第一話
どうして、こんなことに――
私は屋敷の階段を見下ろし、青ざめる。
階段の下には老人が一人、横たわっている。つい数分前には贅肉を揺らして走っていた巨体。
起き上がる気配は無い。駆け寄るのは躊躇われた。
人としてどうかと自分でも思うが、夏の道端に落ちている蝉を、「動くか?動かないか?」と警戒しながらまんじりともせずに見つめる、あの時と同じ気持ちだ。
私は今日、この老人の後妻候補としてこの屋敷を訪れている。年の差は五十歳。よくあるパターンの、貧乏貴族が資金援助目当てに娘を差し出す形のお見合いである。
元々、その老人――バルタザール・ボルドー氏は、体調が優れない様子だった。何でも、昨夜から不思議な現象に見舞われ寝不足で、そのせいか朝起きてから腹具合も悪いと言っていた。
そんな体調なら、見合い自体をキャンセルしてほしかったが、そんな配慮ができたら十回も離婚しないだろう。そう、老人は今までに十回の結婚と離婚をしている。私は老人の十一人目の妻となる予定だった。
私がバルタザール氏と対面して、じろじろと値踏みをされ始めてからも、彼は何度か中座していた。でっぷりとした体を揺らして、トイレへと急ぐその姿は、私に嫌悪感を持たせようとしているのかと疑うほど清潔感に欠けていた。
そうして繰り返された何度目かの離席時。彼が戻って来るのを待つ私たちだったが、それまでにも増して、彼はなかなか戻って来なかった。
「フィーネ、様子を見て来なさい。夫婦は困った時こそ助け合わなくては」
隣に座る父が、私に命じた。もうすっかり娘を売り渡す気でいる父は、少しでも私の売値を吊り上げようとしていた。
「はい」
私に他の返事は許されていなかった。同じ部屋にはバルタザール氏の従僕である中年男性もいるが、先程バルタザール氏に叱責されたせいか、動く様子は無い。
私は仕方なく、一人で部屋を出て、教えられたバルタザール氏の書斎の方へと向かった。
間もなく、遠くから、ガラスの割れる音と絶叫が聞こえてきた。
「ヒ……ヒィィィ!」
高い悲鳴とともに、バルタザール氏はこちらへ走って来ていた。体型、年齢ともに、走れると思っていなかったから、それだけで驚いた。思わず壁に背中を押し付け、バルタザール氏が目の前を駆け抜けるのをただ傍観してしまった。もっとも、私が彼の前に立ち塞がったところで、跳ね飛ばされて終わりだっただろう。おそらく体重差は年齢差以上だ。
目の前を通って行く時に、荒い呼吸音も聞こえた。不摂生を重ねて、たっぷりと脂肪をまとった七十歳には、そんなに必死に走るだけで命の危険があるのではないか。そう思った時には、彼は階段に差し掛かっていた。
「ヒッ……あああああ!」
ドドド、ドスッ、ゴン――
階段を降りる直前、バルタザール氏は動きを止めたように見えた。けれどそこまで走って来た勢いは、彼の重い体を前進させ続けた。嫌な音と共に、その姿は階段の下に消えた。
私は階段の降り口までは駆け寄った。けれど、階下の惨状を見て、そこで足が竦んで動けなくなった。どうして、こんなことに――
「バルタザール様!」
音を聞きつけて、人が集まって来る。従僕の男性も、私の横をすり抜け、階段を駆け下りた。
「医師を!」
「いや……もう、脈が無い。呼吸も……」
バルタザール氏の手首に触れたり、口元に手をかざしたりしていた男性が、うつむいたまま首を振る。
(まずい)
私はバルタザール氏の安否よりも、自分の立場の悪さに冷や汗をかいていた。彼が階段を転げ落ちるまで、今まさに私がいる二階の廊下には誰もいなかった。何があったかを証言してくれる人はいない。
二十歳の私が、七十歳のバルタザール氏に自分から進んで嫁ぐとは、誰も思わないだろう。実際に私だって、嫌で嫌で仕方がなかった。でも、セリジエ家の当主であることが唯一の誇りである父にとって、娘の私は、没落の一途を辿るセリジエ家を立て直すための数少ない資産の一つだ。私に否は無かった。
そんな私が、この縁談から逃げるために、バルタザール氏を突き落としたと疑われたらどうしよう。そんな冷や汗である。
そして案の定、老人の死を確認した男性は、立ち上がると私に鋭い眼差しを向けた。
「フィーネ・セリジエ嬢。あなたは私より早く転落後の父を発見しましたね」
「……はい」
彼はどうやらバルタザール氏の息子であるらしい。何人目の奥様との子なのだろうか、バルタザール氏にはまるで似ていない。それに、お父様が目の前で亡くなっているというのに、悲しみも動揺も見られない。私よりも二十歳は年上に見えるけれど、もし私が十一人目の妻になっていたら彼は私の義理の息子になっていたのか。
「これが事故なのか事件なのか、はっきりさせる必要があります。あなたにもお話を聞かせていただきたい。ご協力くださいますね?」
断る余地を感じさせない圧のある口調だ。私は震え上がって頷いた。
こうして私と父は、バルタザール氏の邸宅に軟禁状態となり、三日後に、彼の死が老化と肥満と不摂生による突然死であると医師に判定され、ようやく解放されたのだった。
階段から転落する直前に、バルタザール氏の心臓は既に止まっていた。それは私の無実を示す結果であるはずだった。しかし、その結果が出るまでの三日間で、私には既に二つ名がつけられていた。
「アデルファ」
それは「毒の花」を意味する異国語らしい。
あんなに賞賛されたアンティークシルバーの髪も、菫色の瞳も、きめ細かい肌も、美しいが毒がある、触れた人間を死に追いやる花のようだと忌避された。
新たな縁談など、もう望めるはずが無い。セリジエ家の数少ない資産だった私は、買い手のつかない不良在庫となってしまっていた。
それだけではない。父の仕事には実際に影響が出て、弟の将来にも響きそうだった。
(私がセリジエ家にいては、皆を巻き添えにして家ごと取り潰しになりかねない)
無実なのに逃げなければいけないの?と、少しだけ迷った。でも私は意外とすぐに迷いの森を抜けた。
この貴族社会で一度広まった噂は、消えない。特に今回のような、家と家との格の差や、男女トラブルが絡む話はみんな大好きだ。そして人の心に残るのは、真相や真実よりも、ストーリーとしての面白さ。私の無実は、興醒め要素として忘れられた。
私は家を出て、高原の小さな別荘へと移り住んだ。昔は整備された道があって、避暑のできる別荘地として人気のあった高原だが、ここを通らない新しい道ができて、訪れる者はほとんどいなくなった。そんな所にある古い別荘が売れるはずもなく、かと言って取り壊す資金も無く、持て余されていた。セリジエ家にとって、価値のある資産から厄介者になってしまったという点で、私と同じだ。




