第4話「哀しき魔族の刃と、差し伸べられた手のひら」
王家からの極秘依頼を達成してから数日が経過した。
郵便商会の店先の壁には、王室御用達の紋章を刻んだ木札が誇らしげに掲げられている。
ザンガス商会の下っ端たちはその木札を見るなり青ざめ、店の周囲からすっかり姿を消した。
ルークとアリアは平穏な日常を取り戻し、次々と舞い込む依頼をこなしていく。
夜の帳が下り、街の明かりが一つまた一つと消えていく時間。
ルークは帳簿の整理を終え、椅子の背もたれに深く体を預けた。
奥の居住スペースからは、アリアが夕食の準備をする温かな匂いが漂ってくる。
鍋で煮込まれる野菜と肉の香りが、一日の疲労を静かに溶かしていく。
ふと、ルークは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
長年の冒険者生活で培われた肌感覚。
窓の外の闇が、不自然に淀んでいる。
ルークは立ち上がり、音を立てずにランプの火を吹き消す。
店内が深い闇に包まれる。
「アリア。奥の部屋から出ないでくれ」
扉越しに低く鋭い声で伝える。
アリアの動く気配が止まり、小さな息をのむ音が聞こえた。
直後、店の裏口の分厚い木製ドアが、音もなく内側へと開く。
鍵はかかっていたはずだが、錠前が溶かされたように破壊されている。
闇の中から、人影が一つ滑り込んできた。
足音は一切なく、まるで床を滑るように移動している。
雲の切れ間から差し込んだ月光が、侵入者の姿を青白く照らし出した。
くすんだ銀色の髪と、鋭く尖った耳。
その瞳は血のような真紅に染まり、冷たい光を宿している。
人間ではない。
魔族の青年だ。
青年の手には、毒が塗られたような鈍い色を放つ短剣が握られている。
「ザンガス商会の差し金か」
ルークが暗がりから声をかけると、青年はわずかに肩を揺らす。
しかし返答はなく、短剣を逆手に構え直して床を蹴った。
常人には目で追えないほどの踏み込み。
刃が空気を切り裂き、ルークの喉笛へ真っ直ぐに迫る。
ルークは動揺することなく、右手の指先を虚空へ滑らせた。
空間が波打ち、見えない扉が開く。
ルークの目の前に、分厚い鋼鉄の盾が突如として出現する。
甲高い金属音と共に、青年の短剣が盾に弾かれた。
火花が散り、青年の手首が衝撃で大きく跳ね上がる。
「なっ……」
青年が初めて驚愕の声を漏らす。
何もない空間から盾が現れた事実に、彼の思考がわずかに停止した。
その隙を見逃さず、ルークは空間から一本の木の棒を引き出し、青年の足を払う。
バランスを崩した青年は床に倒れ込むが、すぐに獣のような身のこなしで跳ね起き、距離を取る。
青年の息が荒くなっている。
肩で息をするたびに、彼の胸元から銀色の小さなペンダントがこぼれ落ちた。
ペンダントの蓋が衝撃で開き、中に収められた小さな肖像画が月光に照らされる。
そこには、青年と同じ銀色の髪を持つ、幼い少女の笑顔が描かれていた。
青年は血相を変えてペンダントを拾い上げ、胸の奥へと押し込む。
その動作には、己の命よりも大切なものを守ろうとする必死さがにじみ出ている。
「なぜ、そんなに焦っている」
ルークは木の棒を下ろし、静かな声で問いかける。
「魔族が人間の商会に雇われ、暗殺まがいのことをする理由は何だ」
青年は唇を強く噛み締め、真っ赤な瞳でルークを睨みつける。
「お前ら人間には関係ない。俺は、あいつを助けるために金が要るんだ」
絞り出すような声には、深い絶望と怒りが入り交じっていた。
「金か。そのペンダントの少女に関係があるのか」
ルークの言葉に、青年は短剣を握る手を震わせる。
「妹は、原因不明の重い病に冒されている。隣町の優れた医師が持つ希少な万能薬がなければ、あと数日の命だ。俺は薬を手に入れるためなら、どんな汚れ仕事でもやる」
青年は再び殺気を高め、姿勢を低くした。
