ジョン万次郎の感涙
集成館の建設準備を進める最中、待ちに待った知らせが届いた。
「殿、琉球より引き渡されました漂流民三名、薩摩へ到着いたしました。これより長崎奉行所へ送る前の取り調べを行います」
「……来たか。吉之助、取り調べの必要はない。私が直接会おう」
「えっ、お館様自らにございますか?」
報告に訪れた西郷が目を丸くするも構わない。
(よし、史実通りだ……! 嘉永四年(1851年)アメリカから生還したジョン万次郎一行。本来なら幕府の法に従い、長崎奉行所へ送り届けるのが筋だが——史実の万次郎は長崎で数ヶ月間も咎人のように拘束され、取り調べという名の冷遇を受ける。そんな愚で、この至高の頭脳を無駄にしてたまるか!)
歴史オタクの知識が激しく叫ぶ。
ジョン万次郎(中濱万次郎)——太平洋の真っ只中で漂流し、アメリカの捕鯨船に救われて渡米。最新の測量術、航海術、造船技術、そして英語を極めたこの時代の超一級の技術者だ。
史実では異国に染まった者として危険視され、長崎で無駄な尋問に晒されることになるが、自分がここにいる以上絶対にそんな真似はさせない。
「吉之助、長崎への移送手続きは進めよ。……ただし、引き渡しまでの期限を引き伸ばし、形式だけのものとせよ」
「はい……? 引き伸ばすのですか?」
「そうだ。長崎へ身柄を渡すまでの間、あの方を我が薩摩の『極秘教授方』として召し抱える。あの方の持つ異国の知恵を最大限に活用するのだ」
「し、しかし殿……! 幕府や長崎奉行所から『なぜ速やかに処分を下さぬ』と詰問された場合、いかがなさいますか!?」
吉之助が懸念するのも無理はない。幕府の定めた法を公然と引き延ばすのは、下手をすれば謀反の疑いをかけられかねないからだ。
だが、俺は不敵に笑ってみせた。
「なに、案ずるな。そう遠くない間に、我が薩摩は誰も文句を言えぬほどに強く、豊かになる。巨大な大砲を揃え、最新の技術で国力を固めてしまえば……幕府の役人どもが何をほざこうが力でねじ伏せられるわ」
「な……っ!? 力で!!」
「そうだ。幕府がくだらん難癖をつけてくる頃には、薩摩の力を前にぐうの音も出ぬようになっとるだろう」
「ははっ! 」
その日の夕刻。城内の一室。
異国帰りの潜入者として罪人扱いされることを覚悟していた漂流民——五右衛門、伝助、そして万次郎の三名は、目の前に現れたのが薩摩藩主・島津斉彬その人であり、しかも豪華なご馳走が整然と並べられていることに激しく狼狽していた。
「……!? 某どものような漂流民に、なぜこのような手厚いもてなしを……」
五右衛門が声を震わせる。
「うむ。三人ともまずは腹を満たせ。話はそれからだ」
俺は温かい眼差しで彼らを促した。おずおずと箸を伸ばし、温かい料理を口にした三人の目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
無我夢中で飯を平らげた三人に静かに告げる。
「長きに渡る苦難をよくぞ耐えて生き抜いてくれた。……時に三人とも、命懸けでこの国へ戻ってきたのだ。これから先、どのように生きていきたいか、思いを話してみよ」
俺が問いかけると、五右衛門、伝助は迷わず畳に額をこすりつけた。
「殿様……っ! 某どもはただ、もう一度日本の土を踏み、土佐の家族に会いたい一心で戻ってまいりました!」
「 故郷へっ、故郷へ帰りとうございます……!」
「うむ、そうだな。故郷へ帰りたかろう。安心いたせ。お前たちが望む通り土佐へ帰れるよう、私から幕府と土佐藩へ手を回し、途中の路銀も十分に遣わそう」
「ひっ……! ありがたき幸せにございます……! 殿様、ありがたき幸せに……っ!!」
ボロボロと感涙を流し、何度も頭を下げるふたり。
……だが、その横で万次郎だけが、固く口を結んだまま俯いていた。
アメリカという先進国で高い教養と技術を身につけた万次郎。だが、当時の日本において「異国を知りすぎた者」がどのような扱いを受けるか、彼は誰よりも理解していた。故郷に帰りたい気持ちはある。しかし、自分は果たしてこの国で生きていけるのか——その未来を描けず、激しい躊躇いがその瞳に影を落としていたのだ。
俺はその葛藤を一目で見抜き、静かに頷いた。
「五右衛門、伝助。長旅で疲れたであろう。別室にて体を休めるがよい」
感謝の言葉を繰り返す二人を先に退室させると、部屋には俺と万次郎、そして西郷の三人だけが取り残された。
「……万次郎。二人と違って、答えを躊躇ったな」
「……っ」
万次郎が息をのんで顔を上げる。
「無理もない。異国で学び、世界を見たからこそ、この閉ざされた日本で自分がどう扱われるか、恐れと迷いがあるのだろう」
「殿……某は、ただ……」
「万次郎。お前が太平洋の波に揉まれ、アメリカという異国でどれほどの苦難を舐め、そしてどれほど先進の『理(科学)』と『技術』を学んできたか、私はよく知っている。お前が持ち帰った航海術、測量術、そして蒸気船や製鉄の知識……それらは罪などではない。この日本が列強の侵略から身を守るための『至高の宝』だ」
俺が心からの理解と期待を述べると、万次郎の瞳から溢れ出た涙が畳を濡らした。
自分の存在価値を理解し、救い出してくれる人物が目の前にいる。長年抱えてきた心の孤独と恐怖が、一気に溶けていく瞬間だった。
「万次郎、教えてくれ。向こうの街はどうであった? 噂通り、鉄の船が煙を吐いて海を走っておったか?」
「は、はい……! アメリカの蒸気船は山のように大きく、海を飛ぶように進みます! 街には『電信』という一瞬で遠くへ声を伝えるカラクリがあり、鉄の道を走る『蒸気機関車』が人や物を大量に運んでおります……!」
身を乗り出すように熱っぽく語る万次郎の言葉に、俺は深く頷いた。2026年の記憶で知ってはいるが、実際にそれを見て学んできた人間の生の声には圧倒的な熱量がある。
「万次郎よ。この薩摩で『極秘教授方』として私に仕えてはくれぬか。相応の扶持も与えよう。お前の知るアメリカの技術、そして『英語』を、我が藩の若い者たちに授けてほしいのだ。異国と対等に渡り合うにはお前の力が必要だ」
「っ……! い、命に代えても殿の御期待に応え、知る限りのすべてを伝授いたしまする!!」
「うむ。頼りにしておる」
万次郎との対話を終えたその日の夜。
(万次郎という最高の『教官』は手に入った。だが、彼一人に辞書や教材を一から作らせるのは時間がかかりすぎる。ここは能力でサポートだ)
俺は文机の引き出しから対価となる美術品を取り出し、静かに『等価万有工房』を発動させた。
(能力発動——対価:薩摩焼の茶碗十対、および金二両。対象:19世紀半ばの英和・和英大辞典の精密復刻本、および実用的な英語文法指導書を十冊ずつ)
十対の茶碗が消え、代わりにズッシリとした辞書の山が現れた。
(よし……これを万次郎と若手藩士たちに与える。万次郎の生きた英語と、この辞書たちがあれば、薩摩の英語修得スピードは爆発的に跳ね上がるぞ!)




