オランダ商館長の報告書
長崎・出島商館。
ランプの火が弱く揺れる真夜中の執務室で、第14代出島商館長ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウスは、羽ペンを手に深く眉を寄せ、羊皮紙を前に思案に暮れていた。
いかに書くべきか。本国ハーグの政庁が果たしてこの狂気のような内容を信じるだろうか。
卓の上に置かれているのは、本国政府へ送る極秘報告書の草案。
そしてその傍らには、幕府から「連絡用に」と一方的に貸与された、木と金属で組み上げられた小さな箱型の装置——『遠視電信』が、静かに佇んでいた。
電波を用い、遠く離れた江戸や薩摩の「動く映像と音声」を、即座に鏡面へ映し出す神技のごとき怪異の箱だ。
初めて目の当たりにした時は、思わず腰を抜かしかけた。
遠く離れた江戸城の映像と会話が、タイムラグもなく行えるのだ。
西洋の科学者にこれを見せれば間違いなく言葉を失うだろう。彼らの技術は我々の遥か先を行っている。
かつて、オランダは日本に対し揺るぎない優越感の中にいた。
『事なかれ主義で優柔不断、なにより変化を徹底的に嫌う』
それが、二百年余りの付き合いでオランダが抱いていた日本の印象だった。
アメリカ艦隊の来航情報を事前に警告してみせたのも、ただの親切心からではない。他国に日本を開国され、これまで我が国が独占してきた貿易権や優位性が崩れ去るのを何としても阻止したかったからだ。
事前情報を与えて恩を売り、都合のよい「開国の導き手」として、これからも優位に立ち続けるはずだったのだ。
……だが、幕府の深奥に「島津斉彬」が立ち上がって以降、届く報せも、目の当たりにする光景も理解の範疇を超えていた。
「……正気ではない」
クルティウスの口から、掠れた呟きが漏れる。
変化を嫌うはずのこの国では今や『磁気軌道車』と呼ばれる鉄の箱が、煙も吐かずに大地を滑るように駆け抜けているという。
街道には不夜城のごとく街灯が灯り、庶民の口にする食料から着る衣類に至るまで規格化・量産された品が行き渡り始めているらしい。
さらに驚くべきは、身分を問わず全国の子供たちが「義務」として高度な算術や機械の構造、言語を学ばされているというのだ。
クルティウスはふと手を止め、重い吐息とともに窓の外へ視線を投げた。
格子窓の向こうには、静寂に包まれた出島の海と、雲ひとつない満天の夜空が広がっている。
この島国は今、恐ろしい速度で未来へ向かって滑りはじめている。
とっくに冷めた紅茶を一口飲み、濡れたペン先を握り直す。
かつて飛脚が何日もかけて運んでいた公文書は、街道の地下深くに埋設された謎の『導線』を通って一瞬で全国の藩へ届き、身分の隔てなく門戸を開いた幕府の「技術講習所」は、凄まじい活気に包まれているという。
社会の構造そのものが今、信じがたい精度と速度で塗り替えられているのだ。
『本国へ告ぐ。我々が知る「変化を嫌う東洋の島国」は、もはや存在しない』
クルティウスは震える手でインクを浸し、意を決して紙にペン先を走らせる。
ことに、この出島の窓から自らの目で捉えた光景は、己の常識を完全に破壊するものだった。
長崎の沖を行く、日本の巨大な鉄の船体。そこからは黒煙はおろか、白い蒸気すら一切上がっていなかった。異様な静寂を保ったまま、怪物のような速さで海面を滑り去っていった異形の艦。
さらに浦賀からの密報によれば、あの船はアメリカ艦隊の目前で、火薬の爆音すら伴わぬ眩い光の柱を放ち、一瞬で標的を蒸発させたという。
もはや我がオランダが誇る最新鋭の砲術や蒸気機関など、彼らの前では子供の火遊びに等しい。
『我が国が売りつけるつもりであった代物は、彼らにとって「すでに過去の遺物」に過ぎない』
ペン先から黒いインクがボタリと滲み、紙を汚した。
クルティウスは卓上の『遠視電信』を恐る恐る見つめ、流れる冷や汗を拭いながら、最後の文章を叩きつけるように書き殴った。
『本国は直ちに、対日外交における戦略と「日本の重要度」を根底から改められたし。極東の辺境と高を括っている猶予は最早ない。もし我が国が姿勢を改めず「教導者」として優位に立てているという錯覚を抱き続けるならば——我々は早々に彼らに包囲され、主導権を完全に奪い去られる側となるだろう』




