品川沖の黒薩摩
嘉永五年(1852年)晩秋
江戸のお膝元・品川沖の海上に、突如として「異変」が巻き起こった。
「おい、なんだあれ……房総の方からでけえ巨大なもんが向かって来てるぞ!!」
「おいおい。船のてっぺんから真っ黒い煙を吐いてやがる、火事か? 船が燃えてんのか?」
「馬鹿言え! 帆も張ってねぇのに、風に逆らって進んで来てんだぞ。ありゃあ物の怪だ!!」
品川宿の海岸沿いは、一瞬で混乱に陥った。
旅人も、居酒屋の客も、魚売りも、着物の裾を端折って海岸へ大殺到する。
評判を聞きつけた江戸市中からも「浦賀の方から煙を吐く化け物船がやってきた」と噂が爆風のように駆け巡り、屋形船や小舟を出して海へ繰り出す物好きで、品川沖はごった返しとなった。
だが——その巨大な黒い船が品川沖に静かに錨を下ろした瞬間、人々の声は一転して「どよめき」へと変わった。
船上に掲げられていたのは。
鮮やかな朱色の『丸に十の字(島津家紋)』と、太陽を象った白地に赤の『日の丸』だった。
「あ、あれを見ろ! 丸に十の字だ!」
「薩摩の、島津の殿様の御紋じゃねえか!」
その瞬間、品川の海岸線から割れんばかりの歓声が巻き起こった。
「本当かよ、おい!薩摩の殿様はあんな凄えもん作ったのかよ!?」
「てやんでぇ! 異国の独壇場だと思ってたら、薩摩の殿様がとんでもねぇ絡繰り船をこしらえやがったぞ!」
「粋じゃねえか……! 煤けて真っ黒な船体が、まるで黒鉄の城よ!」
甲板には、びしっと揃いの羽織を着た薩摩藩士たちと、誇らしげに胸を張る職人たちの姿があった。
斉彬の計らいにより、見学の小舟を近づける許可が出ると、江戸っ子たちの興奮は最高潮に達した。
「おーいあんたら!! その煙突の下はどうなってんだ!? 中で火鉢でも焚いてんのか!?」
「違うねぇ、お江戸の旦那! 中にでっかい鉄のシリンダーが入っててよ! 水を沸かした蒸気の力で車輪を回してんだよ!」
「じ、蒸気ぃ!? 湯気でこんなでかい鉄の船が動くかい!! 薩摩の職人は妖術使いかよ!!」
職人が船の蒸気笛の縄を引くと——
ブォォォォォォォォンッ!!!!
お腹に響くような凄まじい大音量の蒸気笛が品川沖に響き渡った。
「うおわぁぁぁっっ!! 船が吠えたぞーっ!!」
「すげぇ! すげぇよ薩摩の殿様!!」
「こいつはたまげた! 異国の奴らが攻めてきても、この黒船で一蹴りにしてやれるぜ!!」
江戸っ子たちは手を叩き、飛び跳ね、まるで祭りのような大騒ぎだ。
「天下の幕府は何やってんだい」「薩摩の斉彬様こそ日本一のお殿様だよ!」と、庶民の興奮は瞬く間に江戸城下全域へ広がっていった。
品川沖を見下ろす御殿山。
人集まりの喧騒から少し離れた高台で、俺は西郷を連れて海に浮かぶ我が『第一薩摩丸』を見下ろしていた。
「お館様……見渡す限り、江戸の庶民が歓喜の声を上げております。幕府の役人どもは『薩摩が勝手に軍艦を作った』と腰を抜かして狼狽しておりますが……庶民の心は完全に我らにございますな」
西郷が興奮を抑えきれない様子で語りかけてくる。
「ふっ……幕府が難癖をつけようと、江戸の民がこれだけ喝采を上げているのだ。もはや誰にもこの流れは止められん」
俺は不敵に微笑み、太平洋の彼方へと視線を向けた。
(史実のペリー来航まで、あと一年と数ヶ月……。アメリカ艦隊『黒船』が砲艦外交で日本にやってきた時、江戸の民がどんな反応をするか楽しみだ)




