第二十話
「やっぱり、私には荷が重かったです」
風香がどんよりとした空気を纏ってそう言ったのは、二人で学校をサボってレミニスに行った次の日の帰り道だった。
余りに早計なようにも、或いは判断能力の高い風香らしい諦めの良さとも取れる。
「あぁ」
どう転んでも不思議は無いと思っていた俺は、特にそれを掘り下げる事もなく流す。
しかし、風香はその反応に納得がいかないのか食い下がった。
「何か……思っていたのと違います。もっと頑張れとか、叱責するとか、あるでしょう、色々と」
「いや、尻拭いをしてもらってる俺が文句を言うのは筋じゃないだろ?」
「確かにそうですけど……見限られたみたいで、嫌です」
その言葉に、俺は昨日浮かべた疑問の一つに答えを出した。
あぁ、そうか。と。
確かに、そう考えると納得はいく。
原因の原因が不明瞭だが、直接の原因はこれで間違いないだろう。
「そういう理由なら、これ以上しなくていい。俺にとって風香は、どんな宝石よりも貴金属よりも価値がある」
「う……なんで」
「自分で言っただろ」
「……先輩、鬼です」
「鬼如きと一緒にしてもらいたくないな」
「悪魔、編集者」
「その並びに編集者を入れるのは可哀想過ぎる」
確かに、度々耳にする事ではある。
しかしそもそも俺は編集者になった覚えなど無いし、そんな意味不明の罵倒を受ける筋合いは無いのだが。
「でも、良かったです」
「なら良かったよ。紛れもない本心だけど」
「そんなに想ってもらえるのは嬉しいですけど、ちょっと照れます」
「あぁ。マスターには悪いけど、俺は風香が居てくれる方がずっと大事だから」
「……割と薄情ですね」
「今更か?」
「はい。私は、先輩にそういう態度取られた事無いので」
「……そうか?」
風香は自信満々に頷いた。
まあ、風香がそう思うのなら俺がその価値観に口を挟むのはおかしな話だ。
比較的雑な扱いをしたような記憶がある俺としては、少し罪悪感を覚える。
「立華の事は、どうしますか?」
「風香はどうしたい?立華さんと元の関係に戻りたいと思うか?」
「……どう、でしょう。私も、先輩の方が大事ですよ。質問に答えるだけならイエスですけど」
内心、それはそうだろうな、と頷く。
俺も、風香の方が大事なだけで、イエスかノーの二択ならイエスだ。
傷付けてしまったのは間違い無いだろうし、その事に負い目も感じている。
自分で言っていた通り、風香には荷が重かったのだろう。それは仕方のない事でもある。
そうなれば、動くべきなのは自然と俺になるわけだが。
洗脳の二文字が過って、背筋が冷える。しかし、そんな事は今の俺には関係無かった。
「でも、私も先輩と同じ気持ちなんですよ。先輩の傷付くのは、見たくないんです」
「俺は今更そんな事で傷付いたりしない。立華さんの事は傷付いてるんじゃなくて、ただ気に病んでるだけだ」
「……それが嘘か本当か、分かれば良かったんですけどね」
「もし分かったら、これ以上止められはしないんだろうな」
スルリ、と嘯く。
この感覚は好きになれない。騙す事、欺く事にはやはり後ろめたさを覚える。
真綿のピアノ線に、心を締め付けられる。
何度も何度も繰り返してきたはずのそれに、もう慣れてもいい頃だろうと思っているのに、胸の奥が痛む。
本当はズタズタに傷付いているのに、それをおくびにも出さず、決して気取られないようにひた隠す。
嘘には慣れないくせに、痛みを我慢する事にはもう随分と慣れてしまった。
新たに増えた痛みは逆棘の槍のように突き刺さって抜けなさそうだが、刺さったままにしておけば出血は抑えられるのだ。
「そうですか。私には、そうは見えませんけど」
「その心は?」
「直感ですけど、先輩を動かしているものが、責任感だからです。自分がやりたい訳ではなくて、自分がやらなければいけないと思っているでしょう?」
中々に鋭い。
その直感は正鵠を射ている。そして半ば確信でそう放ったのだろう。妙な自信が透けて見えた。
