ノギスと、覚醒の鍛冶場
「吉之助。このレンズと工具、そして図面を、信頼できる腕利きの鍛冶と硝子職人へ秘かに届けよ。まずはこれらを熟視させ、自らの手で模倣させるのだ」
「ははっ! 殿の集められた至高の品と図面、必ずや職人たちの手へ届けまする!」
西郷たちが図面と工具を恭しく抱えて退出するのを見送り、俺は静かに深く息を吐き出した。
(ふぅ……まずは初手として『長崎で極秘裏に買い集めた』という体で、高精度な工具と図面を現場へ投げ入れる事ができた)
頭の中で、歴史知識が警鐘を鳴らす。
悠長にしていては時間が足らないのは明らかだ。しかし。
(焦って公務を疎かにすれば、前藩主派や幕府に揚げ足を取られ、藩主になったばかりの足元をすくわれる。まずは『名君』として藩政を固めるのが先決だ)
それからの数ヶ月、俺は怒濤の公務に追われた。
藩主就任の挨拶回り、幕府への各種届出、膨大な領内の行政文書への花押。お家騒動で冷え切っていた薩摩藩内の派閥争いを収め、家臣たちの心を掌握すること。
前世の知識と42歳までの斉彬の記憶を総動員し、俺は「威厳と慈悲を兼ね備えた新藩主」として完璧に振る舞い続けた。
そして毎夜、政務を終えた私室で。
俺は一人、密かに『等価万有工房』の実験と運用を行っていた。
(少しずつ『対価』と『成果物』の交換実績を作っていく……。能力の存在は、まだ誰にも悟られてはならない)
文机の引き出しから、藩主の権限で手に入れた極上の銘菓や金銀を取り出す。
(能力発動——対価:薩摩焼の壺一壺、および金二両。対象:高精度な測定用ノギス、および金属の温度を推量するための熱電対・分析器の解説書)
音も光もなく、手元で茶壺が現代の測定器具へと入れ替わる。
ただ与えるだけでは駄目なのだ。この時代の職人たちが自らの手で限界を突破できるようにしなければ先がない。
俺は夜な夜な、2026年の知識を分かりやすい言葉に噛み砕いた『指導書』を筆で書き進めていった。
数週間後。
政務の合間を縫って、俺は極秘裏に城下の鍛冶場へと足を運んだ。そこでは、西郷から図面と工具を託された腕利きの鍛冶職人たちが、眉間にシワを寄せて頭を抱えていた。
「殿!? お館様自らこのような場所へ……!」
驚いて平伏する職人たちを制し、俺は叩き台の上にある鉄片を検分する。俺が渡した現代の工具を模倣して作ろうとしているが、どうしても鋼に割れや不純物が入ってしまっている。
「ふむ。叩き方が悪いのではない。見直すべきは炭のくべ方だ」
「へ……? 炭、でございますか?」
「そうだ。鉄をただ熱するだけでは足りぬ。炉の中に送り込む『風の量』が足りないのだ。鞴の吹き口を少し小さく絞り、風圧を上げてみよ。温度が足りぬから、鉄の中のゴミが抜けきらぬのだ」
さらに俺は、用意していたノギスを職人に与える。
「勘に頼るな。この道具で厚みを測り、寸分狂わぬ厚みで鍛え上げろ。もの造りの真髄は『測ること』にある」
「は、はぁ……これをこう挟んで目盛りを……!? おおっ、寸分の狂いもなく厚みがわかる!」
「そうだ。一度で成功させる必要はない。なぜ失敗したのかをこの解説書で確かめ、みなで知恵を出し合え」
職人たちの目が、パッと輝いた。
お殿様から直接、誰も見たこともない「理(科学)」と「具体的な改善点」を教わったのだ。職人たちの熱量が一気に跳ね上がる。
「よし……もう一度火を熾せ! 殿に教わった通り、風を絞って温度を上げるぞ!!」
「おうっ!!」
立ち昇る火花と、規則正しく響き渡る槌の音。
公務を完璧にこなしつつ、合間に的確なアドバイスを送る日々。俺の与える「小さなきっかけ」を元に、職人たち、そして西郷たちが一歩一歩、確実にレベルアップしていくのを感じる。
(ペリー来航まで、あと一年と数ヶ月。焦りはしない。だが確実に薩摩の技術力を底上げしていく)
新藩主としての義務を果たしながら進める、手探りの技術革新。
こうして薩摩の職人集団は、史実を遥かに超える速度で「本物の技術者」へと覚醒し始めていた。




