吉田松陰の開眼前夜
「……これは」
長州藩士・吉田松陰は、文机に広げた江戸の知人からの書簡を食い入るように見つめた。
そこに書かれていたの俄には信じ難い「公儀の自浄」の報であった。
確かにここ数ヶ月「上様が奇跡的な快復を遂げられ、お姿をあらわされた」という噂が長州でも流れてはいた。だが聞いた者すべてが「幕府の権威付けのための虚飾だ」と鼻で笑っていた。
しかし今、信頼できる筋からの手紙が、それを真っ向から打ち砕く事実を告げていた。
曰く、江戸城の白洲にて、長年民を苦しめ私腹を肥やしてきた老中が罷免され、その配下の悪徳旗本や代官たちが、将軍・家定公みずからの手によって完膚なきまでに糾弾されたというのだ。
家定公は言い逃れのできぬ確かな証拠を突きつけ、罪の重い者を即座に全財産没収・厳罰に処した。
さらに、軽微な不正に手を染めていた末端の役人たちに対しては、御自らこう言い放ったという。
『今回は不問に伏す。だが次はない。命が惜しくば、その命尽きるまで民のために励め』
己の罪に震えていた役人たちは今、死に物狂いで清廉な実務に励むようになったという。
「なんと理にかなった冷徹にして賢明な手綱裁きか!全滅させて行政を停滞させるにあらず、民のために働かせるとは……」
松陰は胸の奥から湧き上がる激しい動悸を抑えきれずにいた。
長州で誰もが信じ込んでいた病弱で愚鈍な将軍という像が、音を立てて崩れていく。そうなると噂に聞く産業の開花も、不夜城と化す江戸の街も、すべて真実なのかもしれない。
「……この目で見たい。江戸で、横須賀で一体何が起きているのかを!」
想いを持て余し、居ても立ってもいられず悶々とすること数日。
「おるか。藩庁より達しだ」
自ら事実を確かめたくて身を焦がしていた松陰のもとへ、思いもよらぬ命が届く。
「公儀からの要請に応じ、我が藩からも正式に技術留学生を江戸、ならびに横須賀へ派することとなった。……吉田、お前に行ってもらう」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、松陰の眼光が爛々と怪しいまでの輝きを放った。座していた膝を前へと乗り出し、身を乗り出す。
「望むところにございます! 留学生として江戸・横須賀へ参り、この目で幕府の、そして上様の真意を確かめてまいります! すぐに発つお許しを!」
一刻の猶予も惜しむかのように、松陰は即座に立ち上がった。長州の片隅で燻ぶっていた情熱の火が、一気に燃え上がった瞬間であった。
長州・萩を発ち、下関の港から公儀の高速船で瀬戸内海を渡り、大阪の乗降場で東海道へ繋がる磁気軌道車へと乗り換える——そこまでに要した刻は、わずか四日であった。
黒鉄の軌道上に浮かぶ細長い車体。大量の煙もなければ、爆音もない。乗り込んで座席に腰を下ろすと滑らかに、静かに車体が加速を始めた。
「これが磁力の力……かつて一月を要した江戸への道のりを、わずか数刻に縮めるというのか」
窓の外を飛ぶように流れていく景色を前に、松陰は息をのむ。しかし、それよりも松陰の目を奪ったのは、これがすでに人々の当たり前として溶け込んでいる光景であった。
車内を見渡せば、物珍しさに目を丸くしているのは自分のような地方人くらいのものだった。
傍らでは、行商人たちが商品を入れた木箱を足元に談笑し、向かいの席では小奇麗な揃いの着物を着た若い女性たちが、図面を広げてなにやら熱心に語り合っていた。
更にほんの瞬きする間に通り過ぎる沿線のあちこちで、新しい建物の足場が組まれ、大勢の人間が立ち動いている。
畑仕事の手を休めた農民たちが、疾走する磁気軌道車を見上げて朗らかに手を振っている。かつてのような暗く疲弊した表情ではない。
誰も彼もが新時代の活力を謳歌し、国全体がまるで巨大な命を得て力強く鼓動しているかのようであった。
幕府は旧態依然として民を苦しめる存在と信じ込んでいた松陰の固定観念が揺らいでいく。
松陰は胸の奥で激しく打つ鼓動を感じながら、流れる車窓の先、江戸の空をじっと見据えた。