しかし、詰めが甘い。
「いや、俺だって立華さんとは元の関係に戻りたいと思ってるぞ?」
「……嘘じゃないですね」
確かに今言った事は嘘ではないが、凝り固まった思考は、時に見落としを生む。
俺は原動力について何も言及していないのに、風香はそこに真偽を確かめてしまった。
図星を突かれたら嘘で誤魔化すというのはありがちだが、悪手だ。
突いた側の人間は、多くの場合その言い訳に嘘を見ようとするのだから。
本心だが少し論点の違う言葉というのが、正着だろう。なんなら、そこに気付かれたとしても障り無い。そして俺が今打った一手はそれだ。
事実、風香はその論点のズレに気付かず、指摘できなかった。
嘘か本当か、というのは穿った冷静な視点ではあるが、しかしそれだけでは不足なのだ。
俺が風香に対してイニシアティブを握れる要因の一つはこれだろう。
「……でも、無理はしないでくださいね」
「勿論。そんな心配はかけないから、安心してくれ」
「だから安心できないんですよ」
「……?」
「そんな、何を言ってるか分からない、みたいな顔をしてもダメです。少しくらい、心配させてください」
「それはまた、妙な頼みだな」
「先輩の事を考えて一喜一憂していたいんです。波が無さ過ぎて、逆に怖いです。もっと揺らしてほしいんです」
「……なんか面倒だ」
「面倒な女は嫌いですか?」
「もし面倒な女が嫌だったら、風香の事は好きになってないだろうな」
「先輩は物好きですね」
「それは俺のセリフだ。風香はなんで俺みたいなよく分からん奴を選んだんだか」
「……先輩が、凄く優しいからです」
「なんで怒りながら言うんだ?」
「そこが嫌いでもあります」
「うわぁ……面倒臭い」
「でも、好きなんですよね?」
「まあな」
そう返すと、風香が笑顔を浮かべた。
いつの間にか立華さんの話題からは随分と逸れて、うやむやになっていた。
若干の気恥ずかしさはあるものの、それが心地好くもある。そんなやり取り。
こんな時間が未来永劫続く事は無いと分かっているが、だからこそ、続けば良いと願ってしまう。
好きな人が笑っている事が、こんなにも心を安らげるとは思わなかった。
そして風香の笑顔をじっと眺めていると、ふとその表情が変わって、こちらを見る。
「……先輩?どうしました?」
「ん。あぁ、いや……風香が笑ってたのが可愛くて、つい。すまん」
「かわ……い、いえ、大丈夫です。嫌だった訳じゃないですし……でも、可愛いとか言うのはダメです」
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいだろ」
「う……し、仕方ないじゃないですか。慣れてないんですから……」
「それなら……こうか?」
言って、俺は風香の手を引いて駅前のロータリー前にある歩道橋の柱の陰まで連れ、思い切り抱き締める。
「ちょ、あ、え?せ、先輩……いきなり……」
「嫌か?」
「い、嫌じゃありません……。ちょっと暑いですけど、気持ち良いです……」
言いながら、風香はその華奢な体を俺に預けてくれる。
俺が腕の力を少し強くすると、風香も細い両腕を俺の背に回してきて、俺の胸元に顔を寄せたまま問う。
「ん……なんで、いきなり抱き締めたんですか……?」
「可愛いって言うと恥ずかしいなら、こうするしか無いだろ」
「そう、かもしれませんけど……」
「ちょっと強引だったか?」
「たまには、強引にされるのも悪くないです。それに、先輩に愛されてるって、こうしてると分かりますから」
「そうか」
「先輩、温かいです」
「暑いだろ」
「少し。でもこのまま少し離さないで居てください」
「あぁ」
沈黙が流れる。
金の沈黙。
駅前の広場には人通りが少なからずあったが、今は二人だけの時間だ。誰からも見られないような場所ではないが、同時に余り人目につく場所でもない。
喧騒が遠い。
家で感じるのとは質の違う静かさだ。
