横須賀の光
ペリー艦隊が去った後の幕政の中枢・江戸城本丸は、活気ある熱意に包まれていた。
威で脅す異国を武力と理で圧倒し、我が国に極めて有利な条件で条約を結び追い返した
この前代未聞の快挙の報は瞬く間に全国を駆け巡り、若い侍や中堅の幕臣、さらには各地の大名たちから、島津斉彬と阿部正弘に対する熱烈な支持と絶賛の声が巻き起こっていたのだ。
不満を抱いているのは、前例を破られたことに眉をひそめ、己の権益が脅かされるのを恐れる権勢に固執した老老人のみ。だが、世論の圧倒的な追い風を前に、彼らは陰で忌々しげに顔を顰めることしかできなかった。
「今だな、阿部殿。世論が我らを全面的に支持している今こそ、古い掟を叩き壊す最高の好機だ」
江戸城の一室で、斉彬は阿部正弘、西郷隆盛、小栗忠順らと膝を突き合わせていた。
「我らが創り上げねばならんのは単なる砲台ではない。国そのものを変革する産業の拠点だ。……そのためには、幕府だ薩摩だという垣根も、身分の貴賤も邪魔になる」
「うむ、それが道理よ」
阿部正弘は、深く頷いた。
「一部の老骨どもが裏で喚いているようだが、天下の支持はこちらにある。……西郷よ、準備はよいか?」
「ハッ。すでに全国の優秀な人材の選出は完了しております」
翌日、老中首座・阿部正弘は幕府史上初となる画期的な触れ出しを断行した。
『幕府・諸藩の枠を超え、身分を問わず、技術・学問に秀でた者を公儀の直轄として登用する』
これにより、全国各地からと異端と天才が続々と江戸へ集結した。
蘭学の異才・大村益次郎、砲術の第一人者・佐久間象山、そして鋭い眼光を放つ若き幕臣・勝海舟。
集められた曲者たちの前に立ったのは、これまた曲者の小栗であった。
「……いいか、貴様らがこれまで学んできた技術や知識など、今この時から過去の遺物だと思え」
小栗は冷徹に告げると、図面を壁一面に広げて見せた。
「我々が創り上げるのは、どこぞの国の真似事ではない。我々自身の未来だ。ついて来られる者だけが、この国の基盤を創る誉れを得る」
小栗の圧倒的な知力、知識、そして一切の妥協を許さぬ冷徹な采配に、傲慢な職人や学者たちもぐうの音も出ず平伏した。
小栗は斉彬から仕込まれた劇薬としての牙を全開にし、集まった天才たちを一つの巨大な精密機械として纏め上げていった。
そして数ヶ月後。
浦賀の対岸に位置する小さな漁村——横須賀。
かつては静かだったその海岸線は、今や日本最大の巨大建設現場へと変貌を遂げていた。
「第二区画の蒸気槌基礎工事、遅れているぞ! 100分の1ミリの傾きも許すな!」
「電線管の埋設を急げ! 試走用の電気機関車が入線するまでに送電網を完成させろ!」
「高炉の火を絶やすな!火を落とせば炉が死ぬぞ!三班交代で一昼夜、不休で叩き上げるぞ!」
小栗の怒号が響く中、海岸線に巨大なドックが掘り進められていく。
そこは単なる造船所ではない。
近代製鉄所、精密機械工場、電信研究所、そして渡米留学生たちを迎え入れるための総合技術校が一体となった、日本初の巨大近代産業工業地帯だった。
この現場の真の異様さが発揮されるのは、陽が落ちてからだった。
夜の横須賀を照らし出していたのは、幾百ものアーク灯が放つ真昼のような白銀の光線だった。
行灯の仄暗い灯りとは比べ物にならない。
重低音を響かせて大地を揺らす蒸気ハンマーの音。
夜の海岸線を火花の尾を引いて走り抜ける試作電気機関車。
そして、闇の中に白々と浮かび上がる巨大な鉄骨。
「おい、見ろよ……! 本当に夜がねぇぞ……!」
「あそこだけ昼間じゃねえか。一体全体、どうなってんだ?」
いつしか噂は噂を呼び、近隣の町人や農民どころか、江戸から屋形船や乗合船を仕立ててやってくる見物客の団体が後を絶たなくなっていた。
沖合に船を浮かべ、酒を酌み交わしながら、海を隔てて眩いばかりに輝く不夜城を酔い痴れたように見つめる庶民たち。
「あそこにはな、公儀が創ってる俺たちの未来って奴があるらしい」
「頼もしいもんだ。あんなもの見せられちゃ、異人だって手出し出来ねえだろうよ!」
人々は畏怖と、それ以上の圧倒的な高揚感に目を輝かせていた。
本来は防犯と安全のための照明に過ぎなかった白銀の光は、知らず知らずのうちに熱狂した民を引き寄せ、江戸の市中では「横須賀の光を見ぬ者は時代遅れ」とまで言われる一大見世物となっていた。




