第5話「未踏の国境線と、赤き残党の影」
木剣と木剣が激しくぶつかり合う乾いた音が、朝の裏庭に響き渡る。
ルークは重心を低く落とし、足元の土を蹴って鋭く踏み込んだ。
水平に薙ぎ払われた刃を、レオンはかすかな身のよじりだけで避ける。
そのまま流れるような動作で反撃の突きが放たれた。
ルークはそれを受けず、右手の指先を虚空へ滑らせる。
空気がねじれ、黒い波紋が生じた。
空間の歪みから突如として現れたのは、硬く重い樫の丸太だった。
レオンは舌打ちを一つ落とし、手首を返して木剣の腹で丸太を弾き飛ばす。
その一瞬の隙を見逃さず、ルークは意識を数メートル先の座標へと飛ばした。
足元の景色がブレて消失し、次の瞬間にはレオンの背後に立っている。
ルークの木剣が、レオンの首筋のすぐ横でぴたりと止まる。
「そこまで」
ルークが静かに告げると、レオンは両手を上げて肩の力を抜いた。
「降参だ。空間から物を出すタイミングが、以前よりずっと読みにくくなってる。それに、あの至近距離での転移は反則に近い」
レオンは額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、小さく息を吐き出す。
郵便商会に彼が護衛として加わってから、数週間が経過していた。
毎朝の模擬戦は、ルークにとって自身のスキルを戦闘に応用するための重要な訓練となっている。
レオンの並外れた剣戟を凌ぎ続けるうち、ルークの空間把握能力は研ぎ澄まされた刃のように鋭さを増していた。
「レオンが手加減してくれているのがわかるよ。本気で魔力を使われたら、俺なんて一瞬で黒焦げだからな」
ルークは木剣を下ろし、空間収納の揺らぎの中へ仕舞い込む。
そのとき、裏口の扉が開き、エプロン姿のアリアが顔を出した。
「お二人とも、朝食の準備ができましたよ。汗を拭いて、中へ入ってください」
彼女の手には、湯気を立てるおしぼりが二つ握られている。
ルークとレオンはそれを受け取り、顔を拭いながら食堂へと向かった。
テーブルの上には、焼きたてのパンと、野菜がたっぷり入った具沢山のスープが並べられている。
三人が席につき、穏やかな食卓の時間が始まった。
パンをスープに浸しながら、ルークが切り出す。
「昨日、王城の侍従長様から新しい依頼が入ったんだ。隣国のフェルデン王国へ、越冬用の支援物資を届けてほしいとのことだ」
アリアがスープを飲む手を止め、目を丸くする。
「フェルデン王国ですか。ここからだと、馬車でも二週間はかかる距離です。それに、ルーク様はまだ行ったことがない場所ですよね」
「ああ。だから今回は、絶対座標転移が使えない。自らの足で国境を越え、フェルデンの砦まで行く必要がある」
ルークの言葉に、レオンが真剣な表情で身を乗り出す。
「馬車で二週間の道のりか。街道には盗賊も出るし、何より国境沿いの山脈地帯は強力な魔獣の縄張りだ。俺が護衛として同行するのは当然として、アリアはどうする」
「私も行きます」
アリアが即座に答えた。
「今回の道のりは長いですし、夜の野営では私が作った防壁の魔法具が必ず役に立ちます。それに、馬車の整備や食事の管理も任せてください」
彼女の紫水晶の瞳には、強い意志が宿っている。
ルークは小さく微笑み、深くうなずく。
「わかった。三人でフェルデンへ行こう。物資はすべて俺の空間収納に入れるから、荷馬車は必要ない。俺たちが乗るための頑丈な馬車を一台手配しよう」
◆ ◆ ◆
二日後。
準備を整えた三人は、郵便商会の看板を一時的に下ろし、一台の馬車で王都を出発する。
御者台にはレオンが座り、手綱を握っている。
ルークとアリアは幌の中に座り、地図を広げて今後の経路を確認していた。
窓の外には、黄金色に色づいた麦畑がどこまでも広がっている。
秋の冷涼な風が幌の隙間から吹き込み、アリアの銀色の髪を揺らす。
「ルーク様。この山脈を越えれば、フェルデンの領土ですね」
アリアが地図の一点を指差す。
王都を出発して十日が経過し、馬車は国境の険しい山道へと差し掛かっていた。
道幅は狭くなり、両側には切り立った崖と深い森が迫っている。
日差しは木々に遮られ、周囲の空気は薄暗く、そして冷たい。
御者台のレオンが、ふいに手綱を引いて馬車を止めた。
馬たちが不安げにいななき、前脚で地面を掻く。
「どうした、レオン」
ルークが幌から顔を出すと、レオンは鋭い視線を前方の茂みに向けている。
