ペリーの驚愕
震える心を押し殺し、日本の巨大軍艦へと足を踏み入れたペリーは目を見張った。
真夏の熱気が立ち込め、黒煙と重油の臭いが充満するサスケハナ号の甲板とは、まるで別世界だった。
足元から伝わるのは、鉄の歪みやエンジンの不快な微振動ではない。驚くほど滑らかで強固な床面。そして何より、まるで初秋のような心地よい冷気が全身を包み込んだのだ。
(な……なんだ、この冷涼さは……!? 氷でも敷き詰めているというのか……?)
黒船の船底で汗だくになって石炭をくべる水夫たちを知るペリーにとって、艦全体に均一に行き渡るこの「冷気」の存在自体が信じがたい怪異だった。
さらに彼を戦慄させたのは、廊下を照らす明かりだ。
風でゆらめく石油ランプの不気味な影もなければ、煤で壁が汚れてもいない。天井の各所に埋め込まれた乳白色の板から、まるで昼の太陽光をそのまま切り取ってきたかのような、清廉で眩い光が惜しみなく注がれている。
そして、恐ろしいまでの静寂。
サスケハナ号なら四六時中響いているはずの、巨大なピストンが発する「ガシャン、ガシャン」という耳障りな金属音や蒸気の排出口が上げる悲鳴のような音が、ここには一切存在しない。
かすかに聴こえるのは、海の底を静かに滑るような重厚な低音の響きのみ。
(バカな……。これだけの巨躯を、サスケハナ号の倍以上の速度で走らせる動力が……なぜこれほど無音に近いのだ……!?)
歩を進めるたびに、アメリカが誇る最先端の工業技術が、ここでは見る影もない骨董品へと成り下がっていくような錯覚に襲われる。
ペリーは、身に纏った豪奢な提督服の下で、止めどなく冷や汗が吹き出してくるのを脱ぐこともできず、ただただ圧倒されていた。
案内する若き役人の背中は、どこまでも凛として乱れがない。
その洗練された無駄のない足取りに導かれながら、ペリーは己が「文明を教えに来た使節」などではなく、まるで未来の居城へと招かれた「未開の来訪者」に過ぎないのだという残酷な現実を、肌の感覚から悟らされつつあった。
艦内とは思えない、洗練された空間で椅子を示され、気を抜けば震える足を叱咤し腰を下ろす。
若き役人は、ペリーが差し出した重厚な国書(親書)を丁寧に受け取ると、その場で封を切り、流れるような動作で内容に目を通した。
ペリーは、驚愕し顔を青ざめさせるであろうJapsをせせら笑おうと、その顔をじっと見つめた。
だが、役人は最後まで表情一つ変えず、静かに書簡を卓上に置いた。
『……拝読いたしました。大統領閣下の熱意、しかと受け止めました』
『……反応が薄すぎるな。貴様らには、この内容の意味が分からんか? 我々がこの親書を携えてきた真の意味が』
ペリーが鼻で笑って問うと、役人は小さく微笑んだ。
『いえ、重々承知しております。これは米国政府が、捕鯨船の燃料補給地を確保し、かつ太平洋航路の独占的な権利を我が国に求めた要求書ですね』
『なっ……!?』
ペリーの喉が大きく鳴る。
役人は続けて、まるで予定調和の報告書を読み上げるかのように、淡々と事実を積み上げていった。
『貴艦隊がノーフォークを出航してから今日に至るまで、我が国の海外情報網は貴艦隊の動きを逐一追っておりました。香港、上海、そして琉球での動向……寄港地で貴殿がどの国の商人や役人と接触し、どのような密約を交わそうとしたのか。すべて把握しております』
『……まさか』
『貴国の議会で「東アジアへの進出」が可決された日付も、貴国がこの親書の起草にどれほどの迷いを抱えていたかも知っておりました。……提督、貴殿は「未開の国へ文明を届ける使節」のつもりで来られたのでしょうが、我が国にとって貴殿の行動は、ここ数ヶ月、世界中のニュースを繋ぎ合わせていれば自ずと見えてくる「定石」に過ぎませんでした』
役人は立ち上がり、背後の壁に掲げられた驚くほど精密な世界地図を指した。
『貴国が今、最も喉から手が出るほど欲しいのは「石炭の安定供給」と「太平洋の制海権」でしょう? ですが、それらはすべて、この先十年も経てば蒸気船からより効率的な動力へと移行し、あるいは新しい燃料技術によって無用の長物となるものです。……我々は、貴国が「十年遅れの戦略」のために、無駄なエネルギーと外交費を投じているのを、滑稽な思いで見ておりました』
『……十年遅れだと? 戯言をぬかすな!』
『事実です。……我々は既に、貴国より先んじて近代化の指針を定め、対等な貿易を行う準備を終えています。貴国が武力威嚇をカードに使おうとした時点で、我々は外交上の勝利を確定させていたのです』
役人は、あまりに理解を超えた話に震え出したペリーの前に、彼らが準備していた「新しい通商条約の草案」を置いた。
それは、ペリーが持ってきた要求書よりも、遥かに日本の主権を尊重し、かつ米国にも経済的利益をもたらす、対等かつ未来志向の条約だった。
『さあ、提督。武力という古いカードは捨てて、真に未来を見据えた対話を始めましょう。……貴殿のキャリアを無駄にしないためにも、これにサインをされることを強くお勧めします』
情報と先見性ですべてを封じられ、自分が持ち込んだはずの親書が「過去の遺物」のように扱われたことに、ペリーは深く打ちのめされた。
武力でも、知識でも、外交戦略でも——目の前の相手には、どうあがいても勝てない。
ペリーはペンを握る右手の震えを止められぬまま、静かに日本側の提示した条約に視線を落とすしかなかった。




