幕開けの砂糖十包
2026年、夏。
病室のモニターが鳴らす無機質な電子音が、静かに遠ざかっていく。
病床の中、愛読していた歴史史料と科学雑誌を固く握りしめたまま俺の意識は途絶えた。
「殿! ご就任、誠におめでたく存じまする! 我ら若い者、この日をどれほど待ちわびたことか……!」
重厚な畳の匂い。肌を刺すような冷たい空気。
閉じていた目を開けると、目の前には平伏する髷頭の男たち。見回せばそこは見慣れた病室ではなく、絢爛豪華な木造の大広間だった。
ふと手を見る。病で痩せ細っていたはずの手は骨太で、肉厚なものに変わっていた。
状況を理解できないでいると、突如頭の中に怒涛の勢いで「2026年までの科学・歴史の全知識」と、心臓の鼓動に同期するような不思議な感覚が流れ込んできた。
(能力『等価万有工房』? 2026年のあらゆる物質を、同等の価値を持つ対価と引き換えに手に入れられる……?)
戸惑う俺の脳裏に、この身体の記憶と「歴史の知識」が急速に結びついた。
俺は島津斉彬、時代は嘉永4年(1851年)2月。
長年続いたドロドロのお家騒動の末、42歳にして第11代薩摩藩主に就任した、まさにその当日だった。
(いや……待て待て待て!!)
俺は冷や汗を吹き出させた。歴史オタクの知識が警告を鳴らす。
(斉彬が藩主になったのが1851年。ペリーが浦賀にやってくる黒船来航まであと2年……しかも斉彬の史実の寿命は49歳……あと7年で死ぬ!? )
「斉彬様? いかがされましたか?」
心配そうに顔を上げたのは、体格のいい若者だった。
キラキラとした力強い眼光。彼こそが、後の維新の英雄——西郷吉之助(隆盛)であった。
「……吉之助か」
「はい! 本日より殿のお供を許されました吉之助にございます! 殿が42歳になられる今日まで、部屋住みとして耐え忍ばれたご苦労、我ら薩摩の若い者、全員が知っております! これからは殿の御世にございます!」
感極まった様子で拳を握りしめる西郷。
そう。斉彬は、父・斉興との対立のせいで42歳になるまで藩主になれなかった。
「……うむ。苦労をかけたな」
己の声の重厚さに、自分自身で驚いた。
喉の奥から響くその声は、かつて病床でかすれていた俺のものとはまるで違う。
(本当に、俺は島津斉彬になったのか……)
視界に映るすべてが、あまりにも鮮明すぎた。
畳の目、西郷の着物の文様、着物の隙間から覗く己の太い手首。肌を刺す寒気と、鼻を突く古い木と香の匂い。夢や幻覚などという生ぬるいものではない。
胸の奥に冷たい塊が降りてくるのを感じた。
『島津斉彬——安政五年(1858年)七月十六日、急死』
病に倒れ、何も残せずに死んでいった前世の記憶と、この身体に与えられた短すぎるタイムリミットが重なり合う。
そして何より、目の前で心底嬉しそうに涙を浮かべる西郷吉之助の姿だ。
この若者が、やがて維新の渦中でどれほどの血を流し、どんな最後を遂げるか、俺は知っている。
この男だけではない。この国の多くの人間が、これからやってくる外圧と内乱の時代に翻弄されていくのだ。
(病死して一度途切れたこの命……ただの観客で終わってたまるか。この男たちを、この国を、俺の知る最悪の未来へ行かせはしない)
胸の奥で、静かな熱が燃え上がるのを感じた。
「……吉之助」
「ははっ!」
「私は部屋住みの折、ただ徒に日を送っていたわけではない。蘭書を読み、異国の理を学び、ひそかに手配を進めておったものがある」
言葉を発しながら、視線だけを部屋の隅に据えられた頑丈な文机へと向けた。あそこなら、西郷たちの立ち位置から見て手元がちょうど死角になる。
俺は静かに立ち上がると、文机の引き出しへ向かった。
引き出しを開けると、中には藩主就任の祝物として献上されたばかりの、小振りの紙包みがいくつか収められていた。高級品である薩摩特産の黒砂糖だ。
(これだ……対価として、まずはこれを使う)
俺は文机の陰に身を隠すように腰を落とし、引き出しの中の砂糖包みにそっと手を触れた。
頭の中で、あの謎の感覚——『等価万有工房』を強く意識する。
(能力発動——対価:薩摩の砂糖十包。対象:高精度なガラスレンズ、精錬された特殊鋼の小型工具、そして洋紙に描かれた詳細な製鉄・造船の図面)
瞬刻、手のひらの下にあった砂糖の重量感が消えた。
代わりに、ひんやりとした金属の冷たさと、ずっしりとした固形物の重みが伝わってくる。
音も光も一切ない。まるで最初からそこにあったかのように、静かに「入れ替わった」のだ。
息を整え、あらかじめ「そこに大事に隠してあった」という風を装い、それらを両手で抱えるようにして取り出した。
「みな、これを見よ」
文机の上に置かれたそれらを目にした瞬間、場の空気が止まった。
並べられたのは、現代の技術で精巧に研磨された光学レンズと、不純物が一切混じっていない美しく輝く鉄の工具。そして、日本語とオランダ語で緻密に書き込まれた『高炉(反射炉)』の設計図だ。
西郷は目を丸くし、おそるおそるレンズと図面に手を伸ばした。
「こ、これは……なんという澄んだ硝子……! それにこの鉄の刃、薩摩のいかなる鍛冶が打ったものよりも素晴らしく……! 殿、これほどの代物を、一体どこで……?」
「長崎の異国商人を通じて、私の私財を投げ打ち、長年かけて極秘裏に買い集めさせたのだ。この図面もな」
俺は静かに、しかし力強い眼差しで西郷を見つめた。
「吉之助。異国はいま、蒸気という巨大な力を用いて世界を呑み込もうとしている。いずれこの日本にも、巨大な黒い船が押し寄せるだろう。それに抗うには、刀や槍では足りぬ。鉄を溶かし、大砲を造り、巨船を動かす『理』が必要なのだ」
「異国の、黒い船……」
西郷たち一同は息をのんだ。
歴史の表舞台にまだ立っていない若き日の西郷にとっても、それは衝撃的な予言であり、同時に眼前にある圧倒的な「実物」が何よりの証拠だった。
(よし……これなら『なくはない』範囲だ)
蘭学に造詣が深かった史実の斉彬なら、長崎ルートで珍しい海外の品や知識を買い集めていても不思議はない。チートの規模を抑え、徐々に「買い付けた」「自作した」という体で世に出していけば、誰も疑わないはずだ。
「これらを元に、すぐにでも『集産(工場群)』の場を造る。吉之助、お前にはその現場を指揮してもらうぞ」
「は、ははっ……! 殿がこれほどの深謀遠慮をお持ちであったとは……! この吉之助、命に代えても殿の示された『理』を形にしてみせまする!」
西郷たちは額を畳に押し付け、震える声で誓った。
(ふぅ……まずは第一歩だ。だが、こんな小出しでは2年後のペリーには間に合わない。少しずつ『輸入できた資材』の規模を大きくしていき、いずれはこの国の歴史を根本から塗り替えてやる)
42歳。余命はおそらく、あと7年。
俺の、静かなる「超・近代化計画」が、ここに幕を開けた。




