ペリーの狼狽
嘉永六年(1853年)夏。浦賀沖。
『ハハハッ、見ろ! 港に田舎猿どもが群がっているぞ。我が船を見て、恐怖に震え上がっているに違いないわ』
アメリカ東インド艦隊司令長官、マシュー・ペリーは甲板から望遠鏡を覗き込み、鼻で笑った。
泰平の眠りを貪る未開の極東。
この度の任務は何の造作もない——自慢の黒船を見せつければ恐怖で泣きつき平伏すると、彼は本気で思っていたのだ。
だが、港の町人や役人たちの反応は、ペリーの想像とは大きくかけ離れていた。
「おいおい、あんな不恰好な鉄くずで何しに来たんだよ? 船足も遅くて欠伸が出ちまうぜ」
「斉彬様の造った船は黒煙ひとつ吐かず、すっと研ぎ澄まされて格好いいし、倍以上の速さで滑るように走るのにねぇ」
「遠くから大層な響きが聞こえるから期待したけど……メリケンってのも、大したことねえんだな」
黒船を恐れるどころか、どこか冷めた目で見つめる民衆たち。
黒煙を撒き散らす黒船の下に、一隻の小さな小舟が静かに横付けされた。乗っているのは、身軽な水夫と、端正な身なりの若い役人や記録係ら五名。
『ハハッ、見ろ! あんな粗末な小舟で来やがったぞ。あまりの恐怖に降伏の白い旗でも揚げに来たか?』
艦上の将校たちがドッと品のない嘲笑をあげる。
艦長である男は手すりから身を乗り出し、下々の者を見下すような笑みを浮かべて語りかけた。
『やあ、哀れなイエロー・モンキー諸君。我々は遠い文明国・アメリカ合衆国の使節だ。私、マシュー・ペリー提督率いる艦隊さ。君たちのような未開人を啓蒙しにやってきてやったのだよ。……まあ、この巨大な鉄の船や大砲の意味すら、君たちの足りない頭では理解できんかもしれんがね』
自らの名と圧倒的な武力を誇らしげに誇示するペリー。
だが、小舟の上に立つ日本の若き役人は、嘲笑にも一切動じることなく、静かにペリーの目を射抜いた。
警護と記録の役人が見守る中、彼は凛とした佇まいのまま、すっと背筋を伸ばす。
『——お言葉ですが、ペリー提督とおっしゃいましたか。我が主権がおよぶ領海への無断侵入、ならびに我が国に対する礼節を欠いた不躾な発言、即刻お控えいただきたい』
甲板の嘲笑が、一瞬でかき消えた。
聞こえてきたのは、拙い通訳でも、怯えを含んだ声でもない。驚くほど美しく洗練された、完璧なネイティブのインクリッシュであった。
『な……なに……!? 貴様、なぜ我が国の言葉を……!?』
ペリーの顔から血の気が引き、声が裏返る。
役人は顔色一つ変えず、毅然とした態度で言葉を重ねた。
『我が日ノ本において、国際法および語学の修得は当然の嗜みに過ぎません。貴艦隊がこれ以上の武力威嚇および領海侵犯を継続される場合、我が国は相応の法的手続き、ならびに防衛措置を講じる用意があります』
『な……っ!?』
『——なお、貴艦隊の無断入港、およびただいまの対話内容は、すべてリアルタイムで我が国の防衛本部へ電送されております。対話に応じる意思がおありなら、まずはその黒煙を止め、国際儀礼に則った正当な手続きをとられよ』
静かだが、一切の隙もない冷徹な通告。
日本の役人の、圧倒的な知性と毅然とした態度にペリーは冷や汗を流しながら言葉を失った。
だが——アメリカ東インド艦隊提督としてのプライドが、ペリーにそれを認めさせなかった。
『ハッ……ハッタリを抜かすな!!』
ペリーは顔を真っ赤にして怒号を上げた。
『口先だけの猿めが! 無断侵入だと? 法的手続きだと? 笑わせるな! 我らは合衆国大統領の親書を携えた使節だぞ! この大砲の数が目に入らんのか!? 貴様らの最高責任者がここに這いつくばって親書を受け取らぬというのなら、今すぐこの砲門で浦賀の町を火の海に変えてやる!!』
手すりを叩き、明確に対話と国際儀礼を拒否し、武力による威嚇を宣告したペリー。
それを見届けた若き役人は、悲しむ素振りすら見せず、ただ冷ややかな瞳で小さく息を吐いた。
『……正当な対話および国際法に基づく手続きの拒絶。ならびに、我が国に対する明確な武力行使の示唆——確認しました』
役人はためらいなく懐から一振りの真鍮を取り出し、静かに掲げた。
「——防衛番号・三◯二。これより第一種警戒態勢へと移行する」
——ポンッ!!
甲高い音とともに、小舟から一筋の眩い蒼白色の光が天空へ向かって弾けた。
黒煙ひとつ出さず、昼の太陽すら呑み込むほどの圧倒的な光量を放つ「無煙信号弾」だ。
『な……なんだ!? 何をした!?』
動揺するペリーの眼前に、浦賀の霧を文字通り引き裂いて「怪物」が姿を現した——。