時計の針の音が大きく感じられるようなものではなく、そこらかしこから音が響いてくるのにそれを静かだと感じるような不思議な静寂。
音のある世界で、自分たちだけが世界から切り離されてしまったような感覚、とでも言うのだろうか。
それが心地好くて仕方ない。
風香も同じ様に感じているのだろうか。
空気はこんなにも蒸し暑いというのに、風香の体温になんとも言えない快さを感じて、俺は無意識に抱き締める力を少し強めていた。
不思議なものだ。
そんな事があるものかと思っていたが、恋が人を変えるというのも、強ち間違ってはいないのかもしれない。
そして、どれほど経ったか正確には分からないが、不意に風香が口を開いた。
「いつまで、こうしてるんですか……?」
その声はいつにも増して穏やかな調子で、やめて欲しいという訳ではないような気がする。
「ちょっと腕が疲れてきたけど、もう少しだけ」
「ん……」
――――――――――。
あの後、名残惜しさをおくびにも出そうとしない風香に倣って、俺と風香はそれぞれの家路についた。
そして、俺が家の前に着くと。
「澤木先輩。おかえりなさい」
「あぁ……ただいま?何か用か?」
立華さんがドアの前で出迎えてくれた。
何故居るのだろう。
俺の問いには頷くのみで返したが、何かについては黙秘を決め込んでいるし、あんな事のあった後なのだから軽い話ではないのだろう。
「……まあ、とりあえず上がっていくか?」
再び頷いて、訊きつつ鍵を開けていた俺に続く。
「あの、着替えて良いか?」
「大丈夫ですよ。それくらい待ちます」
「助かる。冷房、入れておいてくれ」
「はい」
俺は空調機のリモコンを渡すと、急いで自分の部屋に荷物を降ろし、着替えを済ませ、リビングで待つ立華さんに声をかける。
「待たせた」
「全然待ってないですよ」
「なら良かった。それで、話があるんだよな?」
「……ちょっと、心の準備ができてないです」
「……じゃあ、コーヒーでも淹れるか」
「お願いします」
サイフォンで淹れるくらいの時間があれば心の準備というのはできるだろうか。
できれば、俺が帰って来る前にしておいてほしかったが、いざ目の前にしてみたらできたつもりだったがダメになってしまったという事もある。
重要な話だ。そう急かすものではない。
あまり急がず準備して、二人分のカップにコーヒーを注ぐ。
ソファーに腰を下ろしながら訊いた。
「そろそろ、準備はできたか?」
「……はい。多分、大丈夫」
すぐ隣に腰かけた立華さんの瞳の奥には、強い意志の炎が灯っている。
その言葉通り、心の準備、或いは覚悟ができたのだろう。
俺はその決心に水を差さないよう、静かに立華さんの言葉を待った。
「……私、今日風香ちゃんに話しかけられました。先輩から聞きましたよ、って」
「あぁ」
「少し話をして、分かりました。風香ちゃん、澤木先輩の事大好きなんです。澤木先輩も風香ちゃんの事大好きですし、私の割り込む余地なんて無いのかなって」
俺は立華さんの赤い瞳の中に、寂しそうな色の浮かんだのを認める。
言葉を失った。
「私は、澤木先輩みたいに優しい人に会ったの初めてなんです。風香ちゃんも、同じくらい優しいですけど……でも、澤木先輩の優しいは、ちょっと特別なんです。なんだか、心がまるごと水底に沈んでいくみたいで、溶けちゃいそうになるんです」
「よく分からん」
「なんとなくそう感じたんです。それが、澤木先輩と居たいなって思った理由です。でも、ダメでした。私は澤木先輩みたいに器用じゃないので、せめて本当の気持ちでぶつかったんですけどね。嘘だって、思われたくなかったから」
「それは、分かってる」
「私の気持ちをぶつけられて、先輩の気持ちは、どうでしたか?」
ドクン。
心臓が異様な大きさで脈を打った。
立華さんの無邪気な問いかけが、葛藤を生む。
純粋さというのは、時に強力な武器になる。それは十分に理解していたが、ここまでの意味を持って俺を穿ったのはこれが初めてだった。
