第七話
「そうだな。フィーネさん、母の言っていた『呪い』というのは、『カツラが吹っ飛べ』というものだったそうなのですが、そのような事態が実際にあったというのは本当でしょうか?」
そう言われた私の脳内に、あの日の記憶が鮮明に蘇る。
それはまだボルドー邸の応接間で、バルタザール氏と対面していた時のことだ。何か些細なことで、バルタザール氏が従僕の男性を叱責した。日常茶飯事という雰囲気で、従僕の男性が表面的な謝罪をして終わったが、その少し後に私は見てしまった。
手に付いたインクを拭くために、手拭きを要求したバルタザール氏。従僕の男性は、手拭きを渡す時に事故を装って、バルタザール氏の禿頭を隠していたカツラを、手で払い落とした。
私は正面から見ていたから、それが故意だとわかってしまった。私の父とバルタザール氏は、テーブル上の書類に視線を落としていたから、不慮の事故だと思っただろう。
バルタザール氏は慌てた。七十歳男性の頭髪が薄くても、それはよくあることだと思うのだけれど、彼にとっては知られてはいけない秘密であるようだった。
「しょ、少々、失礼する!」
バルタザール氏は変な角度でカツラを頭に乗せ、転びそうになるくらい焦って応接間を出た。そうだ、彼の最後の中座は腹痛のためではなく、カツラを装着し直すためだった。
そんな一連の出来事は、ただのアクシデントだと思っていた。だから、その後にバルタザール氏が亡くなった衝撃の大きさで、頭の片隅に追いやられていた。
全てを思い出した私は、レナード様に向かって深く頷いた。
「はい。あの日、確かに……バルタザール様のカツラが、飛びました」
私の返事に、ジュリアン様が横を向いて口元を覆う。
「……ジュリアン。故人の話に、不謹慎だ」
「っ、だって、可笑しいだろう……」
長い髪で顔は隠れているが、ジュリアン様の声は震えていて、笑いを堪えているのが丸わかりだ。
仕方がない。私も、あの時は自分の手を抓って必死に耐えた。今となっては笑う気になれないが。
「くだらないことではあるが、母の言った通りのことが、実際に起こった。それが呪いであったのなら、呪いをかけた魔法士がいるんだ。それを調査するのが、お前の仕事だろう」
レナード様は笑わない。ジュリアン様を窘めて、私へと視線を移した。
「俺が今回の件で首を突っ込んでいる理由は、母の発言があったからです。ジュリアンと違い、個人的な事情で、あなたに話を聞きたいと思いました。今日はそろそろ、王都に戻ろうと思いますが……次にジュリアンがこちらにお邪魔する時にも、俺が付いて来てもいいですか?」
レナード様の問いかけに答える前に、ジュリアン様が脇から口を挟む。
「さっき位相接続門に君の顔も登録したのだから、私と君の二人が揃わないと通過できない。付いて来る以外の選択肢は無いぞ」
「そちらは俺たちの都合だ。フィーネさんにしたら、魔導典礼省の調査に協力するのと、俺の個人的な事情に付き合うのとは違う」
ジュリアン様は仕事だが、レナード様はお母様の遺した発言が気になるという理由で来ていた。確かに理屈だけで言うと、私にレナード様の個人的な事情に付き合う義務は無い。
けれど、ジュリアン様がお一人で来ることを想像すると、そちらの方が不安だ。彼のノンデリ発言を私だけで捌ける気がしない。
「レナード様のお気持ちはわかります。単なる好奇心とは違うのですから、私の知ることをお話しするのに抵抗はありません。是非ご一緒に」
「ありがとう。それでは約束の通り、次は新しい本でも持って来ます」
「約束?」
本の話をした時に、ジュリアン様はいなかった。何のことだと尋ねるように視線を向けられたレナード様は、微笑みながら頷いただけで説明はしない。ジュリアン様もそこまで気になるわけではないようで、すぐに私に向き直る。
「それでは、今日はそろそろ失礼します。明日また来てもよろしいでしょうか?」
(明日?)
「明日?」
私が心の中で呟いたのと同じことを、レナード様が口にした。
「ジュリアン。フィーネさんには少し気持ちを落ち着かせる時間が必要じゃないか?」
「一晩寝れば気分も変わるだろう。そうではありませんか、フィーネさん?」
ジュリアン様に問いかけられ、一瞬言葉に詰まる。
「ええ……、そうですね。大丈夫です、明日で」
「無理をしなくていいですよ。少し時間を置いたとしても、事態は大きく変わらないでしょうから」
レナード様がそう言うのは、バルタザール氏が既に亡くなっているからだろう。呪いが関係しているとしても、その呪いは対象の死によって終わっている。急いで真相を解明する必要性は薄い。
「そうかもしれませんが……私の記憶も、時々刻々と薄れてしまいます。早い方がいいと思います」
あの日のことを忘れることはないと思っていた。でも、ジュリアン様に言われて細かいところまで思い出そうとすると、ぼんやりとしか覚えていない部分もあった。時間の経過とともに、更に曖昧な部分は増えるだろう。
「レナード。君の心配もわかるが、別に私も無理矢理に詰問するつもりは無い。フィーネさんには、明日また騒がしい友人が来るとでも思っていただければ。そうだ、また手土産を持って来ましょう。何を持って来るかは明日のお楽しみということで――では、また明日」
口を挟む間もなく、明日また来るということを改めて告げて、ジュリアン様は機嫌良さそうに席を立つ。驚くほどマイペースだ。
「友人って……五つも年下の女性に、厚かましいにも程がある」
「私はフィーネさんと友人になれたら嬉しい。それを拒絶するかどうかはフィーネさん次第だ、君は関係ない」
ジュリアン様はレナード様に釘を刺すようにはっきりと言い放つと、ひらひらと私に手を振りながら部屋を出て行く。
「……申し訳ない、何か妙にフィーネさんが気に入ったみたいだ」
レナード様が本当に申し訳なさそうに言う声で、ハッと我に返る。