ザンガス商会は、妹の命を盾にしてこの青年を都合のいい駒として使っているのだ。
ルークは静かに目を閉じ、そしてゆっくりと目を開ける。
「お前の名前は」
「……レオンだ」
「レオン。その短剣を引け。お前が俺を殺しても、ザンガス商会が素直に薬を渡す保証はないだろう」
レオンの動きがピタリと止まる。
レオンの真紅の瞳の奥で、悪徳商会の言葉に対するかすかな疑念が揺らいだ。
「俺が、その薬を持ってきてやる」
ルークの思わぬ提案に、レオンは目を丸くする。
「ばかを言うな。その薬は隣町の大きな診療所にしかなく、しかも莫大な金がかかる。今から向かっても、妹の命には間に合わない」
「俺の商会は、世界で一番速く荷物を届けることができるんだ」
ルークはそう言い残すと、レオンの返事を待たずに精神を集中させる。
隣町の診療所。
以前、アリアの魔法具を届けたあの場所の座標を脳内に描く。
空間がねじれ、ルークの姿が音もなく消失した。
残されたレオンは、短剣を構えたまま呆然と立ち尽くす。
◆ ◆ ◆
夜の静寂に包まれた隣町の診療所。
ルークが裏庭に出現し、急いで扉を叩くと、パジャマ姿の初老の医師が顔を出した。
ルークの顔を見るなり、医師は驚きの声を上げる。
「ルーク殿。こんな夜更けに、またあの魔法のような移動で来たのかね」
「先生、夜分に申し訳ない。どんな病も治すという希少な万能薬を売ってほしい。王家からいただいた報酬がある。言い値で買う」
ルークは空間から金貨の詰まった革袋を取り出し、医師に手渡す。
医師は革袋の重みを確認し、深くうなずいた。
「あのときの恩返しだ。金は規定の薬代だけでいい。すぐに用意しよう」
数分後。
小さなガラス瓶に入った青い液体の薬を受け取り、ルークは再び空間を跳躍する。
◆ ◆ ◆
郵便商会の店内に、再び空間の歪みが生じる。
ルークが姿を現すと、レオンは先ほどと同じ場所で立ち尽くしていた。
ルークの不在は、ほんの数分に過ぎない。
ルークはレオンの前に歩み寄り、青い液体が入った小瓶を差し出す。
「これが、妹さんの特効薬だ」
レオンは震える手で小瓶を受け取った。
月の光に透かして見つめ、その色と匂いを確認する。
「本物だ……。本当に、数分で隣町からこれを……」
レオンの赤い瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
短剣が床に落ち、硬い音を立てた。
彼はその場に崩れ落ち、両手で顔を覆って声を殺して泣き咽ぶ。
張り詰めていた糸が切れ、抑え込んでいた感情があふれ出していた。
奥の扉が静かに開き、アリアが顔を出す。
彼女は事情をすべて聞いていたのか、温かいお茶の入ったカップを二つ持ち、ゆっくりと歩み寄る。
「温かいお茶をどうぞ。夜風で、体が冷えてしまいますから」
アリアはレオンの前にカップを置いた。
レオンは涙を拭い、顔を上げる。
「なぜ……俺はあんたたちを殺そうとしたんだぞ」
「俺たちは郵便商会だ。困っている人がいるなら、必要なものを届けるのが仕事だからな」
ルークは微笑み、自分のカップに口をつける。
レオンは深く頭を床に擦り付けた。
「この恩は、一生忘れない。妹が良くなったら、俺をあんたたちの護衛として雇ってくれないか。命に代えても、この店とあんたたちを守り抜く」
ルークとアリアは顔を見合わせ、静かにうなずき合う。
「よろしく頼むよ、レオン」
数日後。
郵便商会の奥の居住スペースには、新しい木製の椅子が一つ増えていた。
湯気を立てるシチューの鍋を囲み、ルーク、アリア、そして穏やかな表情を取り戻したレオンが座っている。
外には冷たい風が吹いているが、部屋の中は温かなランプの光と、三人の静かな笑い声に満ちていた。
かつての敵が仲間となり、小さな商会はまた一歩、確かな絆と共に未来へと歩み始める。




