二人の天才
「……やってくれたな、斉彬殿」
背後からかけられた低く落ち着いた声に、俺は静かに振り返った。編み笠を深めにかぶった男がそこに立っていた。
数人の供回りを連れただけの老中首座・阿部正弘その人だった。
品川沖の大騒動を聞きつけるや、役人どもの報告を待たず、自ら駕籠を走らせて俺を追ってきたのだろう。実に耳が早く、決断も鮮やかな男である。
「これは阿部閣老。わざわざお越しいただけるとは」
「白々しいことを言うな。江戸中が大騒ぎだぞ」
阿部はその若き聡明な瞳を細め、海に浮かぶ黒鉄の巨躯を見つめた。
「素晴らしい船だな。風に頼らず、煙を吐いて海を疾走するか……。阿呆どもは『薩摩の反乱の兆しか』などと青ざめておるが……お主が見据えているのは、江戸などではなく……その先か?」
「さすがは阿部殿、お察しが早い」
俺は微かに笑み、まっすぐに阿部を見つめ返した。
「海向こうの技術は、我々の想像を遥かに超えて進んでいる。近いうちに必ず、異国の巨大な黒船がこの日本を脅しにやってくるだろう……その時、幕府にこの国を護れる力はあるとお思いか?」
「……酷な問いを投げるな」
阿部は苦笑しつつも、その表情は憂いをたたえている。
「護れぬな……到底、今の幕府では太刀打ちできん。だが、斉彬殿。お主の作ったあの船があれば
「船一つでは足りぬのだ、阿部殿」
俺は阿部の言葉を遮り、続ける。
「薩摩だけが強くなっても意味はないのだ。今、必要なのは、日本という国家全体の『根底からの底上げ』だ。列強が一口も噛みつけぬほど、強靭な工業国家に仕立て上げねばならん」
「日本全体を……」
「そうだ。我が薩摩が血の滲む思いで作り上げた『標準旋盤』の設計図と、0.01ミリ単位の『ミリ規格』を、幕府にも、江戸の町工場にも、長州や土佐などの諸藩にも、すべて無償で開放する」
その言葉に、阿部は目を見開いた。
大名が自藩の秘術を他藩や幕府に無償で与えるなど、徳川二百五十年の歴史で前代未聞である。
「斉彬殿……正気か? 薩摩の圧倒的な優位を捨てるというのか」
「幕府だ薩摩だと内輪揉めをしている暇はないのだ、阿部殿。小さな『藩』という垣根に囚われ、互いに足を引っ張り合っていては、この国はあっという間に列強の食い物にされるぞ! いま必要なのは、徳川のためでも薩摩のためでもない【日ノ本という一つの国家】として立つ覚悟だ!」
俺は阿部正弘を真っ直ぐに見据えた。
静寂が御殿山の高台を包み込んだ。
波の音と、はるか遠く品川沖から届く熱狂の歓声だけが響いている。海風が着物を揺らす。
阿部は目を見開いたまま固まっていたが、やがてその身を震わせ笑い出した。
「……ハハハッ!!まったく、お主と話していると幕府の老中をやっているのが阿呆らしくなるな! 幕府の老害どもが目先の利権にしがみついている間に、お主はそこまで遠い未来を見据えておるのか!」
阿部は笑いを収めると、着物の袖で目元をぐっと拭い、爛々と輝く瞳で俺を見つめ返した。
「いいだろう。徳川二百五十年の太平の眠り、この阿部正弘が叩き起こして見せよう! お主の言う『みり規格』も『標準旋盤』も、幕府の公式な命として全国の諸藩へ通達する。保守派の老害どもが何を抜かそうと、私がすべて跳ね返してやろうじゃないか!」
阿部は力強く俺の腕を掴んだ。
「斉彬殿。日本の舵取り、お主の指し示す『未来』へと切ろうではないか」
「貴殿のご理解とご英断に深く感謝します。決して後悔はさせませぬ」
幕府の権力者と薩摩の異端児。
二人の天才が手を組んだこの瞬間、日本の歴史は「幕末の混乱」を飛び越え「国家ぐるみの超・産業革命」へと一気に走り出したのだった。




