第2話「規格外の配達網と、森に潜む牙」
冷たい雨の匂いが、唐突に乾いた土の匂いへとすり替わる。
ルークの視界がブレて元に戻ったとき、彼はすでに隣町の裏路地に立っていた。
雨は降っておらず、雲の隙間から薄い日差しが差し込んでいる。
空間を跳躍するときのわずかな浮遊感を振り払い、彼はすぐに歩き出した。
記憶を頼りに診療所の前へと向かう。
古びた木の扉を叩くと、疲れ切った顔をした初老の医師が顔を出す。
「どちら様かな。今は急患で手が離せないのだが」
「アリアさんからの依頼の品をお持ちしました。空気を浄化する魔法具です」
医師の顔色が一瞬にして変わる。
疑念と驚きが入り交じった視線が、手ぶらのルークに向けられた。
「アリア殿の……? しかし、君は何も持っていないではないか」
ルークは何も言わず、空間の揺らぎに手を差し入れる。
中から、傷一つないきれいな状態の木箱を取り出し、医師の手に渡した。
突然現れた木箱に、医師は息をのんで後ずさりする。
「こ、これは……確かにアリア殿の印が刻まれている。しかし、どうやって」
「少し特殊な運び方をしました。急いで使ってやってください」
医師は何度もうなずき、震える手で木箱を抱えて診療所の中へ駆け込んでいく。
ルークは依頼の完了を確認し、再び路地裏の死角へと移動する。
頭の中に、アリアが待つ廃屋の座標を描き出す。
空間が歪み、世界が反転する感覚と共に、ルークの姿は再び街から消え去った。
◆ ◆ ◆
廃屋に戻ると、アリアは毛布に包まれたまま不安そうにストーブの火を見つめている。
ルークが音もなく現れたのを見て、彼女はビクッと肩を震わせた。
「お届け完了だ。診療所の先生に直接渡してきた」
ルークの報告に、アリアは目を丸くして言葉を失う。
「……嘘、ですよね? まだ、十分も経っていませんよ」
「本当だ。信じられないなら、後で診療所に確認に行くといい」
ルークはそう言って、空間収納から温かいお茶の入った水筒を取り出し、アリアの器に注いだ。
「俺のスキルは空間収納と絶対座標転移だ。一度行った場所なら、一瞬で移動できる」
アリアはお茶を一口飲み、その温かさにふうと息を吐き出す。
ルークの言葉を脳内で反芻し、彼女の紫水晶の瞳に次第に強い光が宿っていく。
「ルーク様。そのスキルがあれば、どんな危険な道でも、どんなに遠い場所でも、安全かつ一瞬で物を運べるということですか」
「まあ、そういうことになるな。座標を知らない場所に行くには、一度自分の足で赴く必要があるが」
アリアは毛布を握りしめ、真剣な表情でルークを見上げた。
「私と、手を組みませんか」
唐突な提案に、ルークは目をぱちくりとさせる。
「私の作る魔法具は、性能には自信があります。ですが、素材の仕入れや完成品の配達に莫大な費用と時間がかかってしまい、いつも赤字ギリギリなのです。悪徳な商人たちからは、足元を見られて安く買い叩かれます。でも、ルーク様のスキルがあれば、物流の常識を根底から覆すことができます」
アリアの言葉には、切実な熱がこもっていた。
ルークはあごに手を当てて考え込む。
勇者パーティーを追放され、これからの生活の当てはない。
自分のスキルを必要としてくれる人がいるのなら、それは悪くない話だった。
「わかった。やってみよう」
ルークの返事に、アリアは顔をほころばせた。
泥だらけの顔に浮かんだその柔和な笑みは、とても晴れやかだった。
◆ ◆ ◆
数日後。
二人は最初の本格的な依頼を受けることになった。
依頼内容は、ささやきの森の奥深くにある開拓村へ、農地の土壌を改良する大型魔法具を届けるというものだ。
まだルークが行ったことのない場所であるため、今回は転移を使わず、森を歩いて抜ける必要がある。
うっそうと茂る木々が陽の光を遮り、森の中は薄暗かった。
湿った土と腐葉土の匂いが鼻をつく。
ルークは先頭を歩き、その後ろをアリアがついていく。
彼女の背中には荷物はなく、歩きやすい身軽な服装をしていた。
重い魔法具はすべてルークの空間に収められている。
「ルーク様、気をつけてください。この森には凶暴な魔獣が棲み着いていると聞いています」
アリアが周囲を警戒しながら小声で言う。
「ああ、わかっている」
ルークが答えた直後、前方の茂みが大きく揺れる。
低い唸り声と共に、三頭の黒い獣が姿を現した。
鋭い牙と血走った目を持つ、フォレストウルフだった。
獣たちは獲物を見つけた喜びに涎を垂らし、低い姿勢でじりじりと距離を詰めてくる。
アリアが息をのみ、一歩後退した。
「ルーク様、武器を」
しかし、ルークは剣を抜くことはしない。
彼は落ち着いた動作で右手を前に突き出し、空間の揺らぎを展開する。
『空間解放』
ルークのつぶやきと共に、頭上の空間が大きく歪む。
黒い穴から巨大な質量を持った物体が、すさまじい勢いで落下してくる。
それは、ルークが以前の旅で収納し、処遇に困っていた巨大な岩石だった。
岩石はフォレストウルフたちの頭上に正確に降り注ぐ。
肉が石と土に挟まれ、押し潰される鈍い音が森に響き渡った。
二頭のウルフは岩の下敷きとなって完全に沈黙する。
残った一頭がパニックに陥り、尻尾を巻いて茂みの奥へと逃げ去っていく。
ルークは静かに手を下ろし、再び空間の扉を閉じた。
「これで道は開けたな。行こう」
振り向いて告げるルークに、アリアは言葉を失って立ち尽くしている。
「あ、あの……今のは」
「空間収納の応用だ。重い物を高い位置から出すだけで、立派な攻撃になる」
ルークはこともなげに言い、歩き出す。
剣を振るう力や魔法の才能がなくても、戦い方はいくらでもあった。
ただ物を出し入れするだけのスキルも、使い方次第で牙となるのだ。
その後も何度か魔獣に遭遇したが、ルークはその度に空間から丸太や大量の泥水を放出し、物理的な質量で道を切り開いていく。
やがて木々がまばらになり、視界が開ける。
遠くに開拓村の小さな家屋が見えてきた。
「着いたな」
「はい。信じられません。こんなに安全に、しかも早く森を抜けられるなんて」
アリアは上気した顔で息を弾ませていた。
村の長に魔法具を引き渡し、二人は多額の報酬を受け取る。
帰り道は、村の座標を記憶したルークの転移スキルにより、一瞬で街へと戻ることができた。
手に入れた報酬を元手に、二人は街の裏通りにある小さな空き店舗を借りる。
埃まみれの床を掃除し、古い机を一つ置いた。
「これで、私たちの拠点ができましたね」
アリアが窓枠を拭きながら、うれしそうに振り返る。
「ああ。名前はどうする」
ルークが尋ねると、アリアは少し考えてから微笑んだ。
「郵便商会、というのはどうでしょう。誰よりも早く、確実に思いを届ける。そんな意味を込めて」
「郵便商会か。いい名前だ」
ルークは机の埃を払い、窓の外の空を見上げる。
雨はすっかり上がり、雲の隙間から澄んだ青空が顔を出している。
役立たずと蔑まれた荷物持ちと、行き倒れの令嬢。
二人の小さな商会が、今、産声を上げた。




