第3話「王室の極秘依頼と忍び寄る悪意」
朝の柔らかな光が、郵便商会の磨き上げられた窓ガラスを通り抜ける。
無垢材のカウンターに落ちた影が、ゆっくりと形を変えていた。
アリアは新しい羊皮紙を広げ、インク壺に羽ペンを浸す。
ペン先が紙の上を滑るかすかな摩擦音が、静かな店内に心地よく響く。
彼女は依頼人から預かった荷物の宛先を、丁寧な文字で帳簿に書き込んでいた。
店先の空気が唐突にねじれ、波紋のような歪みが生まれる。
次の瞬間、かすかな風のうねりと共にルークが姿を現した。
彼の肩には朝露がわずかに付着し、遠方の冷たい空気をまとっている。
「おはよう、アリア。北の鉱山街への配達、完了した」
ルークは空間の揺らぎから書類を取り出し、カウンターに置いた。
そこには受取人の見事な署名と、受け取り完了を示す赤い蝋印が押されている。
「お疲れ様です、ルーク様。本当に、あっという間ですね」
アリアは羽ペンを置き、淹れたての紅茶が入ったカップを差し出した。
ルークはカップを受け取り、立ち上る湯気を軽く吹き払う。
喉を通る温かい液体が、転移でわずかに冷えた内臓をじんわりと温めていった。
郵便商会を開業してから一ヶ月。
ルークの絶対座標転移を利用した配達は、街の商人たちの中で瞬く間に噂となった。
腐敗しやすい生鮮食品や、一刻を争う医療品。
それらを距離の概念を無視して届けるサービスは、多くの人々に重宝されている。
アリアの作る魔法具も、ルークの仕入れによって材料費が大幅に抑えられ、安定した利益を生み出し始めていた。
しかし、光が強くなれば影もまた濃くなる。
ルークがカップを置いたとき、入り口の扉が乱暴に叩かれた。
「邪魔するぜ」
扉を押し開けて入ってきたのは、粗末な革鎧を着た三人の男たちだった。
彼らの服からは、汗と安い酒が混ざったような饐えた匂いが漂ってくる。
先頭に立つ顎髭の男が、ブーツの底で床をわざと強く踏み鳴らす。
「ここが、最近調子に乗ってるっていう新入りの店か」
アリアが肩をビクッと震わせ、ルークの背後に隠れるように身を寄せる。
ルークは静かに前に出て、男たちの視線を真っ向から受け止めた。
「何の用だ。荷物の依頼なら順番に受けるが」
「とぼけるなよ。お前らのせいで、俺たちザンガス商会の運送部門は赤字続きなんだよ」
顎髭の男がカウンターに両手をつき、顔を近づけてくる。
ザンガス商会。
この街の物流と流通の大部分を牛耳り、高額な運送料を不当に搾取していると噂の巨大商会だ。
貴族との癒着も囁かれており、逆らう者は力ずくで排除されるという。
「商売は自由競争だ。そっちの料金が高すぎるのが原因じゃないのか」
「減らず口を叩くな。いいか、明日までに店をたため。さもないと、この綺麗な顔のお嬢さんが夜道でどうなっても知らないぜ」
男が品のない笑みを浮かべ、アリアの方へ視線を送る。
ルークの瞳の奥に、静かな怒りの火が灯る。
右手の指先がかすかに動き、空間収納の扉を開く準備を整える。
彼の手元に、重い鉄塊をいつでも引き出せるように照準を合わせた。
「騒々しいな。ここは商いの場ではないのか」
一触即発の空気を切り裂くように、凛とした声が店内に響く。
入り口の扉の前に、深い青色の外套を深く被った人物が立っていた。
男たちが振り返り、舌打ちをする。
「なんだ、お前は。引っ込んでろ」
男の一人が外套の人物の肩を乱暴に押そうとする。
外套の人物は一歩も引かず、外套の隙間から胸元の銀色の紋章をちらりと見せる。
二本交差した剣と、それを取り囲む月桂樹の意匠。
それを見た瞬間、男たちの顔から血の気が引いた。
「王家直属の……騎士団」
顎髭の男が震える声でつぶやき、仲間たちを連れて逃げるように店から転がり出ていく。
外套の人物は小さくため息を吐き、フードを後ろに下ろす。
現れたのは、整った顔立ちと鋭い眼光を持つ、初老の紳士だった。
身のこなしには隙がなく、長い年月を修練に捧げた者の歩み方をしている。
「助けていただき、ありがとうございます。依頼のお客さんでしょうか」
ルークが警戒を解き、静かに問いかける。
紳士は店内を見渡し、アリアとルークを交互に見つめた。
「私が客かどうかは、君たちの腕次第だ。ルーク殿とお見受けする」
