示したいのだろう。
そういう意地は、嫌いじゃない。
「ここです」
「三〇八号室な。覚えておく」
「どうぞ。先輩のお家と比べるとちょっと狭くて散らかってますけど」
「お邪魔します」
玄関にはサンダルが一足出ているだけで、他に靴は無い。片側が空きっぱなしになっている引き戸型の靴箱の中には女物ばかりが並んでいる。
女の子の家、というよりはオフィスレディの家といった佇まいだ。
散らかっているとは言うものの整然としていて、一見して片付け上手な人間の存在を感じる程度のものだった。
「えっと……着替えて良いですか?」
「そりゃ勿論」
「じゃあ……リビングで待っててもらえますか?」
「分かった」
言って、自分の部屋なのだろう扉の向こうへ引っ込む。
見慣れない廊下を、馴染みの薄い香りの中を、俺はつい見回してしまう。
見た感じ間取りは風呂トイレ別の3LDK、といったところだろうか。マンションの一部屋としては各部屋の広さがかなり広く開放的であり、マンションというよりは大きめな平屋の一戸建て、と説明した方がしっくりくるだろうか。比較的裕福な家庭なのだろう事が窺えた。
それから、言われた通りにリビングで待っていると、色々なものが目に付く。
食卓らしいテーブルに椅子が二脚しか無いのに、ガラステーブルに向かったソファは二人掛けのものが二つ。これは来客用に多く用意しているのだと言われれば納得できるが。
部屋の隅にある棚、奥に大判の本が並んでいる手前側に置かれた写真立ては、支えが部屋を向いていて、肝心の写真が見えない。気になって裏、本来は表の方を見てみる。
それで、何となく分かった。分かってしまった。
内側のコルク板部分がむき出しになっていたのだ。
「お待たせしました……先輩?あっ、それ……」
「ん?写真立てがどうかしたのか?」
「……誤魔化さなくて、良いですよ。普通、おかしいと思う筈です。先輩、前から知ってるんでしょう?」
「……あぁ。風香のご両親が離婚してるって事はな」
スイッチが切り替わるのを感じた。
思考が普段より数段早くなって、秒を刻む針の音の間隔が広くなる。
「それだけ、ですか?」
「あぁ。強いて言うなら、それが穏やかな理由ではなかったって事くらいは予想がつくけど」
「……でしょうね」
「だからって、引いたりしないぞ。風香、あの時、言っただろ。今のままで、って。あれ、実はかなり頭に来たんだぞ」
「……え?」
「そんな事で、なんで嫌いになると思ったんだ、って。別に風香が悪い訳じゃないんだろ?だったら、もっと堂々としてればいいだろ」
「で、でも普通、片親って悪い印象になるでしょう?それに、私は……」
「俺は、風香がどんな境遇で育ってきたとか、どんな過去を抱えてるとか、そんな事どうでもいいんだ」
「ど、どうでもいいって……そんな事、無いでしょう?普通は気にしますよ!」
「いやどうでもいい。俺は今の風香が好きなんだ。俺のよく知らない過去の風香の事はどうでもいい。今好き合っていられるなら、それで充分だ。そうだろ?」
「……そんな事」
「ある。風香は、俺が話したくないって言った事まで追求しないだろ。それと同じだよ」
「……じゃあ、なんで私の事知ってるんですか」
「……風香の事を知ってる人が居るんだ。先に言っておくが、マスターじゃないぞ。姉さんも勿論違う」
「……そう、ですか。そこまで知ってて、先輩にそんなに話すような人ってなったら大分心当たりは限られますけど」
それはそうだろう。
そもそも交友関係の広くない俺や風香にとって、自分の事を知っている人間というのはそもそも珍しいし、こんな事を話すような口の軽い人間となれば更に絞られる。
風香であれば、例えば星川楪、柊姉妹なんかは片親である事くらい知っているだろう。そして、口の軽そうな印象を風香も持っている筈だ。実際、そこから俺に伝わったと考えるだろう。
ただ、俺は誰からシングルマザーの話を聞いた訳でも無い。
以前レミニスで風香がしていた場の空気を落ち着かせる立ち回りに、俺は少なからず違和感を覚えた。それが家族関係の問題に起因するだろうという予想もあった。
そして今日ここへ来て漸く予想が確信に変わった。それだけの事だ。
考えてみれば、風香が知られたくなかった事というのも、何故か俺に知られてしまった事になっていたのもこれだろうという事に不思議は無い。
事態の重さが如何ほどだったかまでは知る由もないが、なるほど確かにそうそう知られたくは無い事だろう。
