底知れぬ深淵
人払いを完全に済ませた、江戸城奥深くの老中執務室。
卓の上には、朱印が押された『公儀技術総括就任・並びに薩摩藩家督譲渡達書』の控えが静かに置かれていた。
「久光殿への家督譲渡。無事に幕閣の連署を取り付け、手続きを完了させましたよ、斉彬公」
阿部正弘はそう言うと、満足そうに手元の茶を啜った。御年三十五歳。幕府の舵取りを担うその顔には疲弊の色など微塵もなく、若々しく鋭い覇気が宿っていた。
斉彬が持ち込む先鋭的な改革がことごとく成果を上げているおかげで、今の阿部には「この国は動いている」という強い手応えと、政治を動かす圧倒的な高揚感があった。
「阿部殿にあらかじめ懇切なる手回しをいただいていたおかげにございます。……薩摩の国元と公儀の職務、双方に中途半端に足をすくわれては、迫り来る国難に立ち向かうことなどできませぬからな」
斉彬は静かに頭を下げ、真摯な眼差しで10歳年下の老中首座を見据えた。
「礼には及びませんよ」
阿部は楽しげに笑い、卓の上の達書を指でぽんぽんと軽く叩いた。
「正直なところ、私と公の間に今更このような形式や家督譲渡の大義名分など、何の意味もなさないのですがね。お互い、やるべきことは端から分かっているのですから」
「はは、まさにその通りにございますな。ワシと阿部殿の間でいちいち理屈を捏ね繰り回すなど、野暮の骨頂というもの」
斉彬も思わず口元をほころばせた。二人の間では、薩摩の家督をどうしようと、どんな名目を立てようと、本質は「斉彬が身軽になって国全体の技術改革を主導する」という一点のみ。そんな回りくどい手続きなど、互いの理解には一切不要だった。
「ですがまあ……幕府にも薩摩にも、頭の古い人間が山ほどおりますからな。こればかりは仕方ありません」
阿部はやれやれと肩をすくめ、苦笑を漏らした。
「『先の騒動の禍根を絶つための家督譲渡』だの、『公儀技術総括として江戸に繋ぎ止めるための人事』だのとお題目を並べてやると、老臣どもは皆『阿部様が斉彬公を上手く丸め込んだ』と満足げに頷いておりましたよ。型に嵌めたお飾りを見せてやれば、彼らは実に扱いやすい」
「フッ……誰もが自分の都合の良いように解釈して納得してくれるのなら、形式も使いようでございますな。古い者たちの雑音を抑え込むための『儀式』と思えば、安いものにございます」
互いの腹のうちを知り尽くした者同士、二人は顔を見合わせて可笑しそうに笑った。
「ときに斉彬公」
阿部は満足そうに茶碗を置くと、身を乗り出して目を輝かせた。
「諸国で行わせているあの『避難訓練』ですがね。江戸や関八州でもすでに数十回を数えますが、相変わらず劇的な成果を上げておりますよ。町奉行どもが『太鼓一つで町民が整然と広場へ逃げるようになった』と驚愕しておりました」
「ええ。何事も慣れと『得』にございますよ、阿部殿」
斉彬は口元に笑みを浮かべた。避難訓練に参加した者へ温かい麺類、握り飯の炊き出しや手ぬぐい、石鹸といった日用品を配る仕組みは、数年前に薩摩で実験・導入して以来、今や絶大な効果を発揮していた。
人は理屈では動かないが、目先の得と習慣には実によく従う。
「ええ。ですが……私を心底戦慄させたのは、訓練そのものだけではありません」
阿部は急に声を低く落とし、感嘆の入り混じった真剣な眼差しで斉彬を見つめた。
「——さきの小田原の件です」
嘉永六年二月二日、朝。箱根・小田原を襲った直下型の大地震。
斉彬はスキルで把握したまさにその日に、小田原全域で『最大規模の避難訓練』をぶつけていた。城下の武士も町民も外の広場へ避難し、麺を調理しようとしたその瞬間——足元を激しい地響きが襲い、屋敷や城壁がガラガラと崩れ落ちたのだ。
「あの揺れだ、逃げ遅れた者が家屋の下敷きになっていてもおかしくなかった。……だが、逃げ遅れた者はおっても死者は一人も出なかった。公が事前に仕掛けておられた『あの対策』のおかげでね」
阿部は卓に手をつき、心底から感心したように首を振った。
「潰れない家を造るのではなく、潰れても命を護る空間を残す……『筋交い』と鉄の金具による家屋補強。あれを『幕府による無料の公儀事業』として諸国に張り巡らせておいた公の先見の明には、ただ脱帽するほかありませんよ」
揺れの瞬間に家屋が全壊すれば助かる命も助からない。だから斉彬は「日ノ本公儀技術総括」の権限と量産体制をフル活用し、大工を雇い上げて貧しい長屋から民家まで、無料で柱の補強金具を打ち込ませる事業を事前に完了させていたのだ。
「町民は『幕府が無料で家を頑丈にしてくれた』と喜び、大工は仕事が増えて景気も良くなった。そして何より倒壊した家屋の中でも命が護られ、結果として『犠牲者ゼロ』という奇跡が起きた」
斉彬は静かに茶を啜り、多くを語らない。
「公には、まるで未来が視えているかのようだ」
斉彬は否定も肯定もせず、ただ静かに視線を茶碗へ落とした。伏せられたその瞳の奥にある底知れぬ深さと、圧倒的な頼もしさ。
阿部はそれを肌で感じ取ると、静かに息を吐いた。
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