第13代将軍、徳川家定の独白
「上様、本日のお食事でございます」
膳に並ぶのは、白粥に薄味の吸い物、そして小さく切られた煮野菜。
毒にも薬にもならぬ、味も素っ気もない膳だ。
周りの重臣どもは、表面上こそ平伏し恭しく仕えてはいる。だが、余が何かしら案を巡らせ、少しでも行動に移そうとすれば絶妙な間合いで「上様のお体に障りますゆえ、政の儀は我らにお任せを」と引き取り、言葉を遮る。
幼き頃より書物を紐解き、歴史や軍学、海外の情勢に至るまで、知識だけは人一倍蓄えてきた。だが、この病弱で思い通りにならぬ身体にそれらは何の役にも立たない。
重臣たちの瞳の奥に灯る「やはりこの病弱さでは……」という落胆と侮蔑の色。誰一人として声には出さぬ。だが、その恭しい態度の中に透けて見える冷ややかな視線を分からぬはずがない。
世を正す力も、国を導く術もない。
どうせ三十も過ぎれば、この細い糸のような命も尽きるのだろう。全てを諦めていた。将軍という名の、豪華な籠の中で死を待つだけの人生なのだと。
あの男が、余の前に現れるまでは。
「上様、聞きましたぞ。本日のお食事も半分以上を残されたとか。それでは体力もつきませぬ」
日ノ本公儀技術総括、島津阿波守斉彬。
老中どもが余を外した天下の政を語り合う中、この男だけは定期的に参上した。そしてその度に、側仕えから余の食事量や歩数を事細かに聞き出し、事もあろうに余の「献立」と「足腰」に口を挟んでくるのだ。
「またか、斉彬。余の体質は生まれつきのものだ。医者も養生せよと言っておる」
「その医者の養生が、上様の生き血を吸い取っておるのです!」
畳に深く頭を下げながらも、語気には一切の妥協がない。
「どうか肉をお召し上がりくだされ。養生のための『薬喰い』にございます! 濃い味噌でしっかりと煮込んだ豚や牡丹肉、熱を入れた卵を食すのです。しっかり脂と血肉をたくわえねば、天下の重圧を支えられるはずがございませぬ!」
「む、……武家の面目というものがある。表向き穢れとされるものを将軍が食すなど……」
「面目などと生ぬるいことを! 滋養強壮の薬として肉を食すは、昔からの知恵にございます。上様が早死にされれば、それこそ幕府の面目が丸潰れでございますぞ! それから何度も申しますが、運動にございます。お廊下を歩く際、ほんの少しでよいゆえ、すっすっと早歩きをなさるのです。息が弾むくらいからはじめましょうぞ」
毎回、毎回、耳にたこができるほどやかましい。
周りにいる誰もが、表向きは腫れ物に触るように扱いながら、裏では「なんと病弱なことよ」と鼻で笑い軽んじているというのに、この男だけは本気で余を叱りつけ、本気で余の命を繋ごうとしている。
「斉彬……余は、何も為せぬ病弱な愚者なのだぞ」
思わず自嘲の言葉が漏れた。だが、斉彬は顔を上げ、その鋭い眼光で直視してきた。
「上様。真の愚者は己が賢いと考え、真の賢者は己が愚かなことを知っております。己の足らぬを知り、学問を修められた上様が愚者であるはずがございませぬ。真の愚者とは、己の立場を笠に着て分かった気になり、何も考えぬ表の者どものことにございます!」
斉彬は一息をつき、語気をいっそう強めた。
「上様は身体が追い付かぬゆえに、お力を発揮できぬ状態に過ぎませぬ。だからこそ……だからこそ、その御身を健やかにしていただかねば困るのです。この国は今、上様を必要としているのです!」
諦めきっていた余の胸の奥底に小さな熱が灯る。
誰も余に期待などしていなかった。
余が蓄えてきた知識など、誰も見ようともしなかった。
皆、うやうやしく頭を下げながら、ただ余が死んだ後の継嗣の話ばかりを探り合っているというのに。
「……ふっ。無茶を言う男だ」
余は溜息をひとつ突き、頼りなく骨張った己の手のひらを見つめた。
「薬喰い、か。……しっかりと火を通した肉と卵であれば、試してみてもよい」
「お言葉、確かに承りました! では明朝より、味噌で深く煮込んだ肉と熱を入れた卵、さらにお庭での早歩きを日課といたしましょう!」
あぁ、腹の底から笑いがこみ上げてくる。
見ているがよい、重臣ども。
うやうやしい笑みの裏で、余を籠の鳥と蔑む者たちよ。
斉彬の差し出す手を取り、余は生き延びてやる。此奴とこの国を動かすその日まで。
史実の徳川家定はこの数年後、35歳の若さで亡くなります
また家定には実子がいなかったため、次の将軍を誰にするかが幕府最大の政治問題となりました
今作では斉彬によって生命力あふれる家定公になりました
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