第二話
一応貴族令嬢として、実情はセリジエ家の資産として、箱入りで育てられた私に、放置されて傷んだ別荘を修繕するような知識も体力ももちろん無かった。しかし、ドアというドアが断末魔のような軋みを上げるのもそのままに仮住まいを始めた私に、とある異変が起こった。
(前に見たリノベ動画では確か……え? は?)
雨の降る日、雨漏りしませんようにと天井を見上げながら、何気なく思い浮かべた過去の記憶に、自分で驚いた。
リノベって何? 動画? あれは……スマホ? そう、スマホで見たんだ、古民家リノベーション動画を。
でもおかしい。この世界にスマホなんて無い。スマホで見る動画ももちろん無い。動画サイトも無い。それなのに、私の記憶にはそれらが当たり前にある。
そこからは、記憶を覆い隠していた砂が吹き飛ばされていくように、どんどん思い出していった。
私は浅木遥花、二十五歳の日本人女性だった。遥花としての最後の記憶は、バカみたいに暑い八月の昼下がりのことだ。熱中症警戒情報なんかが喧しくスマホにも届いている中、車で外回りをしていた私は、とある駐車場で車を降りた途端、景色がぐにゃりと歪むのを見た。
陽炎だ、と思ったのは正常化バイアスの仕業だったのだろう。車のドアを閉める間もなく、私の視界は真っ暗になった。
それはきっと前世の記憶というもので、私はこの世界に転生したのだ。すぐにそう思い至ることができたのは、高校生の頃にスマホで読んだ数多の異世界転生マンガや小説のおかげだ。知識というのは何でも頭に入れておいて損は無い。
遥花としての記憶が蘇ると、私はより一層、忘れられた別荘地での一人暮らしを「悪くない」と思い始めた。
この世界で生まれ育ったフィーネとしての私は、家のためにバルタザール氏に嫁ぐのも仕方のないことと考えていたけれど、遥花としての私は「仕方なくないぞ!」と全力で叫びたがっている。
亡くなった人を悪く言うのは申し訳ないが、金に物を言わせて十回も結婚と離婚を繰り返す人間性だけでも無理だ。更に、暴飲暴食のせいでぶよぶよと太った体に脂ぎった体臭、てかてかと皮脂の光る肌、黄ばんだ歯。あのお見合いの日に遥花の記憶があったら、会って五秒で逃げ出していただろう。
それに、セリジエ家での暮らしですら、私にはもはや窮屈に思えた。
家の窮状を悟られたくない父は、私にそこそこの質のドレスやアクセサリーを身に着けさせたが、実際のところドレスはサイズの合わない古着を無理に直した物で、私より小柄な人の物もあれば大柄な人の物もあったのだろう。そういうデザインではないのにウエスト位置がずれてハイウエストのドレスになってしまっていたり、逆に元が大きいサイズだから胸元の開きが大きすぎたり。アクセサリーはいつも流行遅れのデザインだった。
要は、父が選んだ物は、私という商品を少しでも良い物に見せるための包装紙だった。素材の質は良いのかもしれない。でも私は、自分に合ったサイズの、私が着たいと思う服を着たい。絹ではなくて、木綿でいいから。
父は資産価値を失った私に興味を失い、次は弟をセリジエ家復興のためにどう利用するかと画策しているらしい。私に同情する母と弟は、この別荘にこっそりと生活物資を届けさせるよう手配をしてくれている。そのおかげで、私はなんとか、陸の孤島となったこの高原で食い繋いでいる。
一人の退屈は、別荘の書庫にびっしりと詰め込まれた蔵書が紛らわしてくれる。高原は気候がいいから、本の保管に適している――そんな口実で、数代前からの古い本をほとんどここに運び込んだ父に、そこだけは感謝している。
もちろん、一人の時間が一年、二年と続けば、心穏やかではいられなかっただろう。けれど、平穏な暮らしが終わったのは意外と早く、バルタザール氏の死から一ヶ月と経たない頃だった。
ウォーン、ウォーン、ウォーン!
狼の遠吠えのような音が、高原に鳴り響いた。
遠吠えに似てはいるが、動物の声にしては音の長さや大きさが一定で、不自然だ。
(はいはい。箱庭装置の警報音ね)
たまにあることだ。
この辺りは一応貴族の別荘地ということで、野生動物や野盗から一帯を守る「箱庭装置」というセキュリティシステムがあり、今も作動している。と言うか、止めるにもお金がかかるので止められないらしい。
前世の記憶で近いものといえば、電気を流した有刺鉄線付きの柵で、畑をぐるりと囲んで鹿や猪を追い払っているのをテレビで見たことがある。
こちらの箱庭装置は、実際には魔法を使った結界なので一般人の目には見えない。外部からの侵入は防いでくれて、警報音も鳴らしてくれる。これがあるから私のような女性の一人暮らしができるのだ。
おそらく今回も、野生の動物だろう。人間は滅多に来ない。悪党だって、道の悪い中、セキュリティシステムがあるとわかっている、打ち捨てられた別荘地をわざわざ狙わない。来るとしたら母や弟からの支給品を届ける遣いの人だけれど、今日は来る日ではない。
そう思っていたのだけれど。
「あれか? フィーネ嬢のいる、セリジエ家の別荘とやらは!」
開けてある窓の外から、明らかな人間、しかも男性の声が聞こえてきて、私はビクッと肩を揺らした。
(は? え? 何で、中に入って来てるの……?)
人が入って来たことにもビックリだ。それに、いつもの遣いの人の声でもない。いや、それ以上に、私がここにいることを知っているのは、家族だけなのに。
「お前の演技がかった口調も、久しぶりに聞くと懐かしいな」
違う人の声。さっきの人より声も口調も低く落ち着いている。少なくとも二人の男性が、セキュリティシステム内にいる。
「うるさい! ……うん、間違い無い。おや、窓が開いているじゃないか! フィーネ・セリジエさん、いらっしゃいますか!? いらっしゃるなら出て来てください!」
窓から吹き込む風にカーテンが揺れている。もう、ここに人がいることは隠しようがない。それでも、出て行く勇気は私には無かった。
(どうしよう……誰なの? まさか、お父様が裏切った?)
セキュリティシステムの内側に入って来たということは、この区画内に立ち入る権限を持つ誰かが許したということだ。この打ち捨てられた別荘地の管理はセリジエ家、つまり父が受託してそれで小銭を――そうだ、私を男に売ったら、その小銭の何倍も一気に稼げるのでは?




