ペリーの敬意
重苦しい静寂の中、ペリーは日本側が提示した条約草案の末尾に自らの署名を刻んだ。
その胸中には拭えぬ不安が渦巻いていた。自分や部下たちは、これからどのような扱いを受けるのか。拘束されるのか、それとも船ごと送還されるのか。
身構えるペリーに対し、若き役人は静かに頭を下げると、威圧感のない穏やかな声で告げた。
『——ご理解とご決断に感謝いたします、ペリー提督。なお貴艦の兵士たちですが、今現在、艦内の医務室にて手当てを行っております』
『……なに?』
『我が国の防衛措置は一時的に神経を麻痺させるもので、お身体への後遺症はございません。しかしながら、貴艦の乗組員の方々に長旅による過度の不養生や、栄養失調の兆候が見受けられましたので、我が国の軍医が処置を施させました』
そのまま半信半疑のまま案内された先——そこは、サスケハナ号の病室とは比較にならないほど清潔で明るい医務室だった。
そこには、捕虜として扱われるどころか、清潔なベッドに横たわり、毛布を掛けられた部下たちの姿があった。長年の航海で自分たちを苦しめていた壊血病や皮膚の潰瘍に、見たこともない透明な膏薬が塗られ、兵士たちは呆然と戸惑った表情を浮かべている。
「て、提督……! 我々は捕えられるどころか、彼らの医術で治療を受けています……! 長年の痛みが消えました……」
部下の報告を聞き、ペリーは軍服の袖の中で、固く拳を握りしめた。
(……拘束するどころか、敵対した敵兵の傷を無償で癒やすというのか)
医務室をあとにしたペリーは、役人に導かれて応接室へと案内された。
扉が開くと、そこにはサスケハナ号で制圧されていたはずの副官や将校たちが集められていた。拘束されることもなく、身なりを整えられた彼らは、ペリーの姿を見るなり一斉に立ち上がった。
「提督! ご無事でしたか……! 我々も傷一つ負わされることなく、この部屋で待機させられておりました」
部下たちの無事を確認し、ペリーは深く安堵の息を漏らした。
一同が艦内とは思えない洗練された空間で立ち尽くしていると、目の前の扉が静かに開き、思いもよらぬものが運ばれてきた。
白磁の器に盛り付けられたサシの入った牛肉の炙り焼き。鮮やかな旬の野菜。澄んだ黄金色のスープ。
サスケハナ号で日常的に喰らいついている、塩漬けの塩辛い豚肉や虫の湧いた乾燥パンとは、比べるべくもない。
共に席に着いた日本の役人に勧められるまま、みな恐る恐るナイフを入れる。絶妙な火入れがされた肉からは肉汁が溢れ出し、口に含んだ瞬間、絶対的な美味しさが爆発する。
『……な、なんだこれは……! うまい……旨味が、溢れ出してくる……!』
ペリーもまた、無言のまま肉を口に運んだ。
熟成された肉の深い味わいと、繊細な香辛料の調和。喉を通る冷たいスープが、張り詰めていた神経を優しく解きほぐしていく。
(……美味い。悔しいが、認めざるを得ん。これが……彼らの持つ余裕なのか)
ペリーは静かにナイフとフォークを置いた。
自分は合衆国軍人だ。祖国アメリカへの忠誠が揺らぐことは決してない。星条旗の下で生きる誇りを捨てることもない。
だが——。
(我が合衆国は、大変な相手を叩き起こそうとしていたのだな……)
これまでの自国の不遜さが、猛烈に恥ずかしくなった。
ここは未開の地などではない。
圧倒的な軍事力を持ちながらそれを誇示せず、国際法を盾に毅然と振る舞い、相手に対しては最高の衛生と食をもって応える極東の、知られざる超大国だったのだ。
ペリーはグラスに注がれた冷たい水を一口飲み干すと、向かいの席でスマートにナイフを扱う若い役人をまっすぐに見つめた。
『……素晴らしく手厚いもてなしだった。感謝する』
役人が静かに会釈を返す。ペリーは提督帽を深くかぶり直し、背筋をピンと伸ばした。
『我々は約束通り、この条約を本国へ持ち帰る。……だが、一つだけ言わせてほしい』
『何でしょう、ペリー提督』
『合衆国が本気になれば、我が国は必ず貴国を追い抜いて見せる。
……だが、今日ここで受けた教訓と、この料理の味だけは……私は生涯忘れることはないだろう』
武力でも、知性でも、そして品格でも上をいかれた。
祖国へのプライドを胸の奥にそっと秘めながら、ペリーは静かに、しかし確かな敬意を込めて、心の内で敬礼を捧げたのだった。




