吉田松陰の敗北
ふと通りのど真ん中、行き交う町人たちに呆れ顔で避けられている事に気づく。思考が追いつかぬまま、松陰はふらふらと歩き出した。
どこへ向かうという宛てもなく、人の流れに逆らわぬまま大通りを外れ、脇の横丁へと折れていく。
賑やかな喧騒が少し遠のき、人足の切れかけた通りを足元もおぼつかなくただ歩く。
突如として視界が開けた。かつては広大な武家屋敷であったろう区画に、真新しい白壁の巨大な建物が現れた。
門前に掲げられた大看板には、力強い字体でこう記されていた。
『公儀指定 養生回復所』
「養生、回復所? これは一体……」
思わず、格子越しに見える広々とした中庭を覗き込む。すると、なんとも奇妙な光景が繰り広げられている。
陽光の差し込む庭で、揃いの白い服を着た者たちの掛け声と共に、痩せ衰えた男たちが、並木に沿って設置された平行棒を掴み、黙々と歩いている。
「焦らずともよい。負荷を均等にかけながら筋肉を呼び覚ますのが大事なのだ」
「へい、おかげさまで自分の足で立てるようになりました」
身を乗り出しまじまじと見つめる松陰に、通りがかりの隠居風の老人が誇らしげに目を細めて話しかけてきた。
「へへ、お侍様、すごいでしょう。そこが何だったか気になりますかい?」
「あ、いや……うむ。これは一体、何をしているのだ?」
松陰が尋ねると、老人は待っていましたとばかりに胸を張り、邸宅の奥を指さした。
「ここはね、冤罪をでっち上げて私腹を肥やした、悪徳老中の屋敷跡でさぁ。上様がそいつを暴き、公儀の監察で無実を証明したうえで、ああして牢屋で弱った身体まで治してくださってるんだ」
老人は感慨深げに頷きながら言葉を続けた。
「あの悪徳老中の屋敷が、今じゃ人を救う場所に生まれ変わったのさ。本当にありがたいことだよ」
松陰の背筋を冷や汗が伝う。立ち竦む松陰の耳に不意に、澄んだ笑い声と金属の乾いた摩擦音が飛び込んできた。
通りを挟んだ向かい、真新しい赤煉瓦造りの建築。看板には『公儀女子技芸伝習所』と掲げられている。
ちょうどその重厚な門から、手に手に厚い図面や金属製の物差し、見たこともない目盛り付きの定規を抱えた十数人の若い女性たちがぞろぞろと出てくるところであった。
「三工区の回路調整、誤差が零点二まで下がったわ。これなら明日のダイヤ改正にも間に合うわね」
「技芸所の講義で習った計算尺、本当に役に立つわ。以前なら三日かかった計算が、半日で終わってしまうんですもの」
かいろ? だいやかいせい? けいさんじゃく?尺?
彼女たちが身に纏っているのは、良家の娘が着るような華美な振袖ではない。動きやすさを重視した筒袖の袴姿に、髪はすっきりと一つに束ねられている。
専門用語を軽やかに交わし合いながら、自負と充実感に満ち溢れた表情で去っていく。
「お、あれは」
通りを歩く職人風の男たちが、嫌味でもなく、頼もしそうな目で彼女たちを見送りながら囁き合っている。
「公儀の技芸所の女子衆か。今じゃ電信局でも鉄軌道の計算部屋でも、あの娘たちがいねぇと現場が回らねぇって話だぜ」
「うちの娘も来月からあそこに通うんだよ。良縁を待つより、お上から技芸の手当をもらう方がよっぽど胸を張って生きられるってな」
松陰の喉の奥がからからに乾いていく。
儒教の教えが骨組みとなっている武家社会において、女性は家に縛られる存在で、表舞台に出てくることなど極々稀であった。
それがどうだ。将軍・家定の主導する今、既に性別の壁すらもあっさりと越えていたのだ。
「女たちが……公儀の基幹技術を支えているというのか……」
あらゆる人間が適材適所で組み込まれ、巨大なからくりの歯車のように機能している。
そこには身分も家格も性別もない。あるのはただ、恐ろしいほどに無駄のない、新時代の国家の姿であった。
松陰は目眩を覚え、かろうじて近くの壁に手を突いて身体を支えた。