「……血の匂いがする。それと、強い魔力の気配だ」
レオンの赤い瞳が細められる。
直後、前方の木々がなぎ倒され、巨大な影が姿を現した。
黒い鋼鉄のような外殻に覆われた、巨大な四足歩行の魔獣。
その背中には、ボロボロの革鎧をまとい、顔を布で隠した者たちが数人乗っている。
「人間どもの馬車だ! 荷物を奪え!」
かすれた声の怒号が響き、魔獣が地響きを立てて突進してくる。
ルークは即座に幌から飛び降り、アリアに叫ぶ。
「アリアは馬車の中で防壁を展開してくれ! レオン、迎撃するぞ!」
「了解だ!」
アリアが木箱から魔法具を取り出すと、青白い光のドームが馬車を包み込んだ。
レオンは短剣を抜き放ち、前衛へと躍り出た。
彼の全身から赤い魔力が立ち上り、短剣の刃に高温の炎をまとわせる。
「魔王軍の残党か……。こんな辺境まで落ち延びていたとはな」
レオンが奥歯を噛み締め、吐き捨てる。
魔族の中でも、人間との融和を拒み、略奪を繰り返す強硬派の集団。
かつての同胞の姿に、レオンの顔が険しく歪む。
巨大な魔獣が太い前脚を振り上げ、レオンの頭上へと振り下ろす。
レオンは炎の短剣を交差させてそれを受け止めるが、桁違いの質量に膝が深く曲がった。
「くそっ、装甲が硬すぎる。俺の炎でもすぐには焼き切れねえ!」
レオンの足元の地面がひび割れ、土煙が上がる。
魔獣の背に乗っていた残党たちが、一斉に毒矢を放ってくる。
『空間解放』
ルークの声と共に、レオンの頭上に黒い歪みが出現する。
そこから分厚い鉄板が落下し、降り注ぐ毒矢をすべて弾き落とした。
ルークはその隙に、自身の身体を魔獣の真上へと転移させる。
空中に出現したルークは、落下しながら両手を広げる。
魔獣の巨大な頭部の直上。
そこへ向けて、空間収納の扉を最大まで開け放つ。
放出されたのは、以前の旅で収納し、川の底から採取しておいた大量の濁流だった。
数トンにも及ぶ水の塊が、凄まじい水圧と共に魔獣の頭上へ叩きつけられる。
予期せぬ質量の暴力に、魔獣の巨体が大きく体勢を崩した。
ルークは空中で再び転移を発動し、安全な地面へと着地する。
「レオン、関節を狙え!」
「任せろ!」
体勢を崩した魔獣の装甲の隙間、装甲が覆っていない柔らかな関節部。
レオンはそこへ向けて、限界まで炎を圧縮した短剣を突き立てる。
肉を焦がす異臭と、魔獣の鼓膜を破るような悲鳴が森に響き渡った。
魔獣は膝から崩れ落ち、そのまま動かなくなる。
背に乗っていた残党たちは地面に放り出され、泥まみれになって呻き声を上げている。
レオンが炎の刃をちらつかせながら、彼らを見下ろす。
「命が惜しければ、大人しく武器を捨てろ」
残党たちは恐れおののき、持っていた武器を地面に投げ捨てる。
その中の一人、リーダー格と思われる男が、覆面をずらしてレオンを睨みつけた。
男の顔には深い傷跡があり、目は飢えた獣のように落ち窪んでいる。
「裏切り者のレオン……。人間に尻尾を振って、俺たちを殺す気か」
「殺しはしない。だが、なぜこんな場所で略奪をしている。魔王軍はすでに解体されたはずだ」
レオンの問いかけに、男は力なく嗤う。
「解体されたからだ。俺たちは行き場を失い、食料も尽きた。故郷の村には、飢えに苦しむ女子供が残されている。生きるためには、奪うしかなかったんだよ」
男の目から、血の混じったような涙がこぼれ落ちる。
レオンは息をのみ、短剣を持つ手をわずかに下ろした。
彼の脳裏に、かつて病床で苦しんでいた妹の姿がフラッシュバックする。
ルークは無言で歩み寄り、男の前にしゃがみ込む。
「お前たちの村は、ここから近いのか」
「……この山を越えた先の、枯れた谷の底だ」
男が警戒しながら答える。
ルークは立ち上がり、レオンと視線を交わした。
「寄り道になるが、いいか」
「ルーク……。いいのか、こいつらは俺たちを殺そうとしたんだぞ」
「俺たちは郵便商会だ。必要なものがあるなら、届けるのが仕事だろ」
ルークの真っ直ぐな瞳に、レオンは深く息を吐き出し、そしてかすかに口角を上げる。
「あんたのそういうところ、本当にどうかしてるぜ。だが、嫌いじゃない」
馬車の防壁を解除したアリアも、ルークの決定に異論はないようだった。
三人は縛り上げた残党たちを馬車の荷台に乗せ、彼らの案内で枯れた谷へと進路を変更する。
木々の隙間から差し込む光が、少しずつ赤みを帯び始めていた。




