第十九話
「彼の名前はアルフレッド。この日記によると、ボルドー家の面々からはフレッドと呼ばれていたそうです。母がボルドー家に入った頃は、彼はまだ二十代前半。母にとっては親切なお兄さんという感じの存在だったようです」
私が見たのは中年男性で、お兄さんというのに違和感を覚えたが、そこに書かれているのは三十年前の話だ。当時二十代のお兄さんが、今は五十代。何もおかしくない。
「……妙だな」
ジュリアン様が思案げに呟く。
「何が?」
「バルタザールの性格からして、二十代の男を、年の離れた若妻とは関わらせないと思うのだが」
「それは……」
レナード様はちらりと私の方を見た。何か言いにくいことがあるのだろう。
「私は席を外した方が?」
「レナード、フィーネさんは調査協力者だ。情報を共有しないのは失礼だ。フィーネさん、秘密は守っていただけますね?」
「は、はい」
秘密は守る。でも、私に聞かせたくないなら、聞かなくていい。そう思いながらも、ジュリアン様の勢いに気圧されて頷くと、レナード様は意を決したように口を開いた。
「アルフレッドは、去勢をされていたそうだ」
「おっと……それは、バルタザールの指示で?」
ジュリアン様が苦りきった顔で呟く。私は浅木遥花としての記憶から、歴史の教科書にあった「宦官」という言葉を思い出した。
「そこまではわからない。……母は、自分の離婚については、不幸と言うより、自由を取り戻せると考えていた。しかし、離婚して逃げ出せる自分とは違って、アルフレッドには自由を取り戻す日が来ない。それが気掛かりで、母はシスター・ベアトリクスにこう言った。『アルフレッドがいつか、怒りの限界を迎えたら。その時には、バルタザールのカツラがふっ飛んで、何もかも馬鹿馬鹿しくなってしまえばいいのです。彼がその手を汚さないように』」
「……君のお母様は、虐げられている従僕がいつか我慢の限界に達し、主人を殺めかねないと……心配したのか」
「そのようだね。独特の発想だが、母らしいよ」
レナード様は、可笑しさと懐かしさが入り混じったような笑みを見せた。
(カツラが飛ぶなんて、変な呪いだと思ったけど……確かにあの時、険悪な雰囲気が一瞬で喜劇のようになったわ)
カツラが飛ぶ直前のことを思い返してみる。バルタザール氏がアルフレッドさんに八つ当たりをしたきっかけは、書いた書類にインク染みが付いていたからだった。
書類を書いていたのはバルタザール氏本人だ。それなのに、書類にインク染みがついたと、横で控えていただけのアルフレッドさんが理不尽に叱責された。空気は最悪だった。
そこでアルフレッドさんは事故を装ってカツラを飛ばした。あれがアルフレッドさんの我慢の限界に達した瞬間だったのなら、呪いが無ければ、カツラを飛ばすだけでは済まなかったのかもしれない。首を絞めたり、殴り倒したりしていたのかもしれない。
「レナード様のお母様が、アルフレッドさんが道を踏み外さないように、呪いをかけたのだとしたら……」
「難しいですね」
ジュリアン様は背もたれに背中を預け、腕を組む。
「『呪いとは何か』という定義から問い直さなければならないでしょう。今回の場合、バルタザールにとっては不幸だが、同時にそれはアルフレッドを救う。それを呪いと呼び得るか、また呪いの範疇に入るとしても、それならば罰するべき呪いと罰するべきでない呪いがあるのではないか」
難しい話だ。ジュリアン様はふうっと息を吐きながら天井を見上げ、背中を起こした。
「まあ、その判断は私の仕事ではないので、呪いの疑いのある事案として報告することになるでしょう。レナード、その時にはその日記を借りることになるだろう。大事に保管していてくれ」
「今すぐ持って行っても構わない。母は、この呪いについて告白しなければならない日が来たら、然るべき人に渡るように、この日記を遺したのだと思うから」
レナード様は日記を差し出すが、ジュリアン様は首を振る。
「まだ全部読んでいないだろう?私たちが預かってしまったら、他にも呪いについての記述が無いかを探さなくてはならない。君より私たちが先に読む部分があるのは、後味が悪い。これから他の女性にも話を聞かなくてはならないんだ、必要な時が来たらまた出してもらうよ」
ジュリアン様にそこまで言われて、レナード様は諦めた様子で自分の前に日記を置く。
「わかった、とりあえずは持ち帰る。必要な時には言ってくれ」
「ああ、助かる」
話が一段落した気配がして、全員で示し合わせたようにバルタザールの結婚史を書いたノートを眺める。
「現在、居場所がはっきりとわかっているのは二人。リリーナ・ヴァロワと、クラリス・モンタンだ」
ジュリアン様は②と③を指し示す。
「リリーナ・ヴァロワ……こちらについては、協力が得られないんじゃないかな。バルタザールの死後、ボルドー家を継いだランドルフ氏は彼女の息子だ。過去を掘り起こされるのを嫌うと思う」
「ああ、ランドルフ氏はバルタザールの実子ではないと言われているな」
「っ……お前、証拠の無いことを軽々しく言うなよ」
「公然の秘密じゃないか。フィーネさんもご存知ですよね?」
ジュリアン様に問いかけられて、申し訳ないが首を横に振る。
「存じ上げませんでした……そうですか、そんな噂が」
「ほら、お前は少し考えてから話すようにしないと、いつか派手にやらかすぞ。……フィーネさん、これはあくまで噂です。何も根拠は無い」
「わかりました」
頷きながらも、私はあの日に見たランドルフ氏の姿を思い浮かべていた。顔も体型も仕草も声も、バルタザール氏とは似ていなかったなあ、と。
噂に怯える私が、安易に噂を信じかけている。人間は愚かだ。
「話が逸れたな。居場所がわかっていて、立場的に接触してみる価値があるのは、クラリス・モンタンか」
「そうだ。三人目の妻であり、大商家のモンタン家とボルドー家を繋ぐ立場となっている。明日、彼女を訪問することになったから、二人とも頼むぞ」
「は?」
「え?」
「だから、クラリス・モンタンには訪問の約束を取り付けたから、明日行くんだ」
「もっと早く言えよ、人には予定というものがあるだろ!」
「じゃあレナード、帰国したばかりで真面目に求職もしていない君に、明日、外せない予定があるのかい?」
「明日は……偶然、空いているが」
「私に付き合うのが嫌なら、どこかの令嬢に色良い返事をして差し上げたらどうだ?君の帰国を嗅ぎつけて、ローウェル家に招待状がわんさか届いているらしいじゃないか」
レナード様がとても嫌そうな顔で口を噤む。勝負あった、という感じだ。




