番外編「月明かりの工房と、不器用な手のひら」
◇アリア視点
真鍮の歯車が噛み合うかすかな音が、深夜の作業部屋に静かに響いていました。
私は手元のランプの芯を少しだけ上げ、琥珀色の光の中でピンセットの先を見つめます。
空間の歪みを調整する小さな魔石を、金属の台座へと慎重にはめ込みました。
カチリという硬い感触が指先に伝わり、魔法具の核となる部分がようやく完成します。
私は大きく息を吐き出し、凝り固まった肩をゆっくりと回しました。
窓の外を見上げると、雲の切れ間から冷たい月明かりが差し込んでいます。
王都の街はすでに深い眠りについており、遠くで夜風が木々を揺らす音だけが聞こえていました。
机の上に散らばった工具を片付けようとしたとき、店の表口の扉が開く重い音が耳に届きました。
足音の主が誰であるかは、確認するまでもありません。
私は急いで作業用のエプロンを外し、部屋を飛び出しました。
暗い店内の奥で、月光を背に受けて立つ長身のシルエットがありました。
ルーク様です。
彼は大きな荷袋をカウンターの横に置き、壁に背中を預けるようにして深々と息を吐いていました。
その衣服は夜露に濡れ、北方の雪山の冷気をかすかにまとっています。
「お帰りなさいませ、ルーク様」
私が声をかけると、彼はビクッと肩を揺らし、こちらを振り向きました。
「ただいま、アリア。こんな時間まで起きていたのか」
ルーク様は疲れた顔に無理やり微笑みを浮かべ、重い足取りで近づいてきます。
彼が今日向かったのは、吹雪が吹き荒れるという北の果ての鉱山街でした。
いくら絶対座標転移のスキルがあるとはいえ、現地の厳しい環境に身を置けば、体温も体力も容赦なく奪われます。
彼の唇はわずかに紫色を帯び、指先は赤くひび割れていました。
「新しい魔法具の調整をしていました。すぐに温かいお茶を淹れますね」
私が奥の厨房へ向かおうとすると、ルーク様は私の手首をそっと掴みました。
「ありがとう。でも、今は少しだけこのままでいさせてくれ」
彼はそのままカウンターの丸椅子に腰を下ろし、両腕を机の上に投げ出して顔を伏せます。
数秒も経たないうちに、彼の規則正しい寝息が店内に響き始めました。
よほど疲労が溜まっていたのでしょう。
私は掴まれた手首の熱を反芻しながら、彼の寝顔をじっと見つめます。
前髪の隙間から覗くまっすぐな眉。
少しだけ日焼けした頬。
そして、机に投げ出されたその大きな手のひら。
かつて勇者パーティーの荷物持ちとして酷使されていた彼の指には、剣を振るうのとは違う、重いものを持ち続けたことによる無数の古い傷跡が残されています。
空間収納という魔法のようなスキルを持ちながら、彼は決してその力に驕ることはありませんでした。
誰かのために泥水にまみれ、自分の身を削ってでも荷物を届ける。
あの日、冷たい雨の中で死にかけていた私を拾い上げてくれたのも、この不器用で温かい手のひらでした。
没落した貴族の娘という肩書きなど気にも留めず、彼は私を一人の職人として、そして対等な相棒として扱ってくれます。
彼のそばにいると、私は自分がただの「アリア」という一人の人間になれたような気がするのです。
私は足音を忍ばせて居住区へ戻り、厚手の毛布を一枚抱えてきました。
眠るルーク様の背中に、その毛布をそっと掛けます。
布が擦れるわずかな音に反応し、彼が身じろぎをしました。
「ん……アリア……」
寝言で私の名前を呼ぶその声は、ひどくかすれていて、無防備でした。
私の胸の奥で、トクリと大きく心臓が跳ねます。
顔に熱が集まるのを感じ、私は思わず自分の両手で頬を包み込みました。
彼にとって、私は便利な魔法具を作るただの仕事仲間なのかもしれません。
それでも構わないと、最初は思っていました。
ですが、彼と共に過ごす時間が増えるたびに、私の奥底にある感情は静かに、けれど確実に形を変えていったのです。
彼が他の誰かに向ける笑顔を見るたびに、胸がチクリと痛む。
彼が危険な場所へ転移するたびに、呼吸が浅くなるほど心配になる。
この感情に名前をつけるのは、まだ少しだけ怖い気がしました。
私はルーク様の隣の椅子に座り、机の上に置かれた彼の左手に、自分の右手をそっと重ねます。
冷え切っていた彼の指先が、私の体温を吸い取って少しずつ温かくなっていきました。
『ルーク様。どうか、明日もご無事で』
声には出さず、心の中で静かに祈ります。
あなたが世界中を飛び回り、誰かに希望を届けるというのなら。
私はこの場所で、あなたがいつでも帰ってこられる温かい灯りを守り続けよう。
窓から差し込む月明かりが、重なり合った二人の手を白く照らし出しています。
夜が明けるまでのわずかな時間、私はただ彼の穏やかな寝息に耳を傾け続けていたのです。




