第十七話
そういうものなのか。知らない世界だなと思っていると、ジュリアン様の表情が微かに和らいだ。
「フィーネさんには信じられないかもしれませんが、そのような世界があるのです。私も、職務上の必要があって知識として知っているだけです。……まさにそういう場所で、シスター・ベアトリクスはジュリエット・バザンに接触しました。バルタザールに捨てられたと、既に自分から不満を言いふらしていたので、話は早かったそうです」
「でも……、酒場におばあさんが一人でいたら、不自然じゃないかと思うのですが」
「客として居たのではありません。城下では、楽器の演奏者や手品師なんかがあちこちの酒場を回って、客を楽しませることで収入を得る、いわゆる『流し』がいます。シスター・ベアトリクスは流しの占い師としてジュリエット・バザンと出会いました」
「え……?じゃあ、シスター・ベアトリクスの正体は、占い師だったのですか?」
「それは違うと思います。酒場の人間によると、彼女が占い師としてその一帯を流していたのは、二ヶ月程度の短い間だったと――流しの占い師というのはおそらく、ジュリエット・バザンに近付くための一時的な仮の姿だと考えています」
普通は、一人の人物について話を聞けば聞くほど、想像の中では人物像が固まっていくものだ。でも、シスター・ベアトリクスについては、聞けば聞くほど、どんな人なのかという想像すら難しくなっていく。
バルタザール氏と同年代くらいの女性で、彼に呪いをかけたと想像すると、魔女のような近寄り難い雰囲気を連想する。
でもその人物像は、ロザリー様が語ったことにより、あっさり瓦解する。聞き上手で、シスターと呼ぶのが合っている、お祖母様のような雰囲気。年の離れた友人。温かく穏やかな老女が思い浮かぶ。
ジュリエット様の証言は、そんな「おばあちゃん」像ともずれていた。一人、夜の街で酒場を渡り歩き、酔客の未来を占う流しを装ってまで、ジュリエット様との接触を狙っている人物を想像すると、影を背負った、何かを抱えて暗い目をした女性が思い浮かぶ。
「占い師として近付けば、悩みや愚痴を聞くのも自然な流れだな。それで、ジュリエット・バザンは何を話したんだ?」
「彼女としては、あの不健康な高齢男性の先は長くないと予想して、離婚して慰謝料を取るよりも彼の最期を見届けて遺産を得るつもりだったそうです。ですから、バルタザールの方から飽きたと離縁を申し渡したことは、彼女のプライドを酷く傷つけた。……バルタザールを庇うのは不本意ですが、この場合は逆恨みと感じますね」
そういう考え方もあるのか。驚きが表情に出そうになって、俯く。
私も、バルタザール氏と結婚をしなければならなくなり、七十歳という年齢から最期を看取ることになるかもしれないとは思った。しかし、遺産についてはバルタザール家とセリジエ家の間で取り決められ、セリジエ家の取り分は右から左に事業の赤字補填に使われるだろう。私に得は無い。
ジュリエット・バザン様の強かさに感心しながら、ジュリアン様の話を続けて聞く。
「まだバルタザールが彼女の要求を何でも聞き入れていた頃、彼女の希望で特注の大きな鏡がボルドー家に設置されたそうです。離縁する際に、その鏡をバザン家に運ぶとなると大変な輸送費がかかるのがわかり、彼女はその鏡を泣く泣くボルドー家に置いて行った。バルタザールへの恨みと鏡への未練から、彼女はシスター・ベアトリクスにこう語った。『もしバルタザールがあの鏡を壊したら、羞恥心を三千倍の強さで感じればいい。恥知らずなジジイには、そのくらいでちょうどいい』と」
「バルタザールの死後、書斎で大きな鏡が割れていたという報告があったのは、おそらく……その鏡だろうね」
あの日、バルタザール氏の絶叫と一緒に聞こえたのは、鏡の割れる音だったのか。もしジュリエット様の言う通りの呪いがかけられていたら、あの時バルタザール氏は羞恥心が三千倍に?
「だからあの時、あんなに必死に走って……?」
私は当時のことを思い出し、呟いた。
「書斎から出て来たバルタザールは、何かから逃げるような様子だったと言っていましたね」
「はい」
私の目の前を走り抜けて行ったバルタザール氏は、何かに怯えるようだった。その姿を見たのは私だけだったから、ボルドー家で取り調べを受けた時にもそれは伝えた。しかし、彼が死に物狂いで逃げるような原因は見当たらなかったと言われ、保身のための虚言ではないかと疑われた。
「バルタザール・ボルドーは目に見えるものではなく、自分の羞恥心に追われていたとしたら――」
レナード様が呟く。
「その直前にカツラが飛んだり、転びそうになったりと、羞恥心に繋がる出来事はあったそうだから……、それが三千倍になったのなら、取り乱して逃げるのもわかる。本当に、呪いはかけられ、発動していたのかもしれないな」
ジュリアン様がそれに答えるように言う。
私は少し怖くなった。あの時のバルタザール氏の全力疾走が呪いのせいだったなら、彼の死と無関係とは言えない。直接的な「死ね」という呪いでなくても、死に繋がった呪いであったなら、ジュリエット様も何らかの罪に問われるのだろうか。
「……」
「何か引っ掛けるか?」
顎に手を当てて考え込むジュリアン様に、レナード様が問いかけた。
「君のお母様なんだが……もう少し詳しく聞いていないか?」
「シスター・ベアトリクスのことか?」
「それも聞きたいが、それよりも呪いの内容だ」
ジュリアン様はペンを持ち、さらさらとノートに走り書きをする。
新しい妻を迎えようとする→過去の罪を思い出す
鏡が割れる→羞恥心三千倍
?→カツラが飛ぶ
「言いたいことはわかった。ロザリー嬢とジュリエット・バザンは、何かをきっかけにバルタザール・ボルドーに不幸が降りかかるようにと言った。俺の母も、何かきっかけを呪いの発動条件として設定していたのではないか、ということだな」
「そうだ。この三つのうち、外から見て確かに起こったのは、カツラが飛んだことだけだ。バルタザールが何を思い出したかとか、どのくらい羞恥心を強く感じたかとかは内面のことだから、本当に起こったかはわからない。カツラが飛んだのが、君のお母様の言った呪いのせいなのかは、発動条件で判断するしか――あの日、その条件が整ってしまったのであれば、呪いの疑いは濃厚だ。シスター・ベアトリクスを見つけ次第、拘束することが可能になる」