どう答えるべきなのだろうか。
欺けば、騙しきれる自信はある。一度偽ると決めてしまえば、俺の頭はすぐにでも切り替わるだろう。
しかし、心が大きく揺れた。
そして俺は。
「……絶対に、誰にも言わないって約束できるか?」
「……言わないだけなら。橘さんから隠しおおせる自信は無いです」
「それで十分だ。……正直なところを話すと、立華さんの気持ちは本当に嬉しかったよ。悪くないかも、とも思った。最低だけど、もし風香が居なかったら、受け容れてたと思う」
「……やっぱり、風香ちゃんと澤木先輩は」
「あぁ。ただこれだけは分かっておいて欲しいんだが断った理由は、風香と付き合ってるから、じゃない」
「澤木先輩は、意味をちゃんと分かって使い分けてる人ですから、そんな勘違いはしません。でも、だからこそ純粋に悔しいです」
「立華さんみたいな純粋で優しい子に想ってもらえるのは光栄だけど、俺は風香を支えてあげたいと思ってる。だから改めて、ごめんな」
「……澤木先輩みたいに、優しくありませんよ。でも、ありがとうございます」
「……今、感謝される要素あったか?」
「ちゃんと断ってくれたので。受け止めて、考えてくれてたって思ったら、安心して。一昨日は、澤木先輩の気持ちが分からなかったので、もやもやしてたんです。なんとなく、ありがとう、です」
「……どういたしまして」
若干の違和感はあるものの、立華さんの笑顔を見れば真っ直ぐ向き合って良かったと思える。
実は内心どんな謗りを受けるかとビクビクしていたし、どんな言葉でなじられる事も覚悟していたのだが、それは杞憂だったらしい。
一通り話が落ち着いたと見た俺は、置いたままになっていたコーヒーカップを傾ける。立華さんもそれに続いた。
そして立華さんがふっと目を見開いて、それから一瞬だけ眉を顰める。気付かれないようにと、すぐに取り繕っていたが。
俺はすぐに立ち上がって、牛乳を電子レンジで温めて立華さんに差し出す。
「砂糖は?」
「……気付いたんですか?」
「レミニスで最初に会った時もブラックじゃなかったし、ちょっとだけ顔に出てたからな」
「その観察眼が恨めしいです。あと、砂糖は大丈夫です」
言いながら、コーヒーにそっと牛乳を注ぐ立華さん。
ゆるりと、その色が変わっていく。
それを見つめる赤い瞳は、どこか穏やかで。
「澤木先輩」
「ん?」
「ちょっとだけ、泣いて良いですか?」
「……俺は、どうしたらいい?」
すると、横から俺の肩に頭を傾けてきた。
電車で同じ事をされると困るが、今は全く困る要素がない。
俺は、背中から手を回して立華さんの肩を抱く。
それ以上は、俺にはできない。やってはいけないと思った。
突き詰めるなら、こうして二人きりになっているというだけでも余り褒められた事ではないが。
それでも俺に立華さんを放っておくという選択肢は無かった。俺は年下に弱いのだ。
「……いいなぁ」
立華さんが、震えた声でそう呟いた。
ここでないどこか遠くへ向けて紡がれたその言葉は、桜の花びらが落ちるようだった。全くの季節外れだが。
「こんな優しさを貰えるなんて、風香ちゃんは幸せだろうなぁ……」
俺は何も言えずに居る。ただ立華さんが少しだけ預けてくる体重と、細く弱々しい涙声を受け止める事しかできない。
どんな言葉も、今の俺がかけてしまえばひどく余所余所しいものにしかならないだろうから。
けれど、立華さんはそんな俺を優しいと言ってくれる。
それが本心なら、ただ寄り添っているだけで優しさになるというなら、立華さんの言っていた、幸せになれる予感がしする、というのも彼女自身にとっては本当の事だったのだろう。
俺は、特別誰かに甘い訳でも、優しい訳でもない。俺はただ最も自分らしい選択肢を取っているだけで。
それはつまり、自分が気持ち良いか、心地好いか、或いは他の何でも同じことだが、自分に一番利するものを選んでいるという事で。
