吉田松陰と開かれた将軍
品川乗降場に降り立った松陰を待ち受けていたのは、熱気と活気に満ちあふれた江戸の町であった。
街道の玄関口に過ぎない品川で、すでにこの人波と熱量である。
「品川でこれほどの賑わいとは……日本橋や城下はいかなる事態になっているのだ」
松陰が息を呑みながら人波に足を踏み入れると、威勢の良い声が飛び交っていた。
「さあさあ寄っていきな! 上様のお墨付き、美味くて栄養満点の養生肉鍋だよ! ひと鍋突っ込めば活力が湧き上がっちまうよ!」
軒先で調子よく声を張り上げる売り子の呼び込み。
それに誘われるように次々と店へ吸い込まれていく人々。
かつては殺生や穢れとして禁止され、表向きは病人の薬代わりとしてしか食べられなかった肉や卵を、将軍・家定が自らの病苦を克服した滋養の食養生として大々的に奨励したことで、江戸の街には空前の肉食熱が巻き起こっていた。
売り子の声を背に、松陰は人混みをぬってしばらく歩を進めた。至るところに人だかりができている店がある。その一つ、客たちがこぞって買い求めている紙片に目が留まる。
店先に並べられた木棚には、同じ紙片の束が何十枚と美しく積み上げられていて、その前に木札が掲げられていた。
『公儀許諾 上様御真影 一銭五厘』
「う、上様……? これが、将軍様の御顔だというのか……!?」
紙片に描かれた一人の男の面容。
筆の刷毛目などない滑らかな紙の上で、庭園を背に穏やかな眼差しの人物。凛とした気品と親しみやすさが同居するその様が、異様なほど鮮明に焼き付けられていた。
あまりの困惑に松陰は人波を押し分け、血相を変えて店頭の店員に詰め寄った。
「公儀の首長たる将軍職の御顔をこれほど鮮明に描き、あまつさえ見世物のごとく市井に売りさばくなど……! これほどの暴挙、お上のお咎めが恐ろしくはないのか!?」
突如として掴みかからんばかりの勢いで胸元に迫られ、店員は一瞬驚いた顔を見せたが、松陰の着の身着のままの旅装束を見ると、合点がいったように苦笑いを浮かべた。
「お侍様、お戯れを。そこに『公儀許諾』と書いてありましょう? お咎めどころか、これは上様ご自身の御決断でありまして」
店員は肩をすくめながら、棚の木札を指さして説明を続けた。
「恐らくは遠方からのお越しでお知りになかったのでしょうが……確かにかつてならお上の御姿を売り出すなんて即、打首でございます。しかし今、時代は変わっておりまして。上様は開かれたお上にする、と。姿を隠しているような不透明さでは、民の心は遠いと仰られて」
そう言うと、店員は棚から一枚の紙片を手に取り、松陰の前に差し出した。
「それに、これは絵具で描いた絵ではなく写真といいまして。光を使ってそのまんまを写し取っております。ご覧ください、見事に病を克服されたこの健やかな御姿を! 素晴らしい!これを神棚に祀って家族の無病息災を願うのが、今じゃ江戸っ子の粋ってやつでさぁ!」
「上様、自ら……」
松陰は言葉を失った。
技術もさることながら、雲の上に身を隠し威圧感で恐れ崇めさせる旧来の統治ではなく、自ら姿を現して民の心を掴む新たな治世。
武家社会の規範すら、家定の強力な主導権によって親近感と崇敬という広報戦略へと塗り替えられている。
ふと行き交う若者たちに目をやれば、皆が揃って首に粋な手拭いを巻いている。それらや半纏の背、袖口には、家定の御名や病を克服した快気にあやかったであろう『定』や『勝』の字を太く幾何学模様に崩した紋が誇らしげに染め抜かれていた。
かつて噂されていた将軍像とのあまりの乖離に、松陰の胸の動悸は激しさを増していった。
なんちゃって歴史ですので、相当好きに書いております