もっと言えば、風香の反応を見た限り、それを知られた相手とは碌な事にならなかった事も想像に難くないか。
「人の口に戸は立てられぬ、とはよく言ったものですね。……でも、それを知った上で、私の事を好きって言ってくれたんですよね?」
「……結局詳しい事は知らないけどな。何があったんだ?」
「それは……言いたくありません」
「お母さんとは?」
「上手くやってますよ。でも時々寂しそうに泣いてるのを、私は知ってるんです。お母さんには、たった一人の愛した人だったんです……。そして、二人を引き裂いてしまったのは、私なんです……」
「あぁ……」
そうか。きっと、風香は勘違いをしているのだろう。
いや、俺は風香のお母さんがどんな人物か知らないから、確かな事は何も言えないが。
きっと、寂しそうに泣いているというのは、風香が心を閉ざしてしまっているからだ。甘える事を、しなくなってしまったから。
もしかすると、風香の言ったような側面が無いとも限らないが、俺にはそうとしか思えなかった。
そう思いたいだけ、かもしれないが。
「……ごめんな。写真立てなんか見たばっかりに、辛い事思い出させて」
「……良いんです。私が、悪いんですから。先輩が気に病む事じゃありませんよ」
「ん、それなら、話したかった事の方を聞こう。元々そのつもりで来たんだし、良いよな?」
「はい。えっと……それなら、リビングじゃなくて私の部屋にしましょう」
「あぁ」
返事も待たずに案内された先は、年頃の女の子の部屋にしては落ち着いた調度で、化粧台などが無ければ男の部屋と言われても何ら疑問には思わなかっただろう程度には整然としていた。
整った部屋には、裕福な家庭を裏付ける証拠が、これでもかと揃っていた。この部屋の主が安物買いの銭失いを好まない性格であること、生粋の読書家であること、物持ちは良いが不要になったものは悩まず捨てる判断を下せるだろうことなどがそれとなく伝わってくる。それは、俺の知る風香の印象と相違無いものだった。
俺の家を綺麗に片付いていると言っていたが、これが綺麗に片付いていない部屋なのだとしたら九割以上の人間が片付けのできない側に分類されることだろう。
リビングには日本語の辞典類、学問書や実用書、科学論文系の雑誌など、読まれているのか分からないようなものまで幅広いジャンルのものが鎮座ましましていたが、風香の部屋の本棚には文庫本ばかりがずらりと納められている。
そして、以前本人も言っていた通り、机の上に数冊の文庫本が書店の新刊よろしく平積みされていた。
「……どうですか?恋人の部屋を見た感想は」
「まあ、女の子っぽいとはお世辞にも言えないけど、良いんじゃないか?綺麗だしサッパリしてるから、過ごしやすそうだ。風香の欲しいものが欲しい場所にあるんだろ?」
それから、部屋に入ったその時に受けた性格的な印象を付け加えると、風香が呆れたような顔で言った。
「……先輩の洞察力が卓越しているのは知ってましたけど、部屋に入った瞬間からそんな事考えてたんですか?もう凄いを通り越して不気味ですね」
「不気味……いや、まあいいけど」
「頭の回転が良すぎるんですよ、先輩。さて、立ち話も何ですから、ベッドにでも座ってください」
「え?あ、あぁ……」
「なんで今更そんな事で動揺するんですか……」
確かに、同じ床に就いたこともあるし、そう考えれば動揺するのもおかしな話だろう。
だが。
勧められるまま寝台に腰を降ろすと、針の筵に座らされたような落ち着きの悪さを覚える。
嫌だとか居心地が悪いという事ではなくて、どうにも緊張してしまう。
俺の体重に沈んだマットから風香の匂いが漂ってくる。いつか感じた、あの微かな甘い香り。あの時は落ち着き払って居られたのに、今は完全に冷静を欠いている。
女の子の家、部屋、ベッド。夢を見ているような、熱に浮かされたような気分になっている自分に気付く。
それは、ある種の現実逃避だった。
同時に、風香への裏切りでも。
気付けば、俺はまた。
「……先輩?」
「なんだ?」
「……その、本題に入っても大丈夫ですか?」
「そりゃ勿論」
努めて普段通りに返す俺に、風香は疑問を持っていないようだ。
少し空いた間の内に、落ち着きを取り戻したとでも思ったのだろう。
本当は内心自分の卑怯者具合に激しい憤りを覚えているが、そんな事は露知らずの風香が本題を切り出す。
それは、ここへ来る前の会話で予想していた通りの内容だった。
「デート、しませんか?」




