第二十三話
「シスター・ベアトリクスという名前に、心当たりはお有りですか?」
単刀直入な質問に、クラリス様はハッと肩を強張らせたように見えた。しかし、それよりもビクッと反応したのが、脇にいるアルフレッドさんだ。
「……何かご存知ですか?」
反応の大きかったアルフレッドさんに、レナード様が尋ねる。
「いえ、あの……昔、読んだ本に、そんな名前が出て来ましたので……本の話ではありませんね、失礼いたしました」
アルフレッドさんがおどおどと答える。私は咄嗟に声を上げた。
「その本は、『止まらない王様』ですか?」
「はい。古い童話です。お嬢様のようなお若い方がご存知とは、驚きました」
「……そうね。私たちの世代でも、半数も知っているかしら」
アルフレッドさんとクラリス様が頷き合う。
「クラリス様がご存知のシスター・ベアトリクスも、その童話の中の登場人物ですか?」
ジュリアン様が問いかけると、クラリス様はゆっくりと首を振った。
「いいえ。……私は実際にお会いしましたわ、シスター・ベアトリクスに。私がしたかったのは、まさにそのお話です」
クラリス様は豪快なホホホ笑いから一転、しんみりと懐かしむような声で言った。
「あれは私が、バルタザールと離婚した直後のことです」
そんな語り出しで、クラリス様はシスター・ベアトリクスとの関わりについて話してくださったが、何しろ四十年前のことで、話はあちこちに飛び、その都度レナード様やアルフレッドさんがさりげなく流れを修正して何とか聞き出した。その内容をまとめると、次のようになる。
クラリス様にとって、バルタザール氏との離婚は当初の予定通りで、特に未練も感傷も無かったという。ボルドー家の遠縁である子爵家の爵位を、生家であるモンタン家で譲り受け、ほとぼりが冷めた頃にクラリス様が婿養子を取る。裏ではそこまで決まっていたという。
だから、念願の爵位を得たモンタン家に出戻り、その「ほとぼりが冷める」のを待つ間、クラリス様は腹立ちも無く、唯一、アルフレッドさんのことだけは心配だったのだそうだ。
「だって、ねえ……いえ、絶対にご内密にお願いしますわ、私の口からこんなことを言ってはいけないのですもの」
クラリス様はそう言いながらも言いたくて仕方がない様子で、念押しをしてから打ち明けた。
「前妻のリリーナ様にしたら、万が一ということがありますでしょう?せっかくボルドー家の跡取りであるランドルフ様を産んだのに、バルタザールの一番側にいて当主の仕事を知っているのはフレッドなのですもの。バルタザールの実子ではないという噂も既にありましたから、私がリリーナ様の立場なら、フレッドをどうにかしようと思案すると思いましたの」
考えてもみなかった。バルタザール氏が、正妻だった人との子であるランドルフ様より、雑用をさせていたアルフレッドさんにボルドー家を継がせる?
私もあの日、バルタザール氏とアルフレッドさんが話すのを実際に見たが、そんな可能性は小指の先ほども感じなかった。
とはいえ、クラリス様から、あるいはリリーナ様から見たら、違う印象を受けたのかもしれない。
「そこに現れたのが、ベアトリクスでした」
クラリス様は静かに、その出会いを語り始めた。
バルタザール氏との離婚直後、クラリス様はその女性と出会った。見た目の印象は三十代前半、話し方はそれより落ち着いていて、聞き上手な人だったという。
当時のバルタザール氏も三十代前半だったから、他の人が言っていた「バルタザール氏と同年代」というシスター・ベアトリクス像と一致する。
初めて会ったのは、モンタン家が出資する仕立て屋だったそうだ。
離婚してモンタン家に戻ったクラリス様は、その仕立て屋を任された。ボルドー家に入り込み、モンタン家に念願の爵位を持ち帰った娘への、慰労の意味だったという。
クラリス様は、貴族向けのフルオーダーメイドの仕立て屋だったその店を、庶民向けの店に路線変更することにした。そこにお針子として現れたのが、シスター・ベアトリクスだった。
「もちろん、修道女の格好はしていませんでしたわ。名前も、ただベアトリクスと。身元は……当時はお針子さんの入れ替わりが激しくて、猫の手も借りたいくらいで……きちんと確かめずに、腕さえ確かならいいと、雇っていました」
店の路線変更により、それまでよりお針子の人数が必要になった上、今までのような貴族向けの商品を手掛けたいというお針子は他店へ移り、最も人手が足りない時期だった。
そこにやって来たベアトリクスは、黙々と針を動かし良い仕事をする有り難い人材だったという。
「店が軌道に乗るまでは、私がタダ働きをしてでも従業員のお給料だけは払おうと、無理をしていた面もありました。それなのにお針子さんからは要求が多いと言われて……、精神的に参りそうになっていた時に、ベアトリクスは私の話を聞いてくれました」
そうして、ベアトリクスがクラリス様の話し相手という構図ができてからは、店のことだけでなく、あらゆることをベアトリクスに聞いてもらったという。クラリス様のお喋りの勢いを聞くと、そうなるのは必然だと思う。
「離婚の話もしましたわ。フレッドが心配だという話も。そうしたら、いいおまじないがあると言われたのです」
おまじない。そのキーワードに、空気が変わった。
「三十代の女性が口にするには、少し幼い言葉ですね」
ジュリアン様が首を傾げる。
「私に合わせてくれたのだと思いますわ。私も既に二十歳を越えていましたけど、彼女の前では駄々っ子のように弱さを見せられる気がして、甘えていましたから」
クラリス様は懐かしむように遠い目をする。
「フレッドを今すぐに連れ出したいのか、とベアトリクスに問われて。……そうではないと、気付きました。私はフレッドに、まずは怒ってほしかった。バルタザールからの理不尽な扱いに。……自分はそんな扱いを受けるべき人間ではないと気付いてくれないと、連れ出しても、それを『逃げ』だと引きずるでしょう? あなたは」
クラリス様は傍らのアルフレッドさんに苦笑を向ける。アルフレッドさんは、申し訳なさそうに頷いた。
「だから、バルタザールがフレッドを怒らせたら、フレッドが自分を大切にする心に目覚めてほしいと、ベアトリクスに答えました。そうしたら、夜の星に願えばいいと言われたので、その通りにしたのですが……おまじないは効かなかったようですわね。さすがのフレッドも、あの人に仕えて、四十年近くも怒らなかったはずがありませんもの」
そう言って、クラリス様はまたホホホと笑う。軽やかな笑い声は、何か重荷を下ろしたようだった。




