第十二話
「……はい、『あの日』に初めてお会いしましたので」
「セリジエ卿を擁護するつもりはありませんが、もしかしたら私という前例をご存知で、バルタザールとの縁談を飲まざるを得なかったのかもしれません」
「前例というのは……」
「私の実父であるヴァシュロン家当主は、私の意思を尊重して、バルタザールからの内々の申し入れを拒否してくれました。するとバルタザールは、人を雇い、私を誘拐したのです」
「えっ……?」
当然、誘拐はこの世界でも犯罪だ。大事件だ。でも、ヴァシュロン家の令嬢が攫われたなんて、噂にも聞いたことがない。
「私は誘拐された翌日には解放されました。丸一日と少しを、粗末な食事と虫の出る部屋で過ごしましたが……それ以上は何もされていません。妻となる私が汚されるのを嫌ったバルタザールは、誘拐の実行犯たちへの報酬を、私の純潔を確認した後に上積みすると約束していたそうですから」
驚いて言葉が出ない。私の様子を見て、ロザリー様は淡々と話し続けた。
「バルタザールの狙いは『噂』でした。私がならず者に攫われ、一昼夜を彼らの元で過ごしたのは事実です。でもその事実が明かされたら、どうなるか――」
ロザリー様は明言を避けたが、その続きは私にもよくわかる。事実は憶測を呼び、憶測はより刺激的な作り話へと発展して、事実と不可分になるよう念入りに練り込まれる。できた噂は、そうした味を好む人にとっては事実より美味しくなって、あっという間に多くの人がそれを食べて広がってしまう。
私の場合は、バルタザール氏の最期に居合わせたという事実に、私自身が男性を不幸にするという作り話が練り込まれた。
ロザリー様の場合なら、誘拐されたという事実に、一昼夜凌辱されたという刺激的な作り話が練り込まれる可能性まである。そうなったら、最早、真実は二の次だ。その誘拐がバルタザール氏の指示によるものだと立証し、バルタザール氏を刑に処すことができたとしても、それは凌辱が無かったという証拠にはならない。噂の怖さだ。
「父が手を尽くし、誘拐の件は表沙汰になりませんでした。私は、そのような噂が広まるよりは、バルタザールが飽きるまでの数年を堪えることを選びました。いつ消えるともわからない大火に、面と向かって立ち向かうことは……私には、できませんでした」
ロザリー様の手が拳を作り、小刻みに震える。
「それは……私も、同じです。アデルファ――毒の花と呼ばれ、それに立ち向かうことができずに、箱庭に逃げ込みました。ロザリー様がこうして、違う土地で静かに暮らしていらっしゃるのは、私にとっては希望です」
ロザリー様を励まそうとしたのではない。本当に、そう思った。
バルタザール氏の奸計に陥れられ、若い乙女の時代を虚しい結婚生活に費やしたロザリー様は、ただ根も葉もない噂に悩まされただけの私よりも苦労しただろう。
それでも今、ロザリー様は私よりも自由で、孤独ではない。私も勇気を持って箱庭を出て、新しい生き方を見つけられるのではないか。そんな風に思えた。
「希望……そうですね、今は幸せですから。セリジエ家の方々には怒られてしまうかもしれませんが、家名のために苦しむくらいなら、ぽんと飛び出してしまってもいいと思います」
ロザリー様は声を潜めて言い、小さく笑う。そして軽く背筋を伸ばし、話を切り替えた。
「フィーネ様が私に聞きたかったことというのは、何でしょう?おそらく呪いのことだと思いますが、違うかしら?」
そうだった。私はジュリアン様に協力を求められてここに来た。呪いをかけたくなる気持ちがよくわかる話を聞けたが、肝心の呪いそのものについては聞けていない。
「そうです。ここからは、ジュリアン様の調査への協力者としてお聞きしたいので、後ほど報告をさせていただきます。その前提で、話せることだけで結構です」
ロザリー様は静かに頷いた。私は質問を始める。
「離縁直後、ご友人の方に、愚痴を零すようなことがあったと聞いています。どのようなことを仰ったのか、できればお伺いしたいです」
「……失礼ですが、フィーネ様は今おいくつですか?」
私の年齢が何か関係あるのだろうか。そう疑問に思いながら、答える。
「二十歳です」
「あら。ちょうど、私がバルタザールと離婚したのが二十歳の時でした。あの時、私、思ったのです。バルタザールの妻は私で十人目。もう、いいんじゃないかって。これ以上、この一人の老人のために若い女性が傷つくのは見たくないと……だから私、言ったのです」
核心に触れる前に、ロザリー様は一旦呼吸を整えた。決意をした眼差しで私を見て、遂に、口を開く。
「もしバルタザールが、懲りずにまた若い女性に手を出したら、これまでの悪事の全てを思い出せばいい、と」
「それだけ……ですか」
呟いてしまったのは、肩透かしだったからだ。
ジュリアン様とレナード様が聞き出せなかった部分だ。もっと手酷い目に遭うことを望むか、人に言えないような下品な願いかを予想していた。
「私は彼に離縁を言い渡され、それに従いました。それまでの九人の方々がいたおかげで、数年で飽きられることはわかっていましたから、最初からその日を待ち望んでいたのです。それでも、徒労感はありました。心の伴わない結婚生活であっても、良き妻であろうとはしたのです。それでも結果は同じでした」
ロザリー様の誠実な人柄がわかる。誘拐までされて、嫌々ながら結婚したのに、ご自分の振る舞いで少しでも良い方向に行けばと考えたのだろう。
「私は何とかして、彼自身に彼の罪を自覚してほしかったのです。自分の過去を反省してくれたら、女性に食指を伸ばす気にならないのではないかと」
ロザリー様は、そう考えた当時の自分を懐かしむように遠い目をして、少し笑った。
どうして、「過去の悪事を思い出せ」という部分をジュリアン様やレナード様に言わなかったのか、わかる気がする。今のロザリー様から見れば、それはあまりにもバルタザールの善性に期待した願いだったと感じるのだろう。二十五歳の浅木遥花の記憶を取り戻した私には、その気持ちがわかる。
「……呪いの内容が、ロザリー様の望まれたことだとしても……罪に問われるのは、それを呪いとした術者だけだとジュリアン様が仰っていました」
きっと、罪に問われないからといって、ロザリー様は喜ばない。私は迷いながらも、念の為にそう言っておいた。