それが幸せにつながるというのなら、確かにそれは予感もしたっておかしくはないのかもしれない。
「……私、澤木先輩に出会うまでは、幸せになれるなんて考えもしませんでした。ちょっと、想像できなかったです。家族は、私の事ちゃんと知ってくれてて、分かってくれてて。橘さんのところに行くと、痛かった事も嫌だった事も、なんでも話せて。それで十分以上に幸せで、それ以上の事なんて無いって思ってたんです」
温かい場所。立華さんにとってはそれは家と、レミニスだった。それは暗に、学校に居場所は無かったという意味でもある。
立華さんがどれほど冷たい世界で生きてきたのか、俺は知る由も無いが、そんな状況で誰かに想ってもらえるなんて事は全く信じられない事だっただろうことはよく分かった。
血の繋がりは多少人を優しくする。内面で人を判断できるようになるのに充分の理由だ。
また、少しの会話で相手の内面までを見抜いてしまうマスターのような人も、多くはないが居る。そういうタイプの人間は、得てして気遣いの人間だ。
けれど、そういう人間から貰える好意とか厚意というのは、やはりどうしても他人行儀な様に感じてしまう。
それがたとえ救いになっていたとしても、余所行き用の優しさが心を開く理由には決してなり得ない。
とはいえ、俺がその枠でなかったというのは、少々意外だったが。
そして。
「……恨むか?」
ありもしない可能性を見せてしまった事を。
叶うことのない希望を与えてしまった事を。
俺はそんな勘違いをさせたかった訳ではないのだが、結果は結果だ。
「恨みますよ。当然です。でも……嫌いには、絶対なれないです。だって、澤木先輩、優し過ぎるから……っ!」
いつもの柔らかい声色と調子はそのままに、しかし激流のような感情を伴って放たれた言葉からは、その穏やかな声量とはかけ離れた叫び声のような印象を受ける。
雷が落ちたような衝撃が俺を襲った。
「……そうか。ごめんな。中途半端にして、本当に」
「……別に、謝ってほしい訳じゃありません。そんな事されても、困ります。だって、澤木先輩の心は、ここには無いじゃないですか」
「……そうだな」
それは尤もな指摘だった。
立華さんの、予感が当たる、というのは強ち間違いではないのかもしれない。
その事は顔に出していなかったし、勿論言葉にもしていない。
今だけは立華さんの隣に居る、そういう形を取っていたし、決して嘘ではない。それが十中幾つまで本当だったかという事を抜きにすれば。
そこに気付いた理由は、予感だと考えるとしっくりくるものがあった。
「これでも私、澤木先輩に出会えて良かったって、心の底から思ってます。風香ちゃんに負けちゃったのが、こんなに悔しいから……だから、出会えた事は、幸運だったんです」
俺は、そんな考え方ができるだろうか。
できたとして、それは俺の本心だろうか。
幾つも考える可能性の中の一つとしてだけあるそれを、俺は本心にできるだろうか。
幸せを自ら手放さなければならない時、諦めなければならない時、前向きに考える。俺にはそういう態度や言葉を取り繕う事くらいしかできないのではないだろうか。
立華さんは言う。
「なので、ありがとうございます」
その声は、それでもやはり震えていて、寂しげなものだった。
「私は」
そう繋ごうとした言葉を、俺は遮る。
「立華さんは、俺と風香の邪魔をしないように、なんて思ってるかもしれないけど、俺は邪魔だなんて全く思ってない。それに風香も、立華さんが戻ってきてくれないと寂しがるんだ。出会えて良かったと思うなら、これからも仲良くしてくれると嬉しい」
「……卑怯です。そんなの、嫌だって言えません」
「立華さんは優しいからな」
「澤木先輩には、敵いません」
それから会話は続かなかったが、金の沈黙は雄弁にその意味を語っていた。
ふと横目に見てみると、季節外れの雪原に、炎が雫となって揺らめいていた。