紳士はカウンターの前に立ち、懐から一通の封筒を取り出す。
封蝋には先ほどと同じ、王家の紋章が押されている。
「私は王城の侍従長を務めている者だ。君の奇妙な『空間跳躍』の噂を聞きつけ、極秘の依頼を持ってきた」
侍従長の言葉に、アリアが息をのんで両手で口を覆う。
ルークは表情を変えずに続きを促す。
「明日の夜、王家主催の重要な式典が行われる。それに必要な『星霜のしずく』という霊草を、今日の夕暮れまでに王城へ届けてほしいのだ」
「王城には、専属の調達係がいるはずですが」
ルークの疑問に、侍従長の顔が険しく歪む。
「調達係が乗った馬車が、何者かの襲撃を受けたのだ。『星霜のしずく』を採取しに向かう途中で馬車を破壊され、足止めを食らっている。幸い馬や乗り手は無事だったが、新たな馬車を手配しても、夕暮れには到底間に合わない」
先ほどのザンガス商会の男たちの顔が、ルークの脳裏をよぎる。
王城への物資供給ラインを遅延させ、自らの商会を通じて恩を売ろうとする算段かもしれない。
あるいは、特定の貴族が式典を妨害しようとしている可能性もある。
「星霜のしずくは、南の最果てにある月影の谷にしか自生しない。君の力なら、そこへすぐに行けるか」
「月影の谷なら、以前の旅で野営をしたことがあります。空間の座標は記憶しています」
ルークの返答に、侍従長の目にかすかな安堵の色が浮かんだ。
「ならば頼む。報酬は望むままに出そう。王家の威信に関わる問題なのだ」
「報酬は規定の料金で構いません。ただ、一つだけ条件があります。この仕事が成功したら、王室御用達の商会として、この郵便商会を認めていただきたい」
ルークは真っ直ぐに侍従長の目を見つめる。
王家のお墨付きがあれば、ザンガス商会のようなチンピラが手出しすることは不可能になる。
アリアを守り、商会を安全に運営するための最善の盾だ。
侍従長は少し考え込み、やがて力強くうなずく。
「君が成し遂げたなら、私が責任を持って国王陛下に進言しよう」
「契約成立ですね。アリア、少し留守にする」
ルークはアリアに振り返り、軽く片手を上げた。
アリアは心配そうな顔をしながらも、深くうなずいて送り出す。
ルークは意識を集中し、記憶の奥底から月影の谷の風景を引きずり出した。
青白い苔が光る湿った岩肌。
冷たく澄んだ空気の匂い。
足元で空気がうねりを上げ、空間が歪む。
ルークの姿は、店の中から瞬時に消え去った。
◆ ◆ ◆
視界が晴れると、ルークは青白い光に包まれた静寂の谷に立っていた。
岩肌の隙間から、銀色の葉を持つ小さな草が淡い光を放っている。
星霜のしずくだ。
ルークは慎重に根元から採取し、土ごと特殊なガラスの容器に収めた。
それを空間収納の奥深くにしまい込み、再び王城の座標を思い描く。
城の正門前ではなく、侍従長から指定された離宮の裏庭。
再び空間を跳躍し、ルークは夕暮れ前の赤く染まる空の下に降り立つ。
周囲には手入れの行き届いた植え込みが並び、鳥たちのさえずりが聞こえる。
「ルーク殿。本当に、戻ってきたのか」
庭の隅で待機していた侍従長が、目を丸くして駆け寄ってくる。
ルークは空間からガラスの容器を取り出し、侍従長に手渡した。
銀色の葉が、夕日を反射して美しくきらめいている。
「確かに、星霜のしずくだ。鮮度も申し分ない。まるで今しがた摘んできたかのようだ」
侍従長の震える手が、容器をしっかりと抱きしめる。
「これで、式典は無事に執り行える。君は王家を救ってくれた」
侍従長は深く頭を下げ、懐から一つの短剣を取り出した。
柄の頭に、王家の紋章が刻まれた美しい短剣だ。
「これは王室御用達の証であり、王家の保護下にあることを示すものだ。君の商会に、これを授けよう」
ルークは短剣を受け取り、その重みと冷たさを手のひらで確かめる。
「感謝します。これで、安心して配達が続けられます」
商会に戻ると、アリアが不安で泣きそうな顔をして待っていた。
ルークが王家の短剣を見せると、彼女の瞳から大きな涙の粒がこぼれ落ちる。
これで、理不尽な暴力に怯える夜は終わる。
しかし、権力という盾を手に入れたことで、暗闇に潜む悪意はより鋭い刃となって彼らに襲いかかろうとしていたことを、ルークはまだ知らない。




